日本の心
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日本の心

 今日、書写の時間に、毛筆で「進め」という字を書きました。書く前にはなんとも思わなかったのですが、毛筆で書くととてもむずかしいことが分かりました。まず「進」のしんにょう、これがむずかしかったです。そして「め」。これは最後の最後まできれいに書けませんでした。どうしても後半の部分がかすれてしまうのです。
 今日は、なんとかましな「進め」を書いて終わることができましたが、自分では満足いきません。でも本当にきれいに書けないのです。
 今日の毛筆、「進め」にはまいりました。

                       ――十二月十七日



 毛筆の良さというものがその当時よく分からなかった。
 ピカピカの習字セットを買ってもらって、それを早く使ってみたいとわくわくしていた頃は習字っておもしろそうと思っていたのだが、実際やってみると自分が思ったようにはうまく書けず、しかも墨がこぼれて服につくという恐怖心が強まってきた。私が通っていた小学校は制服がなく、私服だったため、もしもお気に入りの服や汚れてほしくない服を習字のある日に間違って着てしまっていたら、それは大変なことだった。自分の不注意で墨を服まで大ジャンプさせてしまうかもしれず、また自分がどんなに気をつけていても、誰かの墨が跳ねついてこぼれて突進してきたりする可能性は十二分にあったのだ。
 「一」や「二」や「下」等、簡単な漢字の時はまだ良かったしおもしろいと感じることもあったが、この頃になるとすでに苦痛に思うことも増えてきていた。特に「の」や「め」、「あ」などを書かなければならない時は大変だった。どうしても最後の方がかすれて消えてしまう。下手とか言っている場合ではない。書くことができないのだ。これは一大事である。
 何度も挑戦しやっとの思いで書けた文字さえ、自分ではいいかなと思ったりうまくできたと思ったりしたとしても、必ずクラスに習字のうまい人というのはいて、その人の作品を見たとたんに自信喪失してしまうのだった。そうなったらもうあまり満足感もない。なんだか疲れてしばらく習字はしたくないなと思うのである。
 そんな習字に対するやる気のなさを一番あらわしていたのは間違いなく筆の状態であろう。最初こそ使ったら一回一回丁寧に洗っていたのだが、だんだんめんどうくさくなっていって洗わないで放っておくことも多くなった。当然の結果として筆先はがちがちになる。ひどい時は毛の半分以上が墨で固まって動かなくなっていたこともあった。筆からしてみればとんだ持ち主である。なぜよりにもよってこの人に買われてしまったのだろうと己の運のなさを悔いていたのに違いない。そして筆はしかえしとして持ち主に細っこく頼りない字を書かせるのであった。
 正月の書き初めの宿題にはなかなかうまく書けなくて泣かされることもあり、習字は私の中で厄介なものというイメージがつきまとっていた。字がきれいになる、というが、学校の授業や宿題くらいではその効果もうすい。かといって集中力が高まったか、というと、精神統一して頑張った思い出よりも集中力がなくなって一筆一筆がひたすらつらかった、という思い出の方が強いのだった。習字の時間には毛筆だけではなく硬筆も習うのだが、硬筆をするとなると、毛筆をしなくてもいい喜びに思わずニヤリとしてしまう。そんな状態だ。
 ところが今になっていきなり毛筆の良さに気付いた私である。高校になってからは習字がないので習字自体はずっとやっていない。離れてみて初めて本当の価値が分かってきたということか、はたまた反動が来たということなのか。しかしどちらにしても、書くことに必死で筆の美なるものを少しも感じようとしていなかった私がその良さに気付くというのはちょっとした進歩かもしれない。ここは自分をほめてやることにしよう。
 筆で書かれたものは、なんといってもその力強さとスピード感、流れの美しさに魅力があると思う。今日も学校帰りの電車の中、一枚の広告を見つけた。二人の野球選手の後ろに輝く「激」の文字。それがまた、まさに「激」という感じなのである。強さと筆の流れに心を託し、思い切り書いたという感じだ。うまい具合にかすれているところが多く、それがまた字の味をより引き立てている。言葉や文字の意味を感覚的な面で表現できるというのはとても素晴らしい。
 そしてまた、毛筆と日本語というものがこの上なくマッチしている。英語を毛筆でしたためたとしても、毛筆と日本語という強力タッグには到底かなうまい。そんなことを言ったって中国あたりでも習字はあるじゃないかとつっこまれそうなものだが、漢字だけではなくひらがなという言葉の文化を習字で表現できるのが日本語の強みだ。毛筆で書いたひらがなというのはまるくやわらかく、やさしい感じがする。漢字とはまたひとあじ違った良さである。
 外国にはない文字の美しさ。それがここにある。習字にこめられた日本の心だ。昔は外国の文化にばかりあこがれていたものだが、最近ようやく日本の文化の良さも分かり始めた。なんだかとても心が落ちつくのだ。小学生の頃の私が今の私をみたらきっと驚くことであろう。これほど惹かれるとは思ってもみなかったのだから。中学生の時はいまいちピンとこなかった古典も、高校になってより詳しくやるようになると少しおもしろいと感じるようになってきた。この分では小学生の頃、そして今もまだおもしろさが分かりきらない大河ドラマや演歌といったもののアジをしめる日もそう遠くはないかもしれない。
 さらなる日本の発見へ、「進め」。



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