第八話「譲渡多難‐7」


 誤魔化して基地へ帰ることも出来たはずなのに。ビセンテの真っ直ぐさは、どうあっても曲がらない。それが妙に嬉しく思える辺り、自分はやはり冷静でないのだろう。

「気晴らしにはなったのか」

 何気ない問いに胸が詰まった。平和な街の光景が、歪な粘土細工のように歪んで見える。確かに起こった異変が、隣にいる人と、脳裏に浮かぶ人を巻き込んでしまった。その事実を平和な家族はきっと一生知り得ない。
 ビセンテも、ジャックファルも、どうしてこんなことになっているんだ。ーーどうして、何も負わない自分が生意気にも曇っているんだ。

「今、こうやって……色々変化してるのが、怖い。物凄く……今まで通りじゃなくなるのが。怖がれる立場じゃないけど、平穏以上に恋しい物なんてない。こんな風に、普通に買い物したり話したり、そう言うの、なくなるのは絶対に嫌だ」

 思ったままを、相手の反応を気にせず発するのは、怖い。それでも止まらない意志を、本音と言うのだろうか。

「だから、基地へ戻ったらジャックに会う。あいつが何でとか誰のせいとか考えても分からないから。今言ったこと、正直に伝える」

 ビセンテの瞳を、じっと見つめた。
 海のように深い青がすぐそこにある。時に激情で揺れ波立つ色が、今は凪いだ水面のように澄んでいた。
 ふと、彼女は自分の目をどう見るのか気になった。アルベルトに夜明けの色だと言われた紫が。ビセンテの中でどんな記憶を呼び起こすのか、少しだけ。

「あれが茶化して来たら殴ってやれ」
「……ビセンテちゃんも一緒に行かない?」
「はあ?」
「ジャックって、ビセンテちゃんの前だと正直になるって言うか。誰とでもそこそこ上手くやるアイツが、正面から文句言うのって、それだけ本音ブツけてる証拠かなー、とか……思ったり……思わなかったり……」

 語る内にあの険悪な雰囲気を思い出し、自信が萎んでしまった。それでも何とか、ビセンテには同行して貰いたかった。いつでも当たり障りのない笑顔を見せるジャックファルへ、真っ直ぐ本心を伝えるには、ビセンテのような存在が必要だ。
 溜息が長く隣で漏れる。恐る恐るビセンテの瞳を覗き込むが、思い浮かべていた感情の波は、全くと言って良い程押し寄せておらず。
 形の良い唇が何度か動いた後、フェルディオは心の底から破顔した。






 ジャック。
 名を呼ばれ、肩が跳ねそうになるのを、必死で抑えた。
 視界の奥で扉が閉まる。総司令官室から飛び出して来たチータが、何処か安心したように肩を竦めた。軍服もバイザーも身に付けず、そのまま部屋でくつろげそうな格好で、よく総司令官の招集に応じたものだ。
 ーーガスパールのことだから、休みのチータにいきなり連絡して、とにかく今すぐ来いと命じたのだろうけれど。

「大丈夫か」

 こっちはそれなりに気を遣って、ジャケットを羽織って来たと言うのに。せめて作業帽を持ってくれば良かった。これでは、目元が隠せない。

「あー、うん、さすがにちょっとビビったわ。でも総令も警護付けてくれるって言うし、国防軍にリスクがあるならちゃんと対処するだろ。俺はちゃんと仕事するよ、心配しなくても、」
「それがお前の、軍人としての覚悟か?」

 振り返らず、背を向けて話すべきだった。笑顔が凍った、声が止まった。よりにもよって今、この人の前で。
 覚悟。以前交わしたビセンテとの会話が蘇る。彼女もまた覚悟を求めた。自分は、それを薄ら寒いと思った。誰も彼もがそれを決めた世界は、途方もなく凄惨だと思った。覚悟を決めた人が、どれだけ変わってしまうか、知っていたから。

「……覚悟なんて立派なモンじゃねぇけどよ」
「そうか。なら、安心した」

 微かに目を伏せた、同じ色を持つ人は、今何を思い返しているのだろう。
 この身は空に上がれない。自分で選んだ。だから、チータがーー兄が、あそこでどんな表情を見せているのか知らない。どんな顔で、敵を落としているのか知らない。
 傷付ける術など知ろうともせず、弟が語る荒唐無稽な空への憧れを、何も言わずじっと聞いてくれていた少年を。奪い奪われる道へ引きずり込んだのは、覚悟だ。小さな心臓を深々と穿った、生涯憎み続ける決意の刃だ。

「班長からも言われただろう? 何なら私が、預かっておくが」

 こうして話していると過去へ戻ったようだ。何も変わっていないのかと錯覚しそうになる。

「何、エロ本の隠し場所はちゃんと確保してるって」
「……違う。遺書だ」

 チータの心臓を貫いたのが覚悟なら。
 今この胸を痛める物は、何に研がれた切っ先だろうか。
 悲壮感など一欠片も伝わって来ない。それこそ本の預かり先を提案するような自然さで、チータは弟の遺す言葉を求めた。

「何も実際にそう思えと言う訳ではない。文字にすることで、揺らぐ感情が凪ぐこともある。班長もそのつもりで言ったのだろう」

 擦れ違ったことがある。まだ航空学校生で、十五にも満たなかった頃、シミュレーション訓練を終えたチータが隣を駆けて行った。
 同期にどうだったと聞かれ、何でもないことのように、「つまらなかった」と答えながら。


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