そこには帰らない‐3


 農園から戻り、それはもう目の回るような慌ただしさだった。
 屋敷の者達からはコリンスとリネットの安否を問い詰められ、途中でサンザに追い返されよく知らないと誤魔化した。
 人垣をかき分け現れた護衛の男は、目にも止まらぬ速さで床に這い蹲り、ひたすらに謝罪して来るのだから堪らない。気が済むまで吐き出して貰おうかと思ったが、さすがに腹も首も切り傷も痛むし格好が格好なので、適当な所で引き上げさせた。
 ユキトと自分、後は未だ農園にいる三人の分の湯を準備するよう侍女達に頼み、エノウは宛がわれていた客室へ向かった。今はとにかく休みたい。一晩の騒ぎにしては、何もかもが規格外過ぎる。

 護衛がエノウを襲った理由は、やはりコリンスの仕業だった。
 エノウの腕を見抜いた上で、自分が姿を消せば救おうとするのではと危惧し、屋敷へ留まらせるよう護衛に命じたのだ。彼はサンザからの命令だと聞かされていたらしい。コリンスの目的は黒獣と対峙すること、正直に打ち明けられるはずもなかったのだろう。
 ーーああ、だからあんなにも手を抜いていたのか。素人に毛が生えた程度の設定で応戦したのに、全く踏み込んで来ないからおかしいと思った。
 エノウは窓枠に腰掛け、乱れ汚れた前髪をかき上げた。夜の帳は下りたまま、夜明けはまだ東の果てだ。

 扉の向こうでは、複数の話し声と足音が途切れない。屋敷の者は皆眠れぬ夜を過ごすのだろう。
 コリンスとリネットはどうだろうか。リネットには、相手を動揺させる為とは言え、ナイフを向けてしまった。彼女のことだから、そもそも怒ってなどいないのかもしれない。それでも罪悪感は残る。力も何も持たない細い身体に刃を向けるのは、もう懲り懲りだ。

「あー……疲れた……」

 曇りの一つもない、よく磨かれた窓硝子に頬を寄せる。侍女と同じように客室へ戻ったユキトは、眠れているだろうか。そもそもサンザは何故非力な少女を同行させたのか。そして、コリンスは何故、黒獣の元へ自ら足を向けたのか。
 悲しいかな、最後の疑問は既に答えが出ているような物だった。偶然でも必然でも、その結論は余りに残酷だ。
 静止したせいで、疲労が一気に押し寄せて来た。このまま床で仮眠でもしようか。欠伸を噛み殺しながら、意味もなく巡らせた視線の先に、ふと蠢く影を見た。

「え?」

 エノウが走り回った庭園の中を、のろのろと動く人。屋敷の者かと思ったが、彼らに今庭園を散策する暇などないはずだ。ーーなら、アレは何だ。
 逸る心臓がもう堪えてくれと悲鳴を上げる。それでも、見過ごすことなど出来ず、エノウは窓をほんの少しだけ開放した。
 途端、貫かれる。
 猛る炎の頂点が、闇の中で二つ瞬いた。それが掠れた橙の瞳だと気付いた時、窓が勢い良く開け放たれ、夜風が熱の戻らない身体に襲いかかる。
 何をどうしたのかさっぱり理解出来ないが、とにかく、男が庭園からこの窓枠へ移動して来た。地面から、建物の二階まで、一っ飛びで。
 黒い髪を靡かせ、さも友人の部屋を訪ねて来たかのような軽い口調で、男は問う。

「コンバンハ。こう言う者ですけれド、中に入れてくれますカー?」

 次は何だ。叫びそうになりながら寸出の所で堪えた自分を、誰でもいいから褒めて欲しかった。





 結局、屋敷に戻れたのは夜明け前で、それでもすぐには休めず走り回る羽目となった。
 精根尽き果てたコリンスを休ませ、リネットの聴取に付き添い、屋敷の者達に偽装した顛末を説明する。最低限の用事を済ませてやっと、東の空が薄っすら明るくなっていることに気付いた。
 一夜明けただけだと言うのにこの疲労感は何だ。間違いなくあの例外達のせいだ。少しでも休もうと、客室の扉を開ける。

「ハーイ、サンザ、元気ネー?」

 脱いだ靴を投げ付ければ、耳障りな悲鳴が鼓膜を揺らす。何処に命中したかなどどうでもいい。仰向けに転がるイルクシュリを床へと引きずり落とし、サンザはその身をベッドへ沈めた。シーツの冷たさが心地好く、否応なしに意識が混濁する。

「……元気じゃないネ」
「見て分からないか無能」

 わざとらしく背を向け、無言で退室を促す。次の鐘まで眠れれば上出来だが、今はほんの一呼吸でも思考を空にしたい。朝日と共に射し込んで来る、小鳥の囀りなど聞こえない振りをして。

「えーっとネ、サンザ」

 ベッドの軋む音がして、腰掛けられたのだと理解する。まだ何か邪魔するつもりか。足を叩き込んでやろうかと思案した途端、後頭部を爪が掠め、ふと目元の緊張が和らいだ。髪の流れる感触が背中に伝わり、解くことも忘れ横になった自身の行動を顧みる。

「お疲れ様。また起こしに来るヨ」

 目の前に髪紐を落とされ、再びベッドが音を立てる。遠ざかって行く足音が、意識を一緒に連れて行くようだ。霞み始めた視界の中で髪紐の赤だけがいつまでも主張を止めない。
 黒獣を拘束した、無数の赤い糸。確かに自分の彩水から作られたはずなのに、恐ろしい程の鋭さを帯びていた。甘さと未熟さを混ぜて煮詰めたような少女が、自らの意思で生み出した物とは、到底思えない。思えないが、事実だ。どうしようもない程の現実だ。
 叱責の洪水が止まない。幾度となく浴びせられたせいで、奴等は確実にこの身の一部となっている。

 逃がさない。
 絶対に。
 力があるなら戦え。望まずとも、愛されようとも、嘆こうとも膝を付こうとも身を焼かれようとも血に塗れようとも戦え。
 逃がさない。
 命ある限り、その力の果てまで、追い詰めると。誰もがずっと、叫んでいる。



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