帳が下りる‐7


 用意された部屋の、自分が眠るには些か豪華過ぎるベッドの上に、エノウはゆっくり身を横たえた。
 普段利用する宿とは比べ物にならない。背に触れているだけのシーツは、体全体を包み込むような心地良さに満ちている。すぐ横に転がる枕も、顔を埋めればすぐ様眠りへ誘ってくれるのだろう。
 シャーディまでの道のりは、迂回した上に悪路続きで散々だった。屋敷に到着してからも、ユキト達と思いの外話が弾んでしまい、結局休めないまま。力を抜いてやっと、蓄積された疲労を自覚する。
 寝間着に着替えずこのまま眠ってしまおうか。そんな囁きが脳内に響く。窓から流れ込む夜風が、恐ろしい程優しく誘惑して来た。

「……アホか」

 上体を起こし、その勢いのままベッドから飛び降りる。風呂上がりの為下ろされた前髪が、不服そうに視界の端で揺れていた。
 愛用のコートを手にし、扉へ向かった。一人で部屋の外へ出ても迷うことはない。擦れ違う侍女も、挨拶を交わすだけで、案内を申し出て来ることはなかった。
 夜の帳が下りた後でも、屋敷の中は仄かに明るい。上質な種油を使用したランプが、長い廊下に等間隔で設置され、足元を優しく照らしてくれる。
 それなのに、以前訪れた時より此処は暗い。共通の認識でなくとも、エノウにはそう思えた。人の心は現実世界だって浸食する。どれだけ輝かせても、内側の陰りはいずれ滲み出る。
 一人で生まれ一人で生きて来た身だ。そこらの知識人より、感情の機微には敏感だと自負している。
 エノウは廊下を真っ直ぐ進み、階段を下り、目的の部屋に何の苦もなく辿り着いた。扉の隙間から、うっすらと光が漏れている。数度ノックすれば、予想通り上品な声が入室を促して来た。

「失礼します、夫人」

 後ろ手でゆっくり扉を閉めれば、微笑むコリンスと視線がかち合った。首元で緩く髪を結び、質素な部屋着を纏っていても尚、彼女からは凛とした空気が漂っていた。

「眠れませんか?」
「……夫人こそ。ここ最近、黒獣のせいでお疲れでしょう。お休みになられないんですか?」
「優秀な部下のお陰で、きちんと休ませて貰っていますよ。ただ今日は、あんまり賑やかだったから。少し、」

 そう言って、視線はエノウから壁へと移動する。
 この部屋は以前、コリンスの夫であるルジェーロが使用していた書斎だ。今は殆どの家財道具が撤去され、彼等の思い出の品が数点、薄暗闇の中飾られている。

「お心遣い、感謝いたしますわアトラー様」
「自分は何も」
「そんな謙遜なさらないで。貴方からのお手紙、本当に嬉しかったの。ただ、ごめんなさいね。まだ私も空元気のようだわ」
「当たり前です。自分のような若輩者が、心中お察ししますとは安易に言えませんが――」

 コリンスを追って、エノウは一枚の絵画を見詰めた。重厚ながら暖かみのある配色で描かれた、家族の肖像。ランプから漏れる淡い光に、三人の幸せそうな笑顔が照らされている。
 向かって左に、立派な顎髭を蓄えたルジェーロ。右側には、気に入りだと言う緑のドレスを着たコリンス。そして中央では、利発そうな顔立ちの少年が一人、照れ臭そうに微笑んでいる。
 コリンスはずっとそれを眺めていた。横顔に浮かぶのは、絵画の中と似通った笑顔なのに。こんなにも違う。それは、もう肩に手を置く相手が、いないからだろうか。

「夫人」

 エノウの気配を察したのか、コリンスはやっと肖像画から視線を外した。体をエノウの方へ向け、真っ直ぐ正面から向かい合う。真下からの光が、刻まれた隈を色濃く炙り出していた。

「先方にはこちらから伝えておきます。今はどうか、御自分を第一にお考え下さい」

 不可能なことではあるが、コリンスは決して否定しないだろう。案の定、「そうね、そうするわ」とあっさり受け入れられた。そう出来ない。分かっていても、皆願いを伝えずにはいられないのだろう。
 コリンスの細い指が、そっと手招きをした。一瞬躊躇してしまったが、エノウはすぐ様コリンスの元まで歩み寄る。

「お心遣いに、甘えても構わないかしら」
「……何なりと」

 手招いていた指が、ゆっくり移動する。指し示されたのは、ついさっきまで二人揃って眺めていた、家族の肖像画だった。

「貴方に描いて頂きたいの。構図も、色も、大きさも、全て任せるわ」

 提示された依頼に、エノウは目を見開いた。コリンス相手に取り乱すことは出来ないが、それでもつい声が大きくなってしまう。

「おっ、俺が!? いえ、今回は――」
「元々貴方にお願いしようと思っていたのよ。直接お話を伺って、駄目ならいつものように何方か紹介して頂こうと」
「光栄です。身に余る程。ですが、俺の腕では――」
「貴方に」

 はっきりと言い切られ、それ以上の反論は拒絶された。家族を支え、部下を支え。歯を食い縛り生きて来たコリンスに、たかだか十八の若造が勝てるはずもない。それでも、どうにかならないかとエノウは思案した。
 望まれたことは単純に嬉しく思う。ただ、技術がまだまだ稚拙だと自覚しているからこそ、今は仲介役として生計を立てているのだ。いくらコリンス本人の頼みとは言え、画家気取り請け負ってしまっていい物か。
 伏せた瞳に、コリンスの足元が映る。
 ほんの一呼吸の間。彼女の服の裾を掴む少年と、目が合った。

「あの子に会ったことのある貴方に、描いて頂きたいのです」

 血の繋がりもない親子のはずだった。それでも、目元がよく似ていると今になって思う。家族など知らない身で何を偉そうに。自嘲は腹の中でゆっくり消化されて行く。
 エノウは跪き、昼間そうしたようにコリンスの手へと口付けた。

「――喜んで、お受けします」

 この皺が刻まれ始めた手に、あの小さな掌は包まれていた。
 初めて会った朝、彼は終始コリンスの背に隠れ顔を見せようとしなかった。そんな態度が子供好きのエノウに火を付け、これでもかと話し掛け様々な遊びに誘い、夜には異国のボードゲームに二人揃って興じていた。
 ルジェーロと、先妻の間に生まれた男の子。コリンスとの間に血の繋がりなど一切ない。それでも、ルジェーロ亡き後、彼女の手に縋り支え合って生きていた。
 後十年もすれば、今度は彼がコリンスの手を取り歩んで行くのだろう。頑なに、誰もがそう思っていた。
 報せを受けた日、同じ地方にいた。雨が降り続き、宿に引きこもって二日目の昼過ぎだった。
 あの小さな体を引き裂いた何処かの誰かは、今、一体何をしている。



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