帳が下りる‐3


 彼が訪れると屋敷の空気が一変する。年若い侍女達は色めき立ち、浮かべる笑顔が熱を帯びた。
 それは極自然の現象なのかもしれない。
 砂金を直接零したような金色(こんじき)の髪。宝石と見紛う程眩い瞳は、初夏の熱が恋しくなる鮮やかな黄緑だ。日に焼け過ぎず、かと言って貧弱な青白さでもない絶妙の肌色は、生来持ち合わせた色彩をより際立たせる。
 色に溢れた庭園に佇めども、その存在感は損なわれていなかった。
 リネットは柱に凭れるエノウへ様々な賛辞を送った。もちろんその全ては胸中に留められる。一介の侍女である者が、客人である男性――しかもその容姿を、無闇に褒め称えるなどあってはならない。

「アトラー様」
「お帰り、リネットさん」

 玄関の両脇に配置された柱から背を離し、エノウは破顔した。
 けしてやましい感情はないのだが、名を呼ばれるとどうしても動機が早まる。リネットは指一本にまで神経を集中させ平静を保つ。
 自分は侍女をまとめる身。コリンス夫人に留守を任された以上、如何なる状況であってもうろたえる訳にはいかない。

「何か御用でしょうか」
「うん、庭園――薔薇園の方。あそこ見たいんやけどえぇかな? ユキトちゃん案内させて貰おう思て」
「薔薇園ですか? もちろん、奥様自慢の庭園ですもの。心行くまでご覧下さいませ」
「良かったー、おおきにリネットさん。ユキトちゃんも喜ぶわ」

 聞き慣れない単語に思わず瞠目してしまったのだろう。エノウはすぐ様短く声を上げると、力ない笑顔のまま首を傾けた。

「ありがとう、って意味」

 唯一理解出来なかった単語が、親しんだ感謝の言葉へと脳内で変換されて行く。
 彼が奇妙な方言を話すのは周知の事実。語尾が変化するだけなら支障は来さないが、全く異なった単語はさすがに把握し切れない。

「失礼致しました」
「もーリネットさんまですぐ謝る。ここ、居心地えぇからつい普通の喋り方してしまうわ、こっちこそゴメン」

 顔の横で手を振り、気さくな語り口でエノウは続ける。

「せや、後で借りたい物あるんやけど構わへんかな?」
「何なりと、すぐ御用意致します。ところで、アトラー様」
「うん?」
「何か、他に御用がおありでは?」

 途端、エノウの表情は容易く冷え切った。凍り付く様は無機質な彫刻のようで、リネットの背筋を薄ら寒さが駆け上がって行く。
 だがそれはほんの一瞬の光景だった。エノウは骨まで溶かしそうな甘い笑顔を取り戻すと、今まで通りの軽やかな声を響かせる。

「リネットさんにはかなわへんなぁ」
「客間の近くにも侍女は待機させております。わざわざ玄関までおいで頂く目的が他にあるのかと」

 そう言いながら、リネットは既に答えを導き出していた。しかし自ら語り出すのははばかられる。あの聡明で寛大な主人は、話した所でけして咎めはしないのだろうけど。
 頬を掻いたり髪を指でいじったり、幾度も迷う様子を見せるエノウに、ただただ視線を向け続ける。

「……夫人は、どう? 見た所普通やったけど」

 小声で紡がれた言葉は正に予想通りだった。事情を知らぬ者では理解し難い内容でも、リネットは何を問われたか瞬時に推測出来る。

「ええ、正に、アトラー様の仰る通りで御座います。……見た所、は、以前のままに」

 含みを持たせた説明でも充分だったのだろう。エノウの眉が、叱られた子供のように垂れ下がって行く。
 何とかして元の笑顔に戻したいと思うが、リネットには名案が浮かばない。むしろ自分が教えを請いたいくらいだ。如何なる問答にも微笑み返答出来る、強固で柔軟な心の持ち様を。
 愛する者をことごとく亡くした人が、また平穏な日々へ返る術を。







「お待たせ、ユキトちゃん」

 甘味も豊かな香りも、今となっては心行くまで楽しめる。一人客間で紅茶を啜っていたユキトは、エノウの姿を見るなり勢い良く立ち上がった。

「どうだった?」
「快諾! 是非楽しんでって下さいやって」
「やったー! ありがとうエノウ、部屋に籠もってろって言われたらどうしようかと思ってたのよね!」
「そんなことここの人等は言わへんよ」

 肩を竦めながら、エノウは自然に手を差し出して来る。だが今まで女扱いされず生きて来たユキトは、こうやってエスコートされることに慣れていない。
 思わず、自分のそれより二周り程大きい掌をまじまじと見つめてしまった。一呼吸置いた辺りで、旋毛に苦笑の息遣いが降って来る。

「行こか、ユキトちゃん」

 長い指が掌を絡め取る。だがユキトがエノウの隣に並べば、すぐに重なった手は解放された。
 肩を並べれば改めて実感する。エノウの身長は、アッシアより少し低いくらいだろうか。見上げた瞳に映るのは、脳裏に浮かぶ仏頂面と正反対の柔らかい笑顔だけれど。

