そこには帰らない‐7
このまま目を閉じて逃げ去るのは辛い。色無の存在を知ってしまった以上、もう以前のようには暮らせない。
「イリさん、」
答える代わりに、イルクシュリはユキトの正面にしゃがみ込んだ。この姿勢では彼を見下ろす形となり、笑った時刻まれる目元の小皺がよく見える。
決意を告げる。それだけでいいのに、アッシアとはまた違った安心感を与える存在に、どうしても縋りたくなってしまう。
「イリさんは、色霊師だから黒獣と戦えるんですか?」
イルクシュリだけに限ったことではない。アッシアもサンザも、どうやって戦いを選択し、圧倒的な脅威相手に命懸けで戦えるのだろう。自分と何が違うのだろう。
「そうだヨ。この力があるから戦うって決めタ。でもゴメン。俺に逃げるって選択肢はなかったからサ。そもそも望まなかっタ。だからユキトちゃんの不安を払ってあげることは出来なイ」
抽象的な返答に、思わず首を傾げそうになる。イルクシュリは泣く子供をあやすように、ユキトの頬に手を添えた。かさついた皮膚の感触が心地好い。今触れているのは人間だ。彩水でも、黒獣でも、真っ白な亡骸でもない。
「俺にも家族がいたけど黒獣に殺されタ。だから、自分から望んで、頑張って戦ってまス」
熱の宿る掌が鉛に思えた。
寒空の下、限界まで頬が冷やされたいつかを思い出す。
家路を辿りながら、幾つもの窓とすれ違った。家族の団欒が見える。爆ぜる暖炉の炎は、何処までも遠く無情だった。
炎が貫き、体温を奪って行く。トドメを刺された。イルクシュリも同じだった。彼も戦っている。なら、自分は?
額が重ねられる。鼻にぶつかる眼鏡の硬さだけを、震える頭が理解した。
「俺は好きでここにいル。こうするコトでしか、俺は自分の命を許せなかっタ。だから君を慰められなイ。恐れる君の気持ちが俺には分からない」
そんな悲しいこと言わないで欲しい。伝えたいのに、喉が恐れに塞がれる。
「今言えるのは、俺も君の力を必要としている人間の一人だってことだケ」
酷い大人ネ。ごめんネ。イルクシュリが至近距離で声を発せば、骨を伝って振動か届く。
何が酷いのだろう。誰もがはぐらかそうとする現実を、真正面から突き付け、誰もが誰かに任せたい言葉をぶつけてくれた。イルクシュリは優しい。だからこんなにも非情でいられる。
戦うのか。ぼんやりと、それでも確信した。当たり散らす気にもならず、戦いへ引きずり込もうとする人間に、憎しみの一つも湧いて来ない。
戦うんだ。サンザのように、イルクシュリのように、アッシアのように。
赤と黒に塗れ、この力を振るう。
「少し、一人になっていいですか?」
鼻を啜りながら微笑んだ。どんなに酷い顔だろう。言葉も、声も、何もかも滅茶苦茶に歪みっ放しだ。
「……うん、分かっタ」
ユキトの物よりずっと長い親指が、瞳の真下から顎まで一本の線を引き離れる。まだ流れない涙を促すような、僅かに痛みを覚える触れ方だった。
イルクシュリは立ち上がると、あっさりユキトに背を向けた。淀みなく歩を進めるが、角を曲がればその姿は建物の向こう、そんな所で足を止める。
「聞いた? サンザユキトちゃん一人になりたいんだっテ」
イルクシュリが勢い良く左腕を突き出せば、くぐもった衝撃音の後、短く唸る声が曲がり角の向こうから聞こえて来た。
追い越して行く。
そうして高らかに、門出を祝う鐘が鳴った。
脇腹に拳が捩じ込まれ、サンザの喉から反射的に声が漏れた。睨み付けるが視線は交わらない。イルクシュリはユキトの言葉を繰り返しただけで、後は何も告げず壁に凭れるサンザを置き去りにした。
名を呼びそうになるが、直前で思い留まる。今は何の音も発してはいけない気がした。壁の向こう、ほんの少し身を乗り出せばユキトがいる。
彼女は今さっき逃げられないと口にした。自分と同じ境遇で、自分より長く命を賭して来た人間に、その力を望まれた。一人になりたいと、みっともなく音程を外しながら呟いた。
叱責の洪水が蘇る。ユキトも、いずれこちら側に放り込まれる。
「サンザ?」
一本の腕が曲がり角から現れた。風が吹き、サンザの髪がさ迷う指に絡まる。途端、口に餌を放り込まれた獣のように、凄まじい瞬発力で毛先が掴まれた。頭皮に鋭い痛みが走る。振り解こうと肘をぶつければ、髪は簡単に解放され、代わりにサンザの腕を拘束して来た。
正確には、腕と言うより、服の弛みを緩く挟まれただけ。それでも、サンザにはそれが立派な拘束のように思える。
サンザからはユキトの右腕しか視認出来ない。恐らく、ユキトも同じ状態だろう。
「ねえ、今の聞いてた? サンザが任せてくれたから、私何が出来るか分かったの。だからーー」
誰かから命じられた訳でもない。色無が重要な力だと、理解はしていただろうが、今はただ王連院から逃れる為サンザと行動を共にしているだけだ。
それなのにユキトは自ら戦いを選ぼうとしている。その決断にアッシアの思惑がどれだけ干渉したのか、サンザには分からない。真綿で首を絞めるかの如く、信頼する肉親に退路を断たれた彼女の感情は、今どんな言葉で表現されるのだろう。
一人になりたいんじゃなかったかと、緩い拘束から逃れることは容易だ。
何の制限もない。なら頑張れと、いつものように遠慮なく命令出来る。
なのにどうして、この二本の足とたった一枚の舌は、いつまで経っても一向に動こうとしない。
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