燃える月の睨む先‐2


 決した。リネットが悲鳴を上げる前に解放し、エノウは駆け出しながら勝利を確信する。
 腹の肉の感触が靴底に伝わり、続けて繰り出した肘は、確かに顎の骨を捉えた。男の眼球が一瞬エノウを射抜く。が、すぐ様ぐるりと裏返り、剣を落とした後その場に崩れ落ちた。

「なっ、何が、」
「リネットさん、ほんまゴメンなぁ。嫌いになってくれてえぇよ」

 地に伏した男の髪を掴み、持ち上げる。顎への一撃が余程上手く入ったのだろう。苦痛に呻くこともなく、あっさりとその素顔が晒された。
 背後から、リネットの息を呑む音が聞こえる。対照的にエノウは息を長く長く吐き出した。間違っていて欲しかった。予想が当たって、こんなにも肩を落とす羽目になるとは。

「サミュエル、どうして……!」

 あまり親しく話したこともなかった。だが、コリンスへ影のように付き従っている姿は、嫌でも印象に残っている。
 雇われている護衛の中でも、一際腕が立つと評判だった。彼は確かーー昼間、コリンスと共にサンザを農園へと案内したはず。
 エノウは手際良く男を拘束すると、剣を拾い上げリネットと向き合った。

「夫人はどうされました?」
「アトラー様、これは一体どう言うことですか!?」
「夫人は?」

 わざとらしく剣を鳴らしてみれば、分かりやすくリネットの肩が跳ねた。
 普段ヘラヘラと笑うばかりの男が、抜き身の剣を持ち、目の前で有能な護衛を昏倒させた。その事実がリネットにどう伝わるか、エノウは充分理解していた。
 予想通り、リネットは数歩後退り、無言のまま首を横に振った。それでも逃げ出そうとしない辺り、やはり大した物だと密かに感嘆する。

「そうか……リネットさんも知らへんってなったら、一大事やなぁ……」

 倒れた男の腰から鞘も抜き取り、剣を収める。途端、黒獣の咆哮が再び空を震わせた。リネットの瞳が揺れ、エノウは拒絶を覚悟で歩み寄った。

「今すぐ屋敷の人等避難させて。地下辺りに場所作ってるやろ? 夫人のことはサンザがなんとかするやろから、絶対外に出さんといてな。この護衛さんも、人呼んで運んどいてくれる? 屋敷まで来んと思うけど、最悪のこと考えて、な?」

 矢継ぎ早に用件だけ伝え、エノウは駆け出した。引き留める声を置き去りに、途中倉庫から弓矢を拝借し、馬小屋に辿り着く。端から端まで中を見て回り、己の勘の良さに愕然とした。
 いない。美しい青毛を持つ、コリンスの愛馬が。
 コリンスが不在の屋敷で、彼女に付き従うはずの護衛が自分を襲い、愛馬が姿を消した。まさか。表面上で否定の言葉が浮かんでも、奥底ではもう理解してしまっている。
 矢入れを背負い、剣を腰のベルトに通した。一番動揺していない馬を選ぶと、迷うことなくそのまま跨がる。裸馬での移動は辛いが、今はとにかく時間が惜しい。

「アトラー様!」

 走り出そうとした時、リネットが息を切らせ飛び出して来た。エノウが問う前に、「他の者は避難させています!」と、上擦った声で告げられる。

「貴方は何か御存知なのですか? サミュエルは、あの者は、夫人の元を勝手に離れて、あまつさえ人を襲うなんて、今までただの一度だって……!」
「そうやね、せやから、勝手やないんとちゃう? ちゃんと“命令”されたんやろうなぁ。他でもない、自分の主人に」

 いつも上品に振る舞うリネットが、髪を乱し、困惑と悲哀で表情を歪ませている。冷静であろうと努めているが、その様が余計に痛々しい。
 当然と言えば当然だ。この屋敷で長く働き、コリンスを母親のように慕っている人間は多い。まさか彼女が、護衛にエノウを襲うよう命じたなんて。俄には信じ難いだろう。

