漢字と私
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漢字と私

 今日、昨日やった百問漢字テストが返ってきました。一時間目、私のところにもどってきたテスト、なんとなく見るのが怖いような気がします。
 テストを受けとって、つくえにすわり、私は点数をそっと見てみました。
「九十九点……」
 おしい。どこをまちがえたのかと思ってテストを見ると、「複数」を「復数」と書いてしまっていたのです。そしてさらに私は先生のさい点ミスも見つけてしまいました。「逆転」が「逆点」となっていたのにマルになっていたのです。これで九十八点に点数は下がってしまいました。
 かすかに百点の自信があっただけにちょっと残念でした。

                        ――十月十八日



 今テストで「百点の自信があった」などというと、これは相当すごい人である。あまりにもすごくて少々まぶしすぎる。
 しかし小学生の時ならどんな人にでも百点を目指せるチャンスがある。私が小学生の時に受けた百問漢字テストも例外ではない。なんせ、社会の都道府県テストのように、何度も同じテストをするのである。きちんと練習すれば、確実に答えられるのだ。
 加えて、私は漢字を勉強することが嫌いではなかった。日記帳をパラパラとめくってみても漢字の話題はよく目につく。日頃よく使う漢字、特に熟語が漢字で正しく書けるようになることは、一歩大人に近づいたようでもありとても嬉しいことだった。
 逆に言葉を知っているのに漢字で書けないというのは嫌な気分である。そしてこれがまた、熟語の方が悲しみは大きいのだ。「知識」だって「識」の字を習うのは遅いのでそれまでは「知しき」で我慢。「種類」も「しゅ類」。「挑戦」も「ちょう戦」。カッコイイ熟語もこれでは台無しである。小学生ながらもこの中途半端な状態はなんだか間抜けですっきりしないと思っていた。それだけにやはり、書けるようになった時の喜びは大きかった。小学五年生よりも前のことになるが、私は未だに「算数」と漢字で書けるようになった時の興奮を忘れてはいない。「国語」や「社会」などは二字のうちどちらの漢字もわりと早い段階でならったのだが、「算数」はそうではなかったのだ。たしか、主要教科の中では「算数」という熟語は最後から数えた方が早いくらい完成が遅かったと思う。
 テストだと書けない漢字を大量に覚えこんでから本番にのぞまなければいけないためやはりめんどうくさい気がするが、それでもあとあとからその成果は喜びと共に自分に返ってくる。ということまでその時の私が考えていたかは分からないが、漢字テストはいつも一生懸命やっていたみたいだ。
 漢字と小学五年生の私といえば、忘れてはならないものがもう一つある。ちょうどその頃から私は書くことが好きで自分で物語を書いて遊んでいたため、その中で出てくるどうしても漢字で使いたい言葉を辞書で調べて練習していたということだ。
 例を挙げてみると「剣」や「魔」という字がそれにあたる。「けん」と書くにはあまりにもかっこ悪く、「まもの」と書くにはあまりにも迫力がなさ過ぎた。「魔」なんか画数も多く難しい漢字なのにこういう経緯で私は小学五年生から書いていたのだ。今考えるとこれはすごいことだと思う。言葉に対するこだわりが私にそうまでさせてしまったのである。
 高校の勉強をつらいと感じ、しかもなかなか身につかないのは、その勉強が普段の生活に直接必要ではないからだろう。それなら反対に日常の中で必要だというものは自然と一生懸命勉強できるはずだ。小学の頃の私の場合はたまたまそれが漢字だったわけだが、吸収しやすいものは人や時期によっても違うだろう。それを探し出してみることも勉強を進めるひとつの方法かもしれない。
 この調子で勉強するのがつらい、と思うものにも何かしら必要性を見つけたり、そうできないものはこじつけてでも探したりしてみたらどうだろうか。英語や地理は海外旅行に行った時も困らないようにしておくために勉強する。現社は世間知らずと言われないため。数学……数学は、脳トレとして大事。脳トレ、今はやっているではないか。トレンディーだ。化学は……も、もしかすると将来研究者になるかもしれないから……。
 ちょっと難しかった。




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