- ナノ -



はなしあう
2022/02/20 23:08

昔、大学の恩師に言われた言葉でいまでも忘れられないものがあります。

議論の場で発言しない者は、いないのと同じ。

当時、ゼミや講義の中でなかなか言葉を発する勇気を持てなかった私に、この言葉は鋭く突き刺さりました。
確かにそうです。
なにせ議論とは、意見を言い合ってはじめて成り立つもの。
口を閉ざしていては、その議論の壇上にあがれません。
あがる資格もないとさえ言えるかもしれません。
それはもう、その場にいないことと同じなのです。

なぜ意見を言えなかったのかということに関しては、私の場合こうでした。
自分の考えはどうしようもなく場違いなものなのではないか。
浅はかで、間違ったものなのではないか。
そういうことがとても気になったのです。
何も言わなければ、周囲の怪訝な目にさらされることもありません。
けれど、周囲の怪訝な目がなんでしょう。
沈黙を守るより、たとえ場違いで間違いかもしれない意見でも、
自分の考えを述べられることの方が数段「まし」です。
発言することでやっとスタートラインに立てるのです。
発言せず、そのスタートラインにさえも立てないことを思えば。

いまはこうも考えるようになりました。
変に見られたくない、呆れられたくない、私はそんなふうに自分のことにしか思いを巡らせていなかったのだなあ、と。
もう少し、あともう少し、その場にいたみんなに目を向けて、
ここにいるみんなで考えを深めていく、よいものを作っていくということに思い至ることができていたなら。
もしそうであったのなら、また違ったのではないかなと思うのです。

大学時代は結局、あまり意見を言えないまま、議論できないまま過ぎていってしまいました。
けれども、仕事をしているいま、議論をしたり協議をしたり、そんなことは山のようにあります。
ほんとはとても怖いし、びくびくしています。
そんなとき、恩師の言葉が思い返されるのです。

議論の場で発言しない者は、いないのと同じ。

ここに、私はいる。
そして、少しでもこのメンバーでよい方に向かっていきたい。
そう思うときに勇気が出ます。
議論するということは、その場にいる人たちを信頼して共によりよき道を探す、ということでもあるのかもしれません。
いまは、そう思います。

 



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