そこには帰らない‐2


 太陽の温もりは、触れる指先に及ばない。花の色彩が、血色の良い頬を見て敵わないと引き下がる。四季折々の美点を敷き詰め、空想の限界を集めた、どれだけ美しい光景も、命の軌跡の前では引き立て役だった。
 平穏と幸福が満ち足りていた。鮮やかな永久が、横たわっていた。
 そこには確かにあなたがいた。
 きっとこれからも永遠に、私の夢の中だけに。





「だから言ったろうが、頭悪ぃって」
「しかもあの腑抜けが血の色持ちだと? 最低の冗談だな。悪ぃのは頭だけにしてくれ」
「こんな足掛かりで満足してんじゃねぇぞ」
「とっとと目ぇ覚ませ、死に損ない!!」

 海から顔を出す。だのにちっとも息苦しさが消えない。

「ーーう、あ!?」
「ユキトちゃんっ! しーっ!」

 すぐそこに、青天の太陽にも闇夜の月にも見紛う金があった。
 唇に押し当てられた長い人差し指のもう片方を、エノウは自分の口元に翳している。静かに。優しい声色で命じられ、理解しないまま思わず頷く。

「……警備兵がもう来てる。サンザがな、この場にいたことがバレたら後々面倒やから、隠れとけって」

 聴取とか、酷いらしいで。苦々しく呟くと、エノウは上着を脱ぎユキトの肩へかけた。そうしてよく見えるようになった白いシャツは、襟元が不自然に弛み、ボタンが三つ目まで開いている。開いている、と言うより、ボタンが千切れ開けるしかなくなったのだろう。
 逞しい胸板が目に入った所でエノウと視線がかち合い、途端に苦笑を返される。

「だらしない格好でゴメンな」
「何言ってんのそれはサンザがーー! ……サンザは!?」

 エノウの背後で、小石が一つ地面を転がる。目を凝らせば、黒獣によって放り投げられた岩盤や木々が、折り重なり壁のように立ちはだかっていた。その高さは、しゃがんでさえいれば、ユキトもエノウも容易に隠せる程だ。

「サンザは警備兵に囲まれてるわ。ユキトちゃんが目ぇ覚ましたら、一緒に戻れって……リネットさんが馬繋いでくれてる」

 即席の壁の隙間から、向こう側を覗き見た。漂う炎と木々の影。照らされては消える見知らぬ人々の横顔。それ以外には、何もなかった。

「ユキトちゃんも気絶させられたんやろ? ホンマに、サンザは一体何したんや……」

 腹を撫でながら、エノウが苦しげに呻く。思わず事の顛末を口にしそうになったが、経緯は違えどユキトは本当に気絶していたのだ。前回もそうだった。色無を使うと意識が途切れる。何がどうなって、こんな有り様になったのか説明出来ない。

 誰かが歩を進める度、罅割れの乾いた音がする。辺りに散らばった白骨は、微風の一吹きで容易く崩れそうな程、脆い。
 あまりに目立つサンザの後ろ姿に、警備兵が駆け寄っては離れ、また同じことを繰り返していた。浮き足立っているのが目に見えて、思わず脱力する。
 成功したのか。黒獣の残骸は見受けられず、残されたのは無数の骨ばかり。これが、黒獣だけ消し去った結末か。
 こんな風に隠されて、結局表に立つのはサンザだ。失態も過ちも、ユキトの分まで糾弾されるのはサンザ一人だ。

 震える肩を誤魔化すように、エノウの上着を深く羽織った。俯くユキトの傍らに、ゆっくりと他人の熱が移動して来る。エノウはユキトの背中を擦り、耳元に唇を寄せると、囁いた。

「ユキトちゃん、夫人」

 弾かれるように顔を上げれば、距離が開いているはずなのに、視線だけを送って来るサンザの様子がはっきりと見えた。褐色の瞼が震え、警備兵が散って行く。
 サンザが指示したのか確認も出来ないまま、彼は数歩横に移動した。

 蹲る人影に、息が詰まる。サンザの翳すランプが頭上で揺れ、その度コリンスの白髪が橙色に染まった。
 赤も黒もない。真っ白な骨と、色の無い涙を零すコリンス以外、そこには何もなかった。腹の奥で波がうねる。胸の奥で鐘が鳴る。初めて見た弱々しいコリンスの姿に、意識せずとも過去の記憶が湧き上がった。
 溢れる感情に蓋もせず、己の苦しみを吐露するばかりの頼りない子供。
 それは間違いなくかつてのユキトだった。ちょうど両手の指と同じだけ昔になった。それでも霞むことのない光景が、溢れ出す。

 ーーすまない、これだけしか見付けられなかった。

 煤けた指輪をはめたままの白い欠片。それが何なのか、分からない振りなど出来なかった。そうしてやっと、悲劇に襲われたのだと、自分が自分に突き付けた。
 逃れようのない程、正面から囲いを打ち砕く。
 何よりも自分が経験した苦痛だったと言うのに。一時でもコリンスを救おうなどと思った浅はかさが、ユキトに重く圧し掛かった。

「夫人、泣かんなったんやって。家族が亡くなってから一回も。やから、これが初めてやな」

 縋り付きたくなる程の心地良い声が、触れた指先から染み込んで来る。
 無理矢理引きずり出した涙が、彼女の渇きを癒すか、足元に泥濘を作るか。今のユキトには、想像する気力も残っていなかった。



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