燃える月の睨む先‐1



 その嘆きに如何程の価値があると言うのか。
 待っていてやるから、証明してみろ。





 一太刀避ける度、花弁が、葉が散り宙を舞う。その度コリンスの笑顔が浮かび、エノウは何度も謝罪した。
 相手の獲物は長かった。頬の横を掠めた剣は、仄かな月明かりも眩く反射させ、日頃の手入れの丹念さが伺える。それに比べ、手の中にある刃物の何と脆弱なことか。借りておいて文句は言えないが、前向きな計画は立てられそうになかった。
 真っ向から応戦する気など更々ない。出来ればのらりくらりと逃げ回って、向こうの息切れを待ちたかったが、それ程甘い相手でもないようだ。最悪、目的さえ見えればそれで良い。半ば開き直って、繰り出された拳を避ける為生垣へと飛び込んだ。

「こんな素人相手に、どんだけ時間かかっとんねん!」

 挑発を口にするが、太刀筋に感情は乗って来ない。苛立ちを込めた舌打ちで全て吐き出す。感情を落とさなければならないのは、こちらも同じだ。
 生垣から蔦を引き剥がし、放り投げる。棘の感覚が手袋越しに皮膚を嬲るが、何とか出血は避けられたようだ。
 剣を真横に薙ぎ払う男との距離を一気に詰める。屈強な右腕の下を潜り抜け、即座に身体を反転させた。勢いのまま膝を振り上げ、肘を降り下ろす。
 関節を挟むように狙った攻撃は、寸出の所で避けられた。だが、エノウの膝には骨を打つ鈍い衝撃が残っている。
 身体の中を這う鈍痛は、さぞや不快だろう。蹴りの入った右手首を左手で抑える姿に、思わず笑みが零れた。

 これが普段なら、ナイフで目玉か親指を狙ったと言うのに。
 面倒臭い。それでも、世話になった人間の屋敷で、流血沙汰は極力避けたかった。
 痛みに唸る男を置いて、エノウは庭を疾走した。数拍置いて、重い足音が追い掛けて来る。薔薇が上着のベルトに引っ掛かり、何本も千切れて行く。
 ごめんなさい。噛み合わせた奥歯の隙間から、謝罪が漏れた。
 靴底に伝わる感触が、柔らかい芝生へと変わる。視界に飛び込んで来たのは、白地に鈍い金の紋様が走る、丸机と三脚の椅子。見覚えのある空間。昼間、ユキトとリネットと一緒に、悠々と紅茶を楽しんでいたのが嘘のようだ。
 暗闇の中、ポツンと浮かぶ白の椅子へと駆け寄った。背凭れを掴むが、そこで視線を数度巡らせ、手を離す。
 机の脇に転がっていた、剪定に使ったであろう簡素な木の踏み台。
 引きたくるように持ち上げたと同時、男が生垣の間から姿を現した。

「ほんっまに、夫人っ、と、リネットさんに嫌われたら、お前のせいやぞ!!」

 男の構えた剣が、一瞬揺れた。その光景に確信する。
 「ほんまに、嫌われるかも」
 荒い息の中漏れた不安を払拭するように、渾身の力で、踏み台を屋敷の壁に向かって放り投げた。叩き付けた、と言った方が正しいかもしれない。とにかく、地面を抉らんばかりの力で蹴り、肩から背中から全ての筋肉を動かして、踏み台を叩き割った。
 音が暗闇を走る。飛び散った木屑が頬を掠めるが、構う気にはなれない。まだ形の残る板を掴み上げると、再び壁へと叩き付けた。

「ーー気でも狂ったか」

 背に刺さる声に、「ごもっともです」と返しそうになる。思惑通りに行かなければ、確かにこの行為は狂人のそれだろう。静まり返った庭園で、片手間に神への祈りを囁いた。

「今度は中庭か!?」
「一体どうしたの、さっきの叫び声はーー」
「貴女達、奥様から何を学んだと言うの! うろたえるなら後になさい!」

 高潔さの滲む声が窓から漏れる。ーーやった。歓喜を搾り出した口元は、きっと醜く歪んでいるのだろう。
 屋敷の中から、足音が向かって来る。「リネット、待ちなさい!」焦りを帯びた声も聞こえたが、ずっとずっと遠くの方だった。
 迎えるように、通用門へ向かった。あの扉も、昼間、自分とユキトが使った物だ。きっとリネットも、同じようにしてこの庭園へと足を運んだのだろう。

