そこには帰らない‐1

 
 夜がうねる。
 身を溶かす暗闇が、今は心地好かった。赤も金も、あまりに幼く輝く物だから、曇ったこの目では直視出来ない。
 光が沁みる。色が刺さる。緩慢に開く瞳が、雛のように震える背中を映した。

「呆れたな……あったまの悪ぃ色無もいたモンだ」





 サンザの掌の上で、薔薇が溶ける。赤い液体が零れ出し、血と見紛う程の水溜まりを作り上げる。後に残されたのは、硝子で作られたような、透明の花びらだけだった。
 吸い出された赤い液体ーー彩水は、月のように空中へ浮き上がった。また、赤い月だ。サンザの操る真紅の鎌は、既に個体としての定義を失っている。輪郭を持たない波が空を漂う、奇妙な光景。だが、眼前で泳ぐこの小さな球体の方が、サンザの持っていた彩水より鮮やかに見えた。

「私も、焦る時は焦るので 」
「知ってる」
「は?」
「ごめん、忘れて」

 促されるままに、大きな掌に自分のそれを重ねる。サンザが空いた手で空を斬ると、偽物の小さな赤い月が、手の甲にゆっくり降下して来た。

「一回だけ試します。失敗すれば、予定通り通常の討伐を行う」

 赤の彩水は、独りでに這い回りユキトの指先まで覆って行く。温かい。見た目は血と大差なく、違いと言えばあの独特の鉄臭さの有無だけだが、不思議と不快には思わなかった。

「必要最低限の条件を。黒獣だけを分離し、消し去る為には、奴等の表面積の半分を、この彩水で覆わなければならない」
「半分!? あれの半分!?」
「そう。ですから、容易ではない。一度の試みで、恐らく彩水の大半は持っていかれる。鎌を一本、作れるだけの彩水とーー」

 サンザが手を翳すと、無数の赤い礫が黒獣へと向かい、目にも止まらぬ速さで四肢へと着弾した。黒獣は呻き声を上げ、地響きと共に膝を付く。

「この一撃分以外は、全て貴女に託す」

 掌程の球体が、サンザの右手に収まった。それ以外の彩水はユキトの周りを漂い、緋色の段幕を作り上げる。守られているように思えるそれを、ユキトは意のままに操り、黒獣を消滅させなければならない。
 唾を飲み干し、喉が音を立てる。
 何をすればいい。自分から言い出したことだ。要望に答え、サンザは選択肢を与えてくれた。これが自己満足かどうかなんて、そんな物終わってから幾らでも悩めばいい、今は必要ない。

「巨大な黒獣の半分を覆い尽くせる“何か”を、貴女が考えなさい。私の鎌を作り上げた時のように。今の貴女の修練度では、思考の底から自然と浮かぶ物でなければ作れないでしょう」
「何か……何か、って……」
「覆い隠し、離れない。そう言われて浮かぶ物は何ですか。黒獣でなくてもいい。何かを隠せと言われて、貴女が探す物は?」

 最初に浮かんだのは、箱だった。中にしまい込んで、隠す。けれど、覆い隠すと言われれば、何処となく用途に沿わない。
 覆う。何度も何度も繰り返し、心音の妨害を掻い潜れば、ふと懐かしい光景が脳裏を過った。ほんの一瞬で、それでもその記憶はあまりに優しく。やかましい心臓を容赦なく引き絞る。
 夕立に降られたユキトを、花の香りが漂うタオルで覆い抱き締めてくれたのは、父と母のどちらだったか。あの柔らかい愛情からは、どれだけ身を捩っても逃げられないと確信していた。
 途端、彩水が動く。
 青空を染める夕闇の幕、夕闇へ降りる夜の帳。布のように薄く広がった彩水が、一直線に黒獣へと向かう。

「動いた!」
「ーーそのまま」

 どうかこのまま消えないで。祈れば布は更に面積を広げ、漆黒の巨体に正面から覆い被さった。
 赤が黒を覆う結末。それだけを思い浮かべ、サンザを見上げる。褒められるなどとは思っていないが、成功した証明が欲しかった。

「貴女にとって布とは、破れて当然の存在でしょう」

 予想外の指摘と、想像もしていなかった展開が重なる。
 強固に思えた赤の布は、容易く引き裂かれた。形を失った途端霧散した彩水は、黒獣の皮膚や体毛を汚し、返り血を彷彿とさせる光景に寒気が走る。
 まさか、呆然とするユキトに、サンザは容赦なく追い討ちをかけた。

「現実の布は脆弱でも、自分の作った布は絶対に破られない。そう思える程に己の能力を信頼していなければ、何を作ろうと紙切れ同然です」

 サンザの指が、静かに離れて行く。残されていた球体は瞬く間に鎌の形を形成し、突進して来る黒獣に切っ先が向けられた。

「今の貴女には力が足りない。思い知ったでしょう」

 待ってなんて、言えるはずがない。
 黒獣は倒せるのだ。確証の得られた解決策は目の前に提示されている。
 乾き切った喉が、痛い。歯痒さが、冷静な思考をじわじわと焼いて行く。成すべきことが分かったのに、何も出来なかった。

「諦めなさい」

 私は、色無なのに。

「砕け、解け。覆えないなら掻い潜れ。目標の裏側までブチ抜いてみせろ」

 零れかけた涙を、不機嫌な声が拐っていく。誰の物か考える間もなかった。離れようとするサンザの手を無理矢理掴み、瞳が霧となった彩水を射抜く。
 思考の靄が晴れて行く。
 “覆えないなら掻い潜れ” 響いた言葉の先、生み出すべき物が明確に見通せた。

「まだ!」

 霧が晴れる。水が凝固する。ユキトの叫びに呼応するように、彩水の全てが、細くしなやかな糸へと変貌した。
 何故布だけに固執する。表面積を埋めることが出来れば、何でもいいのだろう。爪にも牙にも引き裂かれず、覆うのではなく、そうだーー巻き付いてしまえば。

「糸……」
「これならいいでしょう! まだ、半分に行かない!?」

 細かい算段はもう立てられなかった。蜘蛛の巣が獲物を捕らえる様だけ思い浮かべ、手探りで糸の量を増やす。滅茶苦茶に動く物もあったが、ほとんどの糸は、暴れ回る黒獣が自ら巻き取ってくれた。
 黒が赤に染まる。その向こうに、飲まれた人の亡骸がいる。狂った獣のようにがむしゃらに、一筋の光明だけを凝視した。
 この一歩を踏み出せば、もう戻れないと分かっていても。
 きっと全てが、アッシアの思ったままなのだとしても。

「取り返して! サンザ!」



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