待てど青紫‐1


 余りに穏やかな一日だ。味わったはずの焦りも憤りも、こうして画布と向き合っていると、それこそ何十年も前の出来事に思えて来る。
 一番安い画布の、更に本来なら捨てるような切れ端だ。それでも、駆け出しの画家とも言えないようなエノウにとって、こんな紙切れも消費するには惜しい。
 尖らせた炭を滑らせ、遠い記憶を浮かべて行く。まだまだ構想の段階だが、これなら何を形取っているのか理解して貰えるだろう。椅子に背を預け遠目で眺めれば、憧憬の痛みが胸を一刺しして行く。

 手持ちの布で画布を包み、エノウは部屋を出た。朝日で溢れた廊下には、当たり前だが明かりはひとつも灯っていない。
 奥様が、いつでも御都合の良い時に部屋を訪ねて頂きたいと仰っています。そう伝えられたのは今朝早くだ。彼女は未だ移動するのに支えを必要とする状態、体に障ると伝えたが、反論は予想されていたようでそれでもと念を押された。
 十中八九、先日の謝罪だろう。自分は胸を張って被害者だと言い切れるが、何とも気が重い。返事がなければいいのに。そんな失礼極まりない願いを抱え、エノウは扉に手の甲を打ち付けた。

「どうぞ」

 ーーもう腹を括るしかない。意を決し、最大限配慮しながら扉を開けた。
 コリンスの寝室へ立ち入るのは初めてだが、予想通りと言うか何と言うか、上質でありながら華美ではない見事な内装だ。
 窓際のベッドで、コリンスが微笑む。今日は体を起こしていられるのか。微かに安堵したが、近付く程その血の気のなさが際立って来た。
 一歩一歩、探るように進み、ベッドの脇で歩を止めた。お加減は如何ですか。問おうとしたが、笑顔を消したコリンスの姿に言葉が詰まる。

「夫人……」
「一欠片の釈明も致しません。アトラー様。私は貴方に護衛を差し向けました。このような場での謝罪となったことと合わせて、心からお詫び申し上げます。私に出来る償いなら、何なりとーー」

 頭を下げ、「申し訳御座いません」と搾り出し、コリンスはそのまま押し黙ってしまった。
 あれは、エノウを巻き込まない為の行いだ。大した怪我もない。幻覚か、夢の類い。軍からの使いだと言う片言の男に諭され、事実エノウもそう思うつもりでいた。だが今のコリンスにそんな慰めは通用しないだろう。
 まだ後を追いたいと思っているのか。生きることに希望の欠片も見出だせず、己を罰することしか叶わないのか。
 ーー本当に? 本当に、残っていないのだろうか。骨の欠片しか、彼女には戻って来ないのだろうか。だとすれば、この世界でどれだけの人間が、後悔と共に生き続けなければならない。

「では、お言葉に甘えまして」

 包んでいた布を剥ぎ、真っ白いシーツの上に、画布を乗せた。俯いていたコリンスの瞳は、少しでも見開かれただろうか。まるで熱せられた鉄を撫でるように、何度も戸惑いながら、皺の浮かぶ指先を画布へと滑らせる。

「全て任せる、と仰って頂けたのは、未熟ながら絵描き冥利に尽きます。ですが夫人、貴女は「あの子に会ったことのある貴方に」と仰いましたよね。自分も同感です。幾ら鮮明で詳細な資料が残っていようと、直接その目で対象を映した経験には代え難い」

 手を繋いで、笑顔を落として、言葉を交わして。

「今この世に生きる物の中で、御子息をーーハイメを、最も愛情を持って記憶しているのは貴女です」

 永遠を信じ、形のない家族と言う囲いの中で共に生きた。

「まだラフの段階ですが、どうかご指導下さい。ハイメの髪はもっと短かったでしょうか? 瞳の色はルジェーロ様似だったでしょうか。笑う時は、もっと、」

 その記憶は、如何なる涙でも漱げない。

「もっと、貴女そっくりの笑い方だったでしょうか?」

 今思い起こさせるのは酷だと分かっている。もしここで拒絶されたならそれまでにしよう。屋敷をすぐ離れ、慰めに一枚だけ依頼通りの肖像画を完成させたら、人に預けコリンスに届けて貰おう。
 所詮は他人、いずれは離れる。一ヶ所に固執するとロクなことがない。この十年で嫌と言う程学んだ。
 じっと、家族三人の並んだ薄っぺらい画布を見詰める。コリンスは、今そこに何を見ているのだろう。

「奥様っ、アトラー様! 失礼致します、いらっしゃいますか!?」

 突然扉を打ち鳴らされ、エノウは反射的に駆け出した。何かありましたか、と問えば、許可もないまま扉が開かれる。教育の行き届いたリネットがここまで焦るとは、一体何事だ。一抹の不安を覚え、エノウは息切れしたリネットの背に手を当てた。

「どうしたんですか、リネットさん」
「に、ニッセン様と、ペネループ様が、屋敷を発たれるとーーもう、裏門の方で馬車に、」
「はぁ!? 今から!? 俺何も聞いてへんで、ちょっと待ってや!」

 走って間に合うかなど考えている暇はなかった。身を半分廊下に乗り出した所で、コリンスに名を呼ばれなければ、エノウはそのまま手摺を乗り越え一階に着地していただろう。

「アトラー様、恥を忍んで、お願いがーー」




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