「何事ですか!」

 開かれた扉の向こうからリネットが姿を現した。ランプを掲げ、漆黒の闇に包まれた庭園を睨み付ける。エノウは一気に跳躍し、リネットを扉の下から庭園の中へと引きずり込んだ。
 結い上げたリネットの長い髪が、はらりと解ける。掌で口元を覆えば、少しの力で無防備な喉元が晒された。
 苦し気な呻き声に胸が痛む。見開かれた瞼の中、眼球が驚愕に震えていた。

「動くな!」

 ごめんなさい。もう何度謝ったか知れないが、まだまだこれは続くのだろう。
 リネットの身体を一層強く拘束すると、そのか細い喉元に、サンザから借り受けたナイフを押し当てた。





 ーー黒獣が出現してから、もう十年経った
 ーーいつの世も、一番恐ろしいのは生きた人間なんですよ

 サンザの言葉が反響する。分かったような口を聞いておきながら、心の底では間違いであって欲しいと願っていた。黒獣の脅威に、人間の欲望や悪意が絡んで来るなんて。
 劈くような悲鳴が聞こえ、黒獣だと認識する前に部屋を飛び出していた。もぬけの殻だったサンザの部屋で悪態をつき、本能に任せ走り続ける。
 廊下を駆け抜け、扉を幾つも開け放ち、弾む息を整える暇もない。やっと目当ての人物を見つけた時、反射的に不満が漏れた。

「サンザ! どこ行ってたのよ、何、迷子!?」
「お前これ終わったらこの馬の尻に頭ねじ込め」

 地の底から響くような声が、とてつもない罰を予告する。頭が理解しない内に、半ば引きずるようにして馬上へと持ち上げられた。

「あっ、ちょっ、ゴメン私そう言う趣味なっ、」
「農園に向かいます。それまでに無駄口叩くようでしたら、前倒しで馬の腸内訪問実行しますので」
「だからそんな趣味ないって言ってんでしょ!?」

 ユキトの抗議を無視し、サンザは馬の足を一気に速めた。後方に比べればまだマシだが、ユキトにも大きな揺れが伝わって来る。手綱を握るサンザの腕が、柵のように両脇を守るが、気を抜けば振り落とされてしまいそうだ。

「屋敷からっ、離れちゃっーーいいの!?」
「不要です。黒獣は恐らく農園から動かない」

 言葉を遮られたが、不思議と不快さは感じなかった。むしろ内容を先読みしてくれて助かった。こんな振動の中喋り続ければ、舌が何枚あっても足りないだろう。
 仰ぎ見たサンザは、暗闇をじっと睨んでいた。その向こうに、満天の星空が見える。大きな月も、不気味な程の光を地上へと注いでいた。

「夫人、が、」

 縋るように、語尾へ困惑を滲ませた。「黒獣は農園から動かない」断言する様は、現場を見たのかと疑いたくなる程だった。
 肯定も否定もしないまま、サンザは沈黙を貫いた。細められた瞳には、普段の気だるげな光など一筋も宿っていない。馬蹄が地を何度も何度も蹴った。秒針のように同じ音を繰り返し、刻一刻と迫る現実を、容赦なくユキトに突き付けて来る。
 掌で、思い切り頬を打った。両手を振ったせいでバランスが崩れ、肩がサンザの腕にぶつかる。即座に額が頭頂部に打ち付けられた。本当に、容赦がない。
 痛みを堪えながら、前を向いた。
 黒獣がこの先にいる。人を食い、大地を汚す異形が、確かに存在しているのだ。

「お願い、無事でいて」

 切実な願いが咆哮にかき消される。木々が開け、目の前に広大な農園が広がったと同時、ユキトはあらん限りの声で夫人の名を呼んだ。



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