いにしえと貴方‐1


本編未登場キャラの話。読んでも読まなくても本編の進行に支障はないので、苦手な方はご注意下さい。






 神は我等に与え給う。
 欠けることなき知の欲望を。





 空気は人を選ぶか。音は時を分別するか。
 ここは人の生きる世界。御伽話のように、精霊が大地に住まうはずもない。
 理解していながら、歩む足が仮説を組み立てる。この世間より隔絶された美しい幻想に、人ならざる者の息がかかっているのでは、と。

 扉を開け、最奥が小さな身を出迎えた。頭上より遠ざかったはずの高い高い天井は、距離など感じない程圧倒的な威圧感を帯びている。
 落ちて来ない。幾多の強固な柱に支えられた木材の空は、確実な安心と不明瞭な不安を降らせた。
 空気が冷たい。吐き出す息の一つ一つに、己の浅はかさが映し出されそうで、自然と呼吸が詰まる。
 足音が大きい。踏み出す指の一本一本が、己の過去を示しているようで、自然と歩幅が狭まる。

 肌が寒い。なのに内側は激しく燃え盛っている。
 ああ、与えられた身分が揺らぐ。喉が、心臓が、網膜が、不協和音を奏でている。

「神様……!」

 予想通り、零れた吐息に内面が滲む。何てありきたりな、自身の深さを簡単に測られそうな、安い感謝の言葉。
 でも。だって。何度も呟く。
 ここは、我がセンシハルト帝国の頂。太古よりかき集められた知識の終着点。

 国立貯蔵館内の綜合図書室。
 招き入れる者を選ぶ、禁踏の空間に、私はいる。

「ーーっっうっ、ひああぁ……!!」

 体を捩り長机に突っ伏そうとして床を転がった。
 馬鹿か何をしている。館内の如何なる備品にも、私のような一学生の触れる資格なんてない。
 蔵書の閲覧が許可された。それだけで身に余る光栄だと言うのに。呼吸を整えながら立ち上がり、必死に進む。長机の群れを横切り、本棚の壁へと一歩一歩近付くだけで、涙が零れそうだった。

 神は我等人間に欲を与えた。食欲、性欲、睡眠欲。だが、代表的なそれらに勝りかねないもう一つの欲を、私は知っている。

 知識欲。

 大袈裟な物でなくていい。恋する人の好きな物。憎む相手の弱点。己を必要とする何処かの街。瞬き一つ分でも人より長く生きる術。
 人は常に、何かを知る為欲に溺れる。
 神の懐と見間違うような空間は、そんな欲に満ちていた。私はその様を、とても美しいと思う。
 列をなす背表紙の前で、人指し指が所在なさげにさ迷った。どれから手にとっても、間違いで、正解な気がする。

「フェーデ戦記と、ラスト史記ーーああ、ウルテアの詩大全もあれば一番、」
「ウラティーバ言語か? だったらフェーデ戦記は原本謄本のにしろよ。前の翻訳がやった抄本、ありゃ酷ぇからな」
「あーそれ忘れてた! ラスト史記は中編からーー」

 火照った頬が、急速に熱を失う。
 未知を望んだ瞳は、眼科の異質に戦慄いた。

「中編、特に“三対の塔”以降にしとけ。前編は大した記述もねぇぞ」

 閉ざされた冬の湖面。大量の酸素と一緒に、そんな言葉が流れ込んで来た。
 毎日掃除夫が磨き上げているであろう床に、男が一人、そんな苦労など知る由もない体で座り込んでいる。目指していた本棚の真横、私にとって金貨より価値がある本の山を、背凭れ代わりにして。

「禁踏貯蔵室へようこそヒヨっ子。興奮して本破ったら体で回収させて貰うからよ」

 獣の瞳が獲物を捉えた。場違いな錯覚に足が竦む。真冬、透明度も清廉さも失くした、深い青緑の濁った湖。湛えた色と共に水を掬い上げ、氷に閉じ込めてしまえば、きっとこの人の髪になるのだろう。
 深いのに何処か透き通る鋭さを帯びている。不思議な髪。不思議な瞳。視線が、呼吸が、見えない冷気で凍てついて行く。

「おい。ヒヨっ子ならせめてピイピイ鳴けよ。聞こえてねぇのか?」

 男は組んでいた胡座を崩し、足のすぐ側に右手を付いてきた。見上げて来る瞳は一つ。左目は、革の眼帯に覆われている。

「きっ、聞こっ、聞こえてますよ!? 何なんですかあなた! ここはっ、禁踏貯蔵室なんですよ!? 勝手に入ったら処罰されるんですよ!?」

 そこまで口にして、ふと考えた。手の甲を口に押し当て、小刻みに肩を揺らすこの男は、何者なのだろうと。
 禁踏貯蔵室に立ち入れる人間はほんの一握りだ。王族付きの学者、王族本人、または彼等から特例を賜ったーー例えば自分のように、学院で一番の成績を必死でもぎ取ったーー者に限定される。
 では、誰だ。まさか本当に精霊の類が出現したと言うのか。嫌だ、こんな柄の悪い下品な妖精なんて、絶対に嫌だ。

「あなたは……」

 男は顔を上げ、持っていた本を棚へと戻した。その手付きが思っていたよりずっとずっと優しく丁寧で、思わず見とれた。だが次の瞬間、真逆のように乱暴な所作で、男は立ち上がり腕を掴んで来る。
 大きな手だ。袖のない服を着ているせいで、視線を上げれば逞しい肢体が肩まで露になっていた。さらけ出された皮膚には、大小様々な傷痕が幾つも刻まれている。

「なっ、何なん、」
「その氷みてーにすぐ溶け出す脳みそでも、これくらいは記憶してんだろ?」

 氷。ついさっきまで目の前の人間を形容していた言葉に、心臓が大きく脈動する。さっきまでこの胸は、期待と、高揚と、感謝で満たされていたと言うのに。
 思わず瞼を閉じれば、塞き止められた水分で眼球が溺れる。

「目ぇ開けろ」

 捕らえられた手が、何処かへと導かれる。冷たくて、固い感触が指先に走り、そんな訳ないのに焦る思考は氷を連想させた。
 命じられるまま、それでもゆっくり目を開いた。震える人差し指と中指が触れていたのは、宝石。砂金のように。月光のように。木漏れ日のように。固体でありながら、空間を支配する眩い金色。



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