いにしえと貴方‐2


 ーー私は。いや、この城に住まう者なら、きっと誰でもこの輝きを知っている。
 襟元に埋め込まれた宝石の中で、橋のような紋章が光る。間違いない。この尊い宝を身に纏うのは、彼等だけ。

「ガキの躾はしっかりやれって、バレッドに言っとくか。帝国立研究所、カルフ・キド所長のヴィレン・ザディネルだ。これくらい覚えとけよ学院のヒヨっ子」

 センシハルト帝国の頭脳。如何なる発掘品や古文書に触れる権限を持ち、他国の言語や歴史に精通し、一呼吸の間に十の記憶を得ると言う。帝国の、叡知の頂。
 そんな落ちる影すら見付けられない雲の上の存在が、目の前にいる。触れている。こっちを、見ている。
 視界が滲む。鼻が詰まり、嗅覚も消えた。みっともなく咽び泣く己の声で耳もロクに動かない。

「あっ、あぐっ、握手っ、握手じで下ざい〜っ」
「手なら握ってるだろ。おい汚ねぇな」
「そんなんじゃなく! もっと組んず解れつの! 接触面積の多い! 握手を!」
「んな卑猥な表現の握手をお断りだ」





 顔も知れない古(いにしえ)の貴方。同じ地に立ち、何処へ駆けて行った。何がその瞳を輝かせた。流れる呼吸を止めたのは、どんな美しい結末だったのだろう。
 知りたい。知りたい。数十年生きるので精一杯なか細い命に、インクの香りが息を吹き込む。ページを捲る度、私は草原を歩き、城の頂から街を見下ろし、海辺から異国の影に奮えた。文字が、それを理解する脳が、私に過去を与えて行く。
 もっと欲しい。知らない物を、もっと沢山。





「そう思いませんか!?」
「おーあー知りてえ知りてえ最近入った侍女の酒の強さとかお前ちょっと聞いて来いよ」
「お酒の強さを聞いて何する気ですか! 酔わせてなし崩し的に生殖行為に及ぼうなんて下品ですよ!」
「そっちの思考のがよっぽど下品だわアホ」

 紙の鳴き声が、厳粛な空間を渡る。薄っぺらい紙切れの作る音が、人間の喚き声よりよっぽど鮮明に届くのは、詰まった歴史が違うからだ。そう主張すれば、ヴィレンは鼻で笑い「お前の声のがうるせぇ」と一刀両断する。

「で、目当てのは見付かったのか」

 手に取った本を流し読み、つまらなさそうに元の位置へ戻した。それが今の自分では目次すら理解不能な、暗号のような内容なのだから、身震いするしかない。とにかく質問に答えようと、奮発して買った鞄から羊皮紙の束を取り出した。

「フフフフフ昨日これだけ写したんです見て下さいこれだけですよこれだけ」
「さては寝てねぇだろ」
「寝てる暇がありますか! 期限は一週間だけなんです、一秒たりとも無駄には出来ません! え!?」
「何も言ってねぇよ幻聴聞こえるくらいなら控えろ馬鹿」

 頭に靄がかかっているようで落ち着かない。それでも呑気に惰眠を貪る余裕など一切なかった。禁踏貯蔵室への立ち入りは一週間の期限付き、次に許可されるのは少なくとも半年以上先だ。半年分、後悔しない為寝食を惜しんで写本に励んでいる。
 学院で専攻しているウラティーバ言語を使用していたとされる古代ラスド神国、ウルイマ地方。そこに関連する本の表題は、ヴィレンが一覧表を作ってくれた。片っ端からかき集め、毎日指の水分がすっからかんになるまで捲り続けている。

「ヴィレン所長」
「あ?」
「何故、私のようなただの学生にご指導下さるのですか?」

 初めてこの貯蔵室に足を踏み入れ、ヴィレンと言葉を交わしてから今日で五日だ。その間、彼は毎日のように貯蔵室を訪ねて来た。先に本棚の間で眠りこけていることもあったし、何回も退室と入室を繰り返した日もあった。
 つまらなさそうに本を広げ、欠伸を噛み殺しつつ、こちらの質問にはぶっきらぼうながら律儀に回答してくれる。

「あー……」
「はっ! もしかしてこれが日課なのですか!? 私が訪れずとも、毎日この貯蔵室で勉学に励んでおられるのですか!?」
「……そんなとこ」
「あああ尊敬致します! 私も慢心せず精進致します、知識を得ることは私にとって何物にも勝る欲求ですので!」

 予想より遥かに高度な理由だ。叡知の結晶と評される身で、まだ知識を欲するのか。高揚感が体を突き抜け、思わず、それでも床を傷付けないよう丁寧に椅子から立ち上がる。拳を握り締めていたのは、心の底からの無意識だった。
 初日はゴロツキに思えた氷の眼差しも、今は熱意を帯びた探求者の瞳に変貌している。そう思えた。だからきっとそうなのだろう。

「……欲求、ねぇ」

 独りごちながら、ヴィレンは新たな本を手に取った。肉刺の潰れた痕が節々に残る指、こうして見ただけではとても研究者の物とは思えない。

「三大欲求。諸説あるが、食欲・睡眠欲・性欲が一般的だろ」
「はい!」
「お前が優先するのは、言うなれば……知識欲か」

 何一つ間違いのない指摘に、思い切り首を上下に振る。知識欲。人によって三大欲求に次ぐ欲は様々だが、自分が何を求めているのかは理解していた。
 本の山さえ築かれれば、山盛りの料理などなくとも満たされる。不可視の歴史さえ示されれば、幻想に満ちた夢など見れなくていい。未知の言葉があれば、恋人との語らいなどいらない。



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