そこには帰らない‐8


 恐ろしくて顔など見れなかった。それでもサンザに去られるのはもっと恐ろしくて、何とか肘部分の服の弛みに指を引っ掛ける。
 ついこの間まで酒場の給仕をしていた。それだけだ。何も知らないし、逆立ちしたってサンザ達のようには戦えない。イルクシュリからは望まれたけれど、サンザが同じ気持ちでいるとはどうしても思えなかった。

「サンザから見たら、頼りなくって仕方ないかもしれない。逃げた方が辛いからこっちを選んだだけで、立派な矜持がある訳でもない。自己満足みたいなものだし、でもね、」
「不愉快ですね」

 見えない鉛が頬を打つ。
 嫌悪感に満ちた声が、ユキトの四肢に鎖を巻き付けて行く。耐えろ、耐えろと繰り返した。足手纒いが戦場を目指す以上、侮蔑も叱責も山程振りかかって来るに決まってる。
 こんな所で折れて堪るか。奮い立たせようとすればする程、指先に力がこもっていった。

「まるで、私が立派な人間のような口振りだ。周りの人間は皆強くて、弱い自分を情けないと馬鹿正直に責めていれば気が楽ですか? 冗談じゃない、私だって、」

 コリンスの笑みが視界一杯に広がった。
 ユキトは見誤った。彼女の心は折れていた。それでも悠然と振る舞うことでしか己を保てなかったのだと、確かに気付いていたはずだった。

「私だって嫌だと言った。逃がしてくれと、助けて欲しいと、ですがそれでも駄目だった」

 コリンスと、今縋っているこの人の違いはなんだ。
 そんな物存在しない。誰だって自分以外はみんな他人で、思考なんてちっとも読み取れやしないのだから。

「こちらの機嫌がそんなに気掛かりですか? 出来ることがあると知ったのでしょう。ならそんな所に突っ立っていないでさっさと行動しろ!」

 勢い良く腕が引かれ、もつれる足で必死に地面を踏み締めた。見上げれば、見下ろされる。明るい空と鮮やかな若葉を混ぜ合わせたような、あの青緑に。

「私もこれまで通り命懸けで戦います。だから貴女も戦いなさい」

 大人しくしていろと言っても、聞かないでしょうから。サンザがどんな顔をしてそう続けたのか、ユキトは不覚にも見逃してしまった。
 視界が滲む。これは慰めなのか、励ましなのか。そもそも当の本人にそんなつもりなんて全くないのかもしれない。それでも枷は外された。イルクシュリになぞられた頬を、辿るように涙が伝う。

「不細工」

 堪えようとすれば、心底呆れたと言った具合に吐き捨てられる。少しだけ取り戻された視界がまた霞む。きっも眉も目もつり上がって、口元は震えて、本当に不細工で見苦しいのだろう。
 だからって、そんな言い方。
 頑張ると言いたいのに。よろしくお願いしますと、頭を下げたいのに。サンザの袖で鼻をかめば、あらん限りの力で髪を鷲掴まれ、首の骨が抜ける勢いで後ろに引っ張られた。
 またあの青緑が見える。その向こうにはもっともっと明るい青空が広がっているのに、どうしたってこっちの方が綺麗で仕方ない。
 いつだってサンザの言葉がユキトを引きずり上げる。無遠慮で気遣いの欠片も感じられないと言うのに、不思議とささくれ立った感情に染み込んで来るのだから、敵わない。

 逃がして欲しかった。助けて欲しかった。そう思っていた人が、どうしてここまで戦えるのか。農園で怒りに震えたあの瞳は、もっと素直に痛みを吐き出せないのか。
 自分が強くなれば誰かを救える。誰だってみんな他人だと言うのなら、サンザだってその誰かの一員だろう。

「……頑張る」

 温かい涙を乱暴に拭い、評された通りの不細工な笑顔を向けた。人の顔面を散々扱き下ろしてくれたが、心底面倒臭そうに歪むサンザの顔だって同じような物だろう。鼻声で言い返せば、髪の千切れる音が頭蓋骨を震わせる。

「頑張るから戦わせて」

 自ら戦いなさいと言っておいて、こちらから願えばサンザは表情を強張らせた。本当の言葉は奥底へと沈めて、自分一人で全て解決する為に、痛みの滲む沈黙を貫く。今のユキトに、それを打ち破る術はない。
 いつか。いつか、痛みも迷いも口にしてくれたなら。
 不安で潰れそうだ。自分が何処に立っているのかもよく分からない。それでも、たった一つの危うい決意だけが支えてくれるのだから、もう文句なんて言ってられなかった。

「お好きにどうぞ」

 きっと、でも。もしかしたら、でも、何でもいい。どれだけ不確かでも、望めるならそれでいい。
 戻らない日常に焦がれたりせず、この選択を、後悔しないで生きていける。



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