帳が下りる‐5
「農園の内部に、被害は出ていないようですね」
「ええ今の所は。黒獣の痕跡が見受けられるのは、あちらの――」
コリンス夫人が指差したのは、農園を取り囲む林の一角だった。サンザは一見興味など微塵も宿らない瞳を向けると、馬から降り夫人に歩み寄る。
「失礼、私この辺りの地理には明るくない物で、ご案内頂けますか」
「もちろん。さあ、こちらへ」
夫人の後に、付き人――と言うにはいささか屈強な男が続き、更にその後をサンザが追った。乾いた土と小石の摩擦音、偶に背後から繋いだ馬の嘶きが聞こえるだけで、辺りは随分と静かな物だ。
わざわざ使い古した服に着替えてまで、夫人自ら案内しなくても。呟きは、さすがのサンザと言えど心の中に押し留めた。
責任感のある女性だ。使用人に任せ、自分が屋敷に残ると言う選択肢など、はなから存在していなかったのだろ。
――あるいは。
家族の記憶が色濃く残る屋敷から、少しでも理由を付けて離れたいのかもしれない。
二人の後ろ姿を追いながら、サンザは幾度も辺りを見回す。今の所黒獣の気配はない。奴等は高い知能を持たない分、行動が読めないから厄介だ。闇に紛れれば良い所を白昼堂々出現したり、逆に夜目のきかない黒獣が、暗闇の中必死に暴れ回っていたこともある。
そして、何より面倒なのはそれらに過剰反応する人間達。
エノウが馬車でぼやいていたように、藪が少しざわめいただけで「黒獣だ」と大騒ぎする。今まで寄せられた目撃証言も何処まで本物か信用し難い。
対抗する術がないのなら、せめて大人しくしていれば良い物を。
無力の恐怖を知らぬ色霊師・と謗られるかもしれない。だが今のサンザは、湧き上がる憤りを抑えようとも思わなかった。
夫人の案内を経て、黒獣らしき影が目撃された箇所へと辿り着く。
種油の木より幾分か細い木々が立ち並ぶ林の中。ある一角だけ、地面ごと木が根元から抉られている。サンザは二人を制すると、自分一人で盛り上がった地面へと近付いた。
倒れている木は全部で四本。根元の土が抉り取られ、地中に眠るはずの根は捻り切られている。刃物を使った様子もないが、かと言って人間が素手で行うのも不可能だ。
倒れた木と周辺の雑草は黒く焼け焦げている。形は保たれているので、油も引かず松明か何かの火を押し当てたのだろう。
「焦げていますね。処置は貴女方が?」
「はい。最初はその場所に黒い液体が付着していたのですが、警備兵の方が液体ごと焼くようにと」
「……黒い液体に、人間の力では不可能な破壊行動……確かに、黒獣の可能性が高いですね」
そこまで口にすると、サンザの口は閉じられた。口元に手を当て難しい顔で木の根元を睨み続ける。
「ニッセン様、可能性が高いと言うことは、」
「こう言った場合、いたずらに断言出来ません。黒獣を目撃した方は屋敷にいらっしゃいますか? 改めてお話を伺いたいのですが」
「すぐに手配致します」
「では、一旦屋敷に戻りましょう」
夫人は踵を返し、繋いだ馬の元へと戻り始める。サンザはその隙に、護衛の役割を担っているであろう、屈強な使用人の背後に回った。
「さて、貴方には別な頼みが」
「……私にですか?」
「黒獣と断言出来ないと言いましたね。つまり、一連の騒動は、人間が起こしている可能性もあるのですよ」
種油の市場価値がここまで高まったのは、十年前、黒獣の出現を受けてのことだ。
色霊師以外の人間が、ほぼ無限に再生する黒獣を倒す為の必須道具。それが、灰になるまで焼き切る為の「火」と「油」だった。
古くなった油の品質も元に戻し、単体としての発火点も比較的低いのが種油の特徴だ。元々一般的な油より高級品とされていたが、爆発的に需要が吊り上がれば同時に価格も高騰する。
一部の卸業者は種油を買い占め、小売店も価格を従来の五倍にして売り捌くなど、それは目に余る状態だった。
それでも買い手が付いていた辺り、当時黒獣は今以上の脅威であったことが窺える。軍が市場に介入し安定化を図らなければ、今も価格は下がっていなかっただろう。
そして、黒獣討伐の為種油を大量に必要とする軍が取引相手として定めたのが、他でもないこのコリンス夫妻が営む農園だった。
今は亡きルジェーロ・コリンスは、いち早く種油の重要性に目を付け、二期作が行えるよう品種を調査し莫大な敷地を確保していた。更に収穫され精製された油を、良心的な価格で貧困層にも分け与えていたと言う。