「ここの庭園はほんま見事なんやで、旦那様と夫人の手塩にかけた薔薇がもう選り取り見取りなんやから!」
「選り取り見取りって……売ってるんじゃないんでしょ?」
「え、あぁいや、そこは言葉の綾言うか……」

 廊下を何度も曲がる足取りに迷いはない。来客に付き添う使用人も見当たらない。
 緊張した素振りなど毛程も見せないエノウの姿に、築かれた信頼の厚さが語られずとも伝わって来る。
 時折目に入る美術品の輝きに心臓を跳ねさせながら、それでもエノウの話に期待が膨らむ。
 そして、告げられる前に足が動いた。甘く、それでも心地良く鼻に抜ける薫香が、見えない道標となりユキトを誘う。

「ユキトちゃん、そこ真っ直ぐ!」

 開け放たれた扉から飛び出せば、大した距離を走ってもいないのに息が詰まった。背後から追い付いて来る足音も、何処か遠くに感じてしまう。

「すっ、ごぉい……!」

 眼前の荘厳な光景とは逆に、吐き出されたのは陳腐な感嘆。だが今ここにその稚拙さを嘲笑う者はいない。
 視界を薔薇に埋め尽くされながら、ユキトは同じ単語を繰り返した。
 「な、言うた通りやろ?」と得意気なエノウも、しばし庭園に見入る。
 数多の薔薇が咲き誇り、色とりどりの花弁を引き立てるように、日差しが燦々と降り注ぐ。色も大きさも様々な薔薇で覆われたレンガ造りのアーチは、まるで虹が地へ降り立ったかと見紛う程で。
 自身の語弊のなさを自覚しながらも、ユキトは飽きることなく褒め称え続けた。

「すごい! 何かもうよくわかんないけど全部すごい!」

 知らず知らずの内に拳を握り力説する。サンザが聞けば失笑されただろうが、今隣にいるエノウは、満足そうに相槌を打ってくれている。お陰で高揚した気分を害することもなく、軽い足取りのまま庭へと歩を進められた。
 鮮やかな赤も眩い白も可憐な黄も皆美しいと思うが、中でもある種類の物に一際目を引かれる。庭の片隅に備え付けられた机まで辿り着くと同時、思わず手を伸ばした。
 それは、髪の一本一本まで丁寧に結い上げた貴婦人を、真上から見下ろしたような。夜明けの紫と晴天の群青を混ぜた、えも言われぬ色彩を纏う大輪の薔薇だった。

「これ見たことある! めちゃくちゃ高いヤツよね!」

 優美かつ繊細な風景に似つかわしくない、下卑た価値観だと思う。
 美しい物に酔いしれてもやはり庶民は庶民だ。

「せやなぁ、これは趣味で栽培されとるモンやけど、出すトコ出したら五ルーダは行くんとちゃう?」

 五ルーダ。一日の食費に当ててもまだ釣りが来る金額だ。

「……この薔薇が胃袋満たす訳でもないのに……」

 半ば八つ当たりだが、ユキトの恨み言にエノウは腹を抱えて大笑いしている。共感してくれているのか。それとも呆れ過ぎて笑うしかないのだろうか。

「確かに、確かになぁ。それで腹は膨れんなぁ」
「でも綺麗なのは確かよ! こんな色の薔薇があるなんて不思議」

 肉厚な花弁を傷めないようにそっと摘んでみる。
中心から放射状に伸びる白い筋は、星屑のようにも、薄雲のようにも見えた。
 馴染みある言葉を選ぶなら、青紫と形容するに相応しいのだろう。それでも何処か腑に落ちないくらいこの薔薇は異彩を放っていた。

「お腹が膨れずとも心を満たすことは出来ますわ、ペネループ様」

 気が付けば、椅子に腰掛けたエノウの隣で女性が微笑んでいた。確か――リネット、と夫人が呼んでいた、この屋敷の侍女だったはず。
 大きなトレイを持ったまま器用に一礼し、女性はユキトとしっかり視線を合わせる。

「申し遅れました、私、リネット・ヘーゼと申します。ご滞在中の身の回りのお世話を仰せ付つかっておりますので、何なりとお申し付け下さい」

 客人扱いにまたむず痒さを覚えたが、彼女等にとってはこれが仕事。下手に遠慮する方が迷惑になるだろう。ここは甘んじて受け入れるしかない、「よろしくお願いします」とだけ返し頭を下げた。
 リネットはお止め下さいと制するが、その挙動に動揺は見られない。夫人の持つ気品とはまた違った、経験に支えられた余裕が伝わって来る。

「リネットさんが紅茶とクッキー持って来てくれたんやって。こっち座って一緒に食べよ」
「シャーヴェイ・ローズを使用した品です。きっとご満足頂けるかと」

 細やかな音を立て、テーブルにトレイが乗せられる。客に出す物だ、きっと高価で上質な陶器なのだろう。
 だが、ユキトの目はもう差し出された「餌」から逃れられなかった。机に手を付き、滑り込むようにして着席する。一瞬脳裏を誰かの舌打ちする姿が過ぎったが、今はどうでもいいと思えてしまう。




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