帳が下りる‐6


 サンザに言われた通り、用意された寝室へ焼き菓子を置いて来た。
 そのついでに、甘ったるい香りの染み付いたつなぎを、簡素なシャツと丈の短いズボンに替える。サンザが自分の失態を思い出す要素は、出来る限り減らしておきたい。
 ただでさえ苛々している様子、のんびりしていては何をされるか分からない。短い距離だがユキトは駆け足でサンザの部屋に向かった。

「来たわよ! さー報告聞かせて!」

 勢い良く開け放った扉の向こう。夕焼けが、見慣れない褐色の肌を照らしている。

「え、」
「……前足でも、ノックくらいは出来るでしょう」

 乱雑に放り出されたコート。ベッドの傍らに佇むサンザは、上半身に何も纏っていない。扉の閉まる音が何処か遠くで聞こえ、沈黙を挟んだ後やっと喉が震えた。

「ギャアアアアアごめん!!」

 そう言えば、屋敷に戻って来た時、サンザからは土と草の匂いがした。農園の視察に赴きそこらを歩き回ったなら、服が汚れてもおかしくはない。そして、自分のように、新しい物に着替えようとしても、おかしくはない。
 決して間違った光景ではない。それなのに、心臓はまるで過ちを目撃してしまったかのように、けたたましい破裂音を繰り返す。
 さっさと退室してしまえば良い物を、硬直した四肢では上手く動作に踏み切れない。
 サンザはさして気にした様子も見せず、脱ぎかけていたシャツを腕から完全に抜き去った。薄っぺらい布は、ベッドに放り投げられかさついた音を立てる。些細な物音さえ、今のユキトの頭にはよく響いた。

「ちょっと待って、見てないから!」
「……焦る理由が理解出来ませんが。酒場で働いていたなら――」

 ふと言葉が絶え、代わりに足音が鼓膜を揺らした。顔を上げれば、歩み寄って来るサンザの姿に息が詰まる。

「なっ、何!?」

 問い掛けても返答はない。真っ直ぐ視線が注がれるだけで、淡々とだが確実に距離は詰められる。摘み出されるのか。一歩二歩と後退し、気が付けば扉のすぐ前まで追い詰められていた。
 正直に言えば、男の裸は見慣れている。酒場で酔っ払いが服を脱ぎ捨てるなんて日常茶飯事だったし、そんな物を一々恥ずかしがっていては仕事にならない。
 だが今は状況が違う。まだ出会ってから一週間程度の人間、しかも男が、こんな格好で至近距離に迫って来ている。考えが浅いと罵られがちなユキトでも、さすがに危機感を覚えた。
 いや、まさかサンザが。呼吸するように自分を豚と呼ぶ男が、そんな訳、

「着替えたんですか。よく見えます」

 肩を大きな掌が包む。手袋を外した長い指が、緊張で浮き出た首の筋を掠める。人差し指だ。的外れな推測を一つ組み立てる間に、感触が鎖骨へと移動した。
 黄色いつなぎから着替えたシャツは、大きく首回りが空いている。指の関節が骨をなぞると同時、爪の先は襟元に滑り込んだ。

「ぎゃあああああ!!」

 こんな状況でも、やっぱり女らしい声は出なかった。
 扉に頭と背中を強かに打ち付け、もたついた足取りは体の重心を大きく揺さぶった。自らしゃがみ込んだのか、足が支える力をなくしたのか、判断出来ないしする気もない。ただ、頬を掠める何かの感触だけが鮮明だった。
 頭上で甲高い音が一回。指の隙間から自身の胸元を眺めて、やっと音と感触の理由が繋がった。
 弾かれるように顔を上げる。平然とした様子で、サンザは掌の上で小瓶を転がしていた。ああ、やっぱり。安堵は言葉となる前に、羞恥や疑念や困惑に押し潰され消滅した。

