第八話「譲渡多難‐8」
その時は、あまりに簡単な内容で退屈したのだと思った。だが兵士となった彼の評判を聞く度、そんな平凡な心情でなかったのだと、思い知らされる。
ーー本物を落とせないなんて、つまらない。エラントの数を減らせない撃墜に、意味はない。
届かない場所にいる兄は知らない人間だ。気付いた時、覚悟が陳腐な自分を嘲笑っていた。望み通りだろう。そこまで空を求める兄に、真っ直ぐ進んで欲しかったのだろう。
「いいかも、な、兄貴みたいに、」
違う。違う。最初から欲しくなどなかった。ビセンテに問われ、答えただろう。パイロットになりたいなんて、思ったこともないと。あれは子供の熱に浮かされた空言だった。決意の欠片もない一時の憧れだった。だから、欲しくなんてなかった。
口にしないよう心掛けていた音が、零れ落ちてから気付いた。
チータはほんの少し目を丸くしたが。それだけで、後は何もない。以前いたずらに兄貴と呼んだ時は、飛び上がって驚いていたと言うのに。
パイロットはすごい。
単純な話だ。自分達よりずっと危険な場所にいる。整備士がいなければ飛べないと言われても、命の奪い合いに晒される事実は覆らない。
「ーー覚悟なんか決まってねぇし。俺もそれくらいしねぇと、」
仮に目指した所できっと諦めていた。自分にそんな心の強さはない。どう歩んだってここに辿り着いていた。だから素直に尊敬する。今息が苦しいのも、発した声が上手く聞こえないのも、全て遠くなった兄にほんの少し動揺したからだ。それが理由だ。
自分の命の浮き沈みが、全て、自分以外の理由で定められていたとしても。
足音が鳴る。チータは背筋を正して、ジャックファルの眼前まで進んだ。痛々しいくらい、真っ直ぐ、あの青髪の少女と同じように。
「お前もあそこにいれば良かったか」
泣きそうな顔で見下ろして来た兄が、今は自分を見上げている。
体格は見事に逆転したが、それだけだろう、逆になった物なんて他には、
「ハンナの死に顔を見ていれば、お前も、覚悟なんてすぐ決まっただろうに」
自分がなりたい物はまだないけれど。
誰かの叶って欲しいことはある。
いつか抱いた少年の理想は、もう二度と叶わない。
「え、何で、何で!?」
「いーから早く来んべ、オレじゃどーもなんねーよ!」
もうじき、朝方の人間なら今が夕方だと答えるような、曖昧な時間。
荷物を抱え基地に戻ったフェルディオは、寮に向かおうとした所で捕らえられた。ビセンテにも走るよう命じたのは、あまりにも特徴的な髪色をした隊員だ。重い荷物を片手で支えながら、引きずられるままに基地内を駆ける。
「オメーんトコの隊員サンどーにかしてくれ! 兄弟喧嘩基地内でされても困んべよ!」
「だからそれ誰のことー!?」
「ーーチータとジャックか」
途端、ビセンテが二人を追い抜かして行った。呆然とするフェルディオの横で、隊員は呑気に「頼むべー」と叫んでいる。
「ちょ、チータさんとジャックって!?」
「そーなんだよ、アイツ等総司令官室のすぐ側で殴り合いしてやがんの! 無駄にデケェからオレ等じゃ止めらんねんだって!」
「そうじゃなくて、そうだけど!」
あの二人、兄弟だったの。
問いかけはまともな文章にならず、辿り着いた廊下では、昼間スーパーマーケットで見かけたのとよく似た光景が広がった。
「テメェ等いい加減にしろや! よりにもよって俺に見える所でやりやがって! 喧嘩すんなら見えねぇ所でやって内々で片付けろ俺にバレないように!」
「総令、無駄口叩くんならもっとちゃんと押さえ、あっ!」
「だからテメェがそれ言うんじゃねぇよクソ兄貴がぁ!!」
「ごあーっ待て! 待てってジャック!! 肘痛ぇブッ飛ばすぞクソが!!」
チータをガスパールが、ジャックファルを整備班の隊員が、必死で羽交い締めにしようとしている。だがどちらも物の見事に振り払われ、再び二人が掴み合い、まだ引き剥がすと言う泥沼の繰り返しだった。
ジャックファルは何やら叫んでいるが、チータは無言で、それでも反撃の手は緩めない。一見冷静そうに見えるのが逆に恐ろしい。他にも騒ぎを聞き付けた隊員が集まって来ているが、あまりの剣幕に誰もが対応を決めかねているようだ。
その中で、一際目立つ緑色が、チータのバイザーを手にしたまま振り返った。
「フェルディオ、ビセンテ」
「フアナちゃん! 何なのこの騒ぎ!」
「うーんと……見たまんま?」
先に向かったビセンテは何故か何処にも見当たらない。とりあえずフアナの隣に並び、周りに混じって二人の殴り合いを傍観した。
「アルベルトは!? 誰か呼びに行けよ!」
「休みだからどうせ裏でバイクいじってんべ! すぐに来れねーよ!」
「クォーツーー!! お前も何処行ってたんだよ手伝えや!!」
「無理無理、オレただでさえユージーンが暴れたの止めて疲れ、あーちょっ、チータ!!」
フェルディオを呼びに来た隊員が、チータを止める為ガスパールに加勢する。ガスパールの方がよっぽど大柄なのに何故こうも止められないのか。「オッチャンはインドアなんだよクソがー!!」醜い叫びを聞いて、とりあえず事情は察した。
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