軍としても、騒ぎに便乗するような業者とは取引したくなかったはず。彼等の農園が選ばれたのは必然かもしれない。
だが――
「軍と言う安定した取引先を得、年々事業を拡大する人徳に満ちた経営者――同業者から見れば何と忌々しい存在でしょうね」
「ニッセン様、……」
「ここシャーディに黒獣が出現したと噂され、軍の人間が調査したにも関わらず出所は不明なまま。これでは買い付け所か運搬業務にも支障が出かねません」
薄々勘付いていたのだろう。使用人もサンザに目配せした後一度だけ頷き、それ以上何も言っては来なかった。
「強行手段に出ないとも限りませんので。警護は抜かりなくお願い致します」
誰が、何を、何故。何も聞き返さずとも全て把握してしまう辺り、さすが護衛と言った所か。使用人は再び頷き、何事もなかったかのように夫人の元へと駆けて行く。
大凡の事情も把握した。釘も充分刺した。
後は自分がどう動くかと、あの予測不能な“異質”が、どう言う反応を取るか。重要なのはそこだけだ。
お帰りなさい、と言っただけなのに舌打ちされた。
まさかクッキーと紅茶を平らげたことを、何処かから聞きつけたのか。とっさに口を覆えば「ああ、やはりみっともなく食い漁ったのですね」と失笑が返って来る始末。
やっぱりどう足掻いてもサンザの観察眼からは逃れられないのか。落ち込む気すら起こらない中、玄関中央に聳える階段を大人しく上る。
「夕飯まで俺は一休みさせて貰うわ。付き合ってくれてありがとうユキトちゃん、ほんま楽しかった」
「こっちこそ、また時間あったら話聞かせてよ、エノウの話為になるのばっかだし」
「えー嬉しいわそんなこと言う〜? ほな、風呂入った後俺の部屋でゆっくり――」
肩を抱かれ、緩くはあるが確かな力で体を引き寄せられる。途端色濃く漂う薔薇の香は、エノウの物か自分の物か。
温かい紅茶が火照らせた額へ、エノウの口元が寄せられかけた時。降って湧いたような白々しい咳払いが廊下で反響した。
咳の一つにすら刺々しさが宿る。振り向けば予想通り、いつの間にかすぐ後ろまで迫っていたサンザが、冷え切った瞳で二人を見下ろしていた。
「子豚相手に言葉の訓練ですか? 余所でやって頂きたい物ですね」
「あらら、お連れさん怒ってる〜?」
「生え際後頭部まで後退させますよ」
整えられたエノウの髪型を目一杯かき乱し、サンザはユキトを彼から引き剥がした。
ユキトにちょっかいを出され憤慨した――エノウはそう捉えたのか、含みある笑顔を浮かべている。確かに憤慨している。表に殆ど見えていなくてもサンザは苛立っているのだろう。だがそれはエノウに対してではない。憤りの対象は、間違いなく、
「面倒を見て頂けたことには感謝しましょうか。一匹で放っておけばそれこそ何をしでかすか分からない」
「はー!? ちゃんと大人しくしてたっとは言い切れない!!」
「当然でしょう。幾ら勧められたからとは言え焼き菓子をあんなに貪り食うとは……夕飯は断っておきます。大人しく厩舎の馬と同じ餌食って来なさい」
「無理無理草でもせめて人間の食べる草にしてよ!!」
「ユキトちゃーん怒るトコ多分そことちゃうで」
サンザからは、仄かに土と草の匂いがした。農園へ視察に行くのだと聞かされたな、呆れ顔のエノウに諭されながら思い起こす。
エノウはそのまま与えられた寝室へと消え、ユキトは数時間ぶりにサンザと二人だけになった。エノウが隣にいた時と違い、一気に静寂が二人の間に横たわる。
今更気まずさなど感じないが。それでも動作は自然と小さくなる。
見上げれば相変わらずの仏頂面。農園で何の手掛かりも見付からなかったのか、不安に思い問い掛けてみればサンザは緩く頭を振る。
正直贅沢なもてなしに少し、いやかなり浮かれていたが。段々と思い出して来る。自分は今ここに、知らなければならないことを知りに来たのだ。
色霊、色無、黒獣。そしてそれに脅かされる人々。全てをこの目で見てこの頼りない頭で考える為に。
「そこそこの収穫はありましたよ。詳しい話は、その意地汚く受け取った手土産を部屋に置いて来てからにしましょうか雌豚さん」
後ろ手に隠していた、限界まで膨らんだ状態の紙袋がかさついた音を立て落下した。
詰め込まれた焼き菓子と共に、決意は簡単に罅割れる。
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