第三話「夜明けに染まる風見鶏‐6」


 連なる稜線の向こう。未だ全貌を見せない太陽が、明らむ空に紫の帳を広げていた。

『そろそろ夜明けだな』

 サーバル――これは確か、ダンテ・イゾラ隊長のタッグネームだ――と名乗ったスピーカー越しの声が、情報を具体的な単語に当てはめる。
 夜明け。そう一言発しただけで、アルベルトはフェルディオの目の色が、タッグネームの由来だと推測した。本当はそんな綺麗な理由じゃない。抱える怯えを、戒めとして組み込まれただけだ。
 改めて空を見る。凝視し続けていると、瞳が東の空へ溶け出すような感覚に襲われた。
 正確に言えば、この両目と今の空には、微妙な色彩の違いがある。そもそも朝焼けと言われ、紫でなく赤や黄色を連想する人間だって多いだろう。それでもアルベルトは、この目に空の色を見た。例え一瞬の移り変わりだとしても。他の誰もが連想しない美しい朝焼けだとしても。
 様々な濃淡を帯びた紫。重なり合う暁の象徴を、銀の軌跡が容赦なく分断して行く。
 あの銀は誰の機体だ。目を凝らすが、外観に大した特徴は見受けられない。
 幻想的な光景を背に、機体は高度を落とし悠々と飛行し続ける。フェルディオとアルベルトが搭乗する機体も、別の誰かから見れば、朝焼けの一部へ溶け込んでいるのか。

『こちらサーバル。ヴェック、ディープ、飛行に問題はないか』
「良好だ」

 自身の名を呼ばれたが、今操縦権はフェルディオからアルベルトへ移行している。返事をして良い物か判断出来ず、ダンテに見える訳もないのに、とりあえず頷くだけ頷いた。

『なら、ヴェック。今から俺のケツ追い掛けろ。軽い模擬空戦だ』
「……ああ!?」
「ん、え!? イゾラ隊長、今なんか言いました!?」

 聞き返しておきながら、告げられた命令を脳は理解していた。一方の機体がもう一方の機体を追う、模擬空戦。それはつまりドッグファイトの訓練と言うことか。
 今から? アルベルトとダンテ、二人の分隊長が?

『飛行中はサーバルだ臆病羊。後ろの鶏も、一々聞き返すな。今回の訓練の責任者、上官は俺だ。分かるな? お前等は忠実な僚機の一部。選択肢は一つ。基本中の基本だぞ』
「こっちは機種転換訓練の一環だろ、んな勝手な真似して総令にバレたら……!」
『俺を飛び越して総令の心配か。よっぽど人間農耕地一号になりたいようだな』
「テメェどんだけ人耕してぇんだよ! フェルっ、ディープ! いい機会だよく見とけ!」

 本名を口走りかけた辺り、アルベルトも混乱しているのだろう。それでも発した言葉には決意が滲み出ていた。
 総令だとか人間農耕地だとか、聞き慣れない単語ばかりが耳に届き、何故アルベルトが腹を括ったのか推測すら出来ない。
 理解出来たのは、これから分隊長同士のドッグファイトが行われる事実。いつまでも整わない自身の呼吸。
 そして、痛みながらも確かに早まる、羊と揶揄された心臓の鼓動だけだった。
 恐れや不安を高揚感が追い越す。いつだって下手に出て、期待を抱かず、不足の事態を回避して来たと言うのに。たった今、この胸は未知への期待に踊り狂っている。
 鳥のように空を駆けた、アルベルトの操る戦闘機。その中で自分は呼吸している。そしてこれから、あの洗練された軌道を共に進む。
 自覚すると同時。見えない流れが、周囲の空気を絡め取って行った。
 太陽が世界を覗き始め、眩い日光によって掠れ行く紫が、この日一番鮮やかに眼球へと映り込む。

 勘違いでなく、幻想でなく。
 彼の手足となる機体なら、本当に、この空の果てへと溶けて行ける気がした。





 銀の世界はいつも冷たい。
 降り積もった銀は指先を麻痺させて、降り注ぐ銀は視界を霞ませた。
 寒い。痛い。身体的な苦痛は感じるのに、辛いだとか、悲しいだとか、そう言う心の軋みは浮かばない。灰とも銀とも白とも取れる街並みすら、いっそ美しいと思える。こんなにも人々の生気が消え失せた街を、自分は。
 麻痺したのは体だけじゃなかったのか。苦笑しようにも、頬が凍って言うことを聞かない。

 眠り続ける街。色彩を忘れたこの街が、自分の全てだった。
 ビルの窓ガラスが映し出す姿にも、やはり色はない。銀の髪。銀の瞳。青白く冷え切った肌。何もかもがこの世界に受け入れられている。同時に、逃げられはしないと、聞き覚えのある声に囁かれ続けた。

「忘れるな。お前は権利を持っていない。取り戻すには、資格がいる」

 辛い宣告だとは思わない。当然の結果だと受け入れた。抗うことなど遥か彼方の夢だった。
 果てない雪が気まぐれに弱まり、重い雲が風に流される。千切れた灰色の隙間から覗く、澄んだ青空。見下ろされると居心地が悪くなった。
 差し込む日差しが意識を覚醒させ、冷えと痛みと空腹が鮮明になる。せっかく曖昧になっていたのに。舌打ちしようにも舌が回らない。進む度爪先に見えない刃が突き刺さる。

 人がいるのに、この街は廃墟も同然だ。熱も色も失った故郷。自分は一生、あの空に染まらず、ここに相応しい姿で生きて行く。
 望まれた人間しか招かれない青の世界を眺めながら。

「いつか手に入るなんて思うなよ」

 戒めの言葉を、凍った足元に零したまま。


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