第五話「隣人の釣り針‐7」


 違和感が消えない。すぐそこにいる友人の姿が、ずっと霞んでいる。水面越しに魚を見た時のような、不明瞭な輪郭で。顔も見えない水の中、それでも友人は笑っているのだと確信する。
 通信機を握る手が微かに震えた。強く強く握り込むことで、何とか誤魔化す。技術職の経験しかなく、交渉事など未知の領域だ。普段のジャックファルなら、正直に助力を請い、「お願い」する。
 そんな甘い手段が通じない相手。同じ部隊に所属する仲間が、遠い。

「聞こえただろ」
「うん。でもさ、本当に覚えてないだけかもしれないよ?」
「お前が研究所に引きずってった日の話、忘れるか? 録音してるから何なら聞かせてやるよ。世間話じゃねぇ。結構真面目な会話したんだぜ?」

 端末に通信記録を表示させ突き付ければ、ジャンは細い目を見開いた。
 日付はフェルディオが研究所で検査を受けた日。浮かぶ通話時間の隣で、録音データを示すアイコンが点滅していた。

「録音までしてたんだ……」
「今までも何度かフェルディオに証言頼んだ。あいつが、覚えてるコトをすっとぼけたことなんて、なかった」
「今回初めて、君に意地悪をしたくなった。可能性は?」
「ない」

 何故と聞かれれば答えようがなかったが、ジャンからの追求はなかった。実際、可能性がゼロなんて思っていない。今まで女性問題で迷惑をかけて来たから、とうとう愛想を尽かされた。充分あり得る。それでも、知らないフリをして断言した。

 ――ここが分岐点だったな・って自覚してる瞬間とか、ある?
 ――この決断を覆す為にはきっと想像も出来ないような犠牲が必要になるんだ
 ――だから、結局このままから動くはめになる

 フェルディオは忘れている。何処までかは確認出来ていない。だが、ジャックファルとのあの会話は、確実だ。
 本人が忘却した言葉に、突き動かされる。犠牲の大きさは、支払う対価は、きっと途方もない。出来るなら今すぐ冗談だと笑って逃げ出したい。長椅子の正面へ移動しながら、何度も何度も生唾を飲み込む。
 腰掛けるジャンを見下ろし、全ての神経を目元と口元に集中させた。冷徹であれ。無感情であれ。垂らした釣り針の沈んだその先、獲物に気負いを気取られるな。

「フェルディオの記憶には重大な欠陥がある。上が気付いてるかどうかは知らねぇけど、俺が思うに本人も自分の異変に気付いてない」

 ジャンの顔から、薄ら笑いはとうに消えていた。ならばと代わりに笑ってみせる。組み替えられた足から、一歩も引かない獲物の姿勢が伝わって来る。

「いつから気付いてたの。少なくとも僕達より先だよね?」
「ゴメン、無理、先に俺の話聞いて」

 謝罪しながらも、一方的な押し付けを強行した。こうするしか、この化け物のような策士と向き合う術はない。
 身体を屈めて、両腕で掻き抱いて、蹲ってしまいたい。誰かからの「お前じゃなくていいよ」を待っていたい。人任せな願望が渦巻き、結局は、過去に記憶へ落ちて行く。
 思い出せ、自分でなくてもいいと思って選んだ道は、誰を傷付けた。

「出し抜く為には情報がいるよな? 何でも引き出してやる、フェルディオは俺のこと警戒していない。お前等がやるよりよっぽど、怪しまれずに済むと、思うけど?」

 資料室を舞う埃が、日光に照らされ視界をうろつく。そんな些細な異物が目に付く程、視界は安定しなかった。涙は出ていない。ジャンは両手の指を絡め、足の上にゆっくり下ろした。ちゃんと見えている。まだ大丈夫だ。

「……僕、君とフェルディオくんって、オトモダチだと思ってた」
「間違ってねぇ、オトモダチって奴だよ」
「ジャックファル。今お前がしようとしているのは、その友人を売ることと同義だ。フェルディオ・シスターナがそれと知らずお前に漏らした情報を、副分隊長に流す。物によっては、彼は空どころか軍にもいられなくなる。理解した上での申し出か?」

 厳しい口調に背筋が凍った。分かっているから、わざわざ突き付けないでくれ。それでもやるしかないと決めたんだ。

「事実、俺との会話を覚えてないって情報は、役に立つだろ」
「回答になっていない」

 何度も、目の前で笑う友人に違和感を覚えていた。それは目の前を飛び交う埃のように小さく、何処から来たのか突き止める気にもならない。
 友人が所属不明機と交戦し、命からがら地上へと戻って来た時。漂うだけだったそれは、最悪の形で名前を持った。
 唇を噛めば動揺が伝わる。最小の動きで、舌の先を、前歯で強く噛み締めた。鋭い痛みが挫折を阻み、折れそうな意志を奮い立たせる。

「回答は必要ないだろ。必要なのは、俺の話に乗るか乗らないか、お前の答えだけだ!」

 釣り針が最初に突き刺すのは。
 獲物でなく、その身を犠牲にする、餌の身だ。








 石畳に転がる紙袋を、気付かず思い切り踏み締めた。掠れた音が耳障りで、反射的に掴み上げるとゴミ箱へと放り投げる。見事に外れ、全速力で拾いに向かい、大人しく直接投げ入れた。

「ジャック……大丈夫かな……」
「不正に協力させようとした男の心配か?」

 隣を歩くビセンテは、「放っておけ」と鼻を鳴らした。確かに、女性問題の火種は彼自身にあるのだから、完全に自業自得だ。
 それでも、友人があの紙袋のように、容赦なく踏み付けられているのかもしれない。最悪の展開を考えれば、どうしても身を案じてしまう。

「あれの節操のなさは昔からだ。同情されれば余計調子付くぞ」
「え、やっぱり、同期相手でも酷かったんですか?」
「当たり前だ、同期だからと気遣う理性があれにあると思うか」
「思わないです」

 肩を竦め笑って見せた自分の行動に、内心驚いた。ビセンテ相手でも、力を抜いて話すことが出来ている。自覚すれば何とも気恥ずかしく、打ち解ける可能性が見えて来たと思えば、嬉しさも込み上げて来た。

「アイツ美人大好きですもん、最初ビセンテさんにも声掛けたでしょ?」
「掛けられていない」
「え」

 上がっていた口角が、瞬く間に引きつった。ビセンテの発した声が、あまりに低く、その表情は訓練中のように殺気を帯びていたから。

「いない」
「……え、一回も、」
「行くぞ」

 明らかにこの話題を終わらせようとしている。今までの流れなら、事実を認めた上で「蹴り飛ばしてやった」とでも吐き捨てそうな物を。仮に、仮に。本当にジャックファルが声を掛けていなかったとしても、ビセンテが不機嫌になる理由と結び付かない。
 途端、腹の中に不快感が蔓延した。拒否すると言うことは、何かあったのかもしれない。拒絶や恐怖は、大抵経験から芽生える。以前ヨニから聞いた言葉が、蘇る。
 これは、後からジャックファルに確認して良い内容だろうか。結論が出ないまま、黙り込んだビセンテと共に、暗くなり始めた帰路を辿った。


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