「瓶取りたかっただけぇぇ!?」
「は? 当たり前でしょう」
「じゃあ一言言えばいいじゃない! 無言でひっ掴んで来られたらそりゃ危ないって思うわよ!」
「……何が危ないんですか」

 問われた所で返答のしようがない。突き詰めて考えれば、とんでもない墓穴を掘ってしまいそうだったから。
 苦し紛れに唇を尖らせながら、知らない、とだけ呟く。
 サンザが農園に向かう前、手渡された小瓶。紐を取り付け首にかけていたお陰で紛失することはなかった。一方的に押し付けられた罰則は、サンザの表情を窺う限りどうやら行使されずに済みそうだ。

「その瓶のことも聞きたいけど、今は“そこそこの収穫”の方が気になるわ。ちゃんと聞かせてくれるのよね」

 ボタンも襟もない質素なシャツに袖を通しながら、サンザはユキトを一瞥する。いつまでもこうしてはいられないとユキトが立ち上がれば、入れ替わるようにベッドへと腰を下ろした。

「貴方の理解を期待はしていませんので、どうぞ肩の力を抜いて聞いて下さい」
「一々一言余計なのよ。私だっておかしいと思ってんの。黒獣が、あんな人里の近くまで下りるだけ下りて、何もしないで帰るなんて。普通そのままこの屋敷まで突進して来るんじゃないの? あいつ等知性もないんだし、人の気配がすればそっちに向かうでしょ」

 詰め込んだ知識しかないが、自分なりに、合致しない異常を整理していた。
 サンザからすれば稚拙な疑問だろう。それでも、今のユキトにはこれが精一杯だった。下手に先回りして博識ぶるくらいなら、馬鹿扱いされても、正直に無知を晒け出すしかない。
 サンザは小瓶をベッドの上に放り投げてから、髪紐を解いた。珍しく見下ろす形となったその姿に、見慣れなさのせいか違和感を覚える。

「今回の騒動、発端となったのは黒獣ですが、絡んでいるのは奴等だけではない」
「は?」
「黒獣が出現してから、もう十年経った。悪い意味の慣れが生じている。よく言うでしょう? いつの世も、一番恐ろしいのは生きた人間なんですよ」

 生きた人間。予想外の単語が飛び出し、ユキトは息を詰まらせた。
 複雑な経緯があったとしても、黒獣さえいなくなればそれで解決する。討伐はそう言う物だと、勝手に芽生えていた思い込みが大きく揺らぐ。

「黒獣を……人間が利用するってこと?」
「おや、貴女にしては頭が回っていますね。糖分をしこたま摂取したお陰でしょうか」

 いつもの嫌味だが、反論はぐっと堪えた。これでは話が進まない。唇を噛み締め、渾身の力で睨み付ければ、サンザは「便所なら下ですよ」と吐き捨てた。

「とにかく優先すべきは黒獣の討伐です。奴等を排除するのが我々の責務。余計な詮索は必要ありません」
「え、はぁ!? もしかして何も教えてくれないの?」
「そうは言っていないでしょう。私は必要ない、と言っただけです。――貴女が必要とするかは貴女が決めなさい」
「知りたい。教えて」

 悩んで欲しかったのなら、お生憎様。即答され、瞳を細めたサンザに、ユキトはこっそり毒づいた。決めたのだから。無知を恥じたりしないと。
 サンザがこうやって事前に確認すると言うことは、知った所で実にならないか、むしろ毒になるかのどちらかだろう。それでも収穫がなかったと誤魔化さないのは、ユキトの為か自信の為か。考えたって分からない。
 だが、事実は分かる。サンザが得た情報は、実際に起こった出来事は、本質を変えたりしない。人の見えない内心に振り回されるより、よっぽど有益だ。知らずにいて何になる。サンザに張る見栄など、もうほとんど残っていなかった。

「……愚かなまでに、実直ですね」

 当たり前でしょう。私はあの、元帥閣下の姪なんだから。
 歯を見せて微笑んでやれば、ああそうでしたね・と、諦めたような声が返って来た。




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