「リネットさんも早く避難して、夫人やったら大丈夫、サンザがーー」

 あまりに鮮やかで、思わずその背を見送ってしまった。
 数秒の後、嘶きに背中を押され、リネットが馬に乗って駆け出してしまった現実を把握する。

「はああああ!? リネットさん! アカンて! うわっ、全然こっち見てくれやん、リネットさん!!」

 無様な叫びは誰にも届かない。まさか、丸腰で黒獣の元へ向かう気か。自殺行為だ。
 どうしてこの国には、こうも行動力のある女性が多いんだ。とうとう国民性にまで悪態をつき、エノウは小さくなる背を必死で追った。





「コリンスさんあんた何やってんのーーー!!」

 完全に、何も考えていなかった。
 サンザが「黙ってろ子豚!」と喚いていたが、ユキトの意識は既にコリンスの元へと向かっている。
 農園と林の間に伸びる道、そこに一人佇むコリンスと、林の木々を揺らす何かの存在。まずい、危ない、どうしよう。お手本のようにうろたえれば、サンザはユキトの鼻を掴み、千切れんばかりの勢いで引っ張り上げた。

「子豚の貧相な肉じゃ餌にもならないのでせめて静かにしていて下さい」

 コリンスの真後ろまで一気に馬を走らせ、ユキトはサンザの指示を待たず飛び降りた。全くもって静かにしていないのだが、もう背後の恐ろしい空気を気にする余裕もない。

「コリンスさん! 早く、こっちに!」

 林の影で蠢くのは、十中八九黒獣だろう。何故すぐ襲って来ないのか、疑問は微かに浮かんだが、今は別の考え事で頭が一杯だ。
 ユキトはコリンスの腕を掴み、怪我はないかと爪先から頭まで視線を巡らせた。汚れも血痕も見受けられない。一時の安堵を得て、コリンスを見上げる。
 そうして、手に入れた安息が一気に吹き飛んだ。
 彼女は、こんな状況の中で、何でもないように優しく笑っている。サンザが駆け付けたことに対する喜びは、その笑みから読み取れない。
 微笑むその姿に、昼間は威厳と気高さを覚えたその顔(かんばせ)に、言い様のない不安が芽生えた。何故。黒獣がすぐ側で吠えているのに、何故武器も持たない女性が笑っていられる。

「下がって下さい」

 サンザがユキトごとコリンスを下がらせた。辺りをうろついていた、青毛の馬ーー恐らくコリンスの愛馬だろうーーが、心配そうに主人の背を鼻で撫でる。

「ニッセン様、黒獣に間違いありません。やはり私を襲うのは躊躇うみたい。しばらくこうしていたのだけれど、一向に林の中から出て来なくて」

 凛とした声には聞き覚えがあった。屋敷でユキトの名を呼んだ、コリンスの物で間違いない。平生と寸分違わぬ振る舞い、何もかも理解したような口振り、その全てが仮説を結論へと導いて行く。
 農園の視察から戻ったサンザに告げられた。本当に恐ろしいのは人間だと。黒獣を利用しようとする者が、確かに存在すると。

「コリンスさん……」

 手の震えを誤魔化そうと、きつくコリンスの服を握る。飛び出しそうになる衝動を抑えれば、自然と顎の奥に力が入った。

「黒獣が来るって知ってたんですか? あの黒獣があなたを探してるって、分かっててここに来たんですか!?」
「ペネループさん、あなたにも心配をかけてしまいましたね」
「コリンスさん! 私が言って欲しいのはそんなのじゃなくて、」
「用が済んだのならさっさと馬に戻れ! 奴が出て来る!」

 サンザの怒声に肩が跳ねた。本能的に林へ意識を向ければ、木々が大きく揺れ地面が割れんばかりに震えている。
 来る。記憶にこびりつく異形の姿が、全身に寒気を纏わせて行く。

「ペネループさん、あなたは先に屋敷へ」

 促された所で従えるはずもなかった。必死にコリンスの腕を掴み、暴れ回る行き場のない感情に抗う。盗み見たサンザの瞳は冷たく凍っていて、もう誰にも助けを求められなかった。

「私は、ここにいます。あの子の最期をーー見届けるまで」




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