さやけき影よ

※成長団蔵(18)

遠い昔、学舎を先立った貴方が俺に残して下さったものは、数えきれない。忍びとして生きる道を自ら示し、教え、導いて下さった先輩。どんなに追いかけても越えられないその広い背は、今もこの目、この胸の奥に焼きついたままで。思えばあの頃の俺は、痛いくらいの優しさに包まれて随分と呑気に息をしていたのだと、気づいたのは今更になってからだった。感謝の言葉も満足に伝えないままに遠くに行ってしまったあの先輩は、今頃どうしているのだろう。誰よりも厳しく恐ろしかった、けれど誰よりも優しくて温かかった手のひらの貴方は。


満身創痍、極度の睡眠不足による過労と腹部からの出血とで体力は既に底を尽き、意識は朦朧とする。無造作に生い茂る草むらの中に横たわったままで、空を仰いだ。


十八の春。俺は、忍務に失敗した。敵の罠を侮り、迂闊に屋敷へと忍び込んだのがいけなかった。敵は、俺が事前に入手した地図に印付けられた場所ではないところに、高度な絡繰を仕掛けていた。こんな罠を仕掛けられる人間は、彼奴しか心当たりがない。


『……兵太夫!』


嘗て級友であった彼は学園を卒業後、フリーの忍者をしていると聞いた。神出鬼没に現れては、屋敷に罠を仕掛ける依頼をこなして去る、とだけ風の噂で聞いたことがあった。その絡繰によって侵入者である俺の存在が屋敷の警備に筒抜けになってしまった。見張りの忍に終われ、やっとの思いで追っ手を振り切り、山奥を暗闇に紛れてさ迷っているところで皮肉にも、ある男と再会を果たす。


「お前…きり丸、か?」


俺の呼び掛けに振り返った黒髪のその男は、あの頃の面影を残したままの、懐かしい級友に違いなかった。


「団…蔵……?」


一瞬、その表情が曇り、遅れてぎこちない笑みが返される。


「きり…っ」


知らぬ間に昔の友にすがろうとしたのか、想い出に甘えようとしたのか、思わず彼の肩へと手を伸ばす。しまった、と思った時には既に遅かった。刹那この手は空を切り、代わりに焼けるような熱い感覚が腹の底から沸き上がった。

深々と脇腹に突き刺さる苦無に、全てを悟る。俺を追っていた屋敷の雇われ忍者の一人が、きり丸だったのだ。


血を吐き出し地に伏せる俺を一瞥、きり丸は静かに言い放つ。

「悪いな団蔵…俺は金の為ならどんな任務も引き受ける」

止めは刺さねぇ。どのみちお前は助からないだろう。

そう言い残したその男は、一思いに殺される方がよっぽど楽だと知った上でそう言うのだろうか。それとも、嘗ての友への細やかな情けだろうか。霞んでゆく世界の中、意識を手放す直前に咥内に溜まった血と共に言葉を吐き出す。


「…畜生」



噎せるような草と土の臭いで目を覚ます。気を失っている間、今までの経緯を夢に見ていたようだ。随分長いこと眠っていたらしい。腹に深々と刺さる苦無、抜けば忽ち血が吹き出し、直ぐにでも失血死するだろう。最も、抜かずとも死は直ぐ其処にあるのだが。それでも俺は、恐怖し、自ら引き金を引くことは出来ずにいた。


「…はは、俺も、まだまだ駄目だなぁ…。」


忍術学園を卒業後、父を説得し家業を継ぎながらも忍として生きる道を選んだ。あの頃から忍の道を全うしていた貴方へのどうしようない憧れが捨てきれなかったからかもしれない。フリーの忍者に成り立ての頃、素人に任務など早々なく、名を立てる為にどんな危険な任務も請け負い、幾度となく死ぬ思いもした。その度、あの人の影を越せぬ未練が、俺の生への執着となっていたのだ。
身体に残る幾つもの傷痕、算盤を弾く貴方の装束から覗く肌に刻まれたそれと同じものを一つ手にする度、前に進む為の自信へと変わってくれた。忍として三年経った今も、初心を忘れること勿れ、と貴方の教えを全うして生きてきたつもりだった。敵を侮るのはお前の悪い癖だ。貴方のその言葉をどうして忘れていたのかと、今更悔いても遅い。


ぐう、と静かな戦場に似つかわしくない腹の音が響く。もう一歩も動けない癖に、それでも腹は減るらしい。まだこの身体が生きている唯一の証明に、苦笑いを漏らした。


「腹が減っては戦は出来ぬ…か」


震える右腕に力を込め、懐を探る。やっとの思いで取り出したのは、一つの握り飯。


「…頂きます」


一口かじり、冷たく固い米を歯で噛み砕く。


思えばあの頃の俺は、温かい飯を掻き込み、温かい湯に浸かり、暖かい布団で眠り、温かい笑顔に包まれて生きていた。全て貴方が拒み、それでもきっと、貴方も愛したものだ。

温かい笑顔、彼らは元気にしているだろうか。噛み締める度、次々に浮かんでは消える級友の顔。数日後には馬借の親方として炭屋を営む級友のもとへ向かう筈だったのに。近いうち、忍術学園に行って後輩達に忍術の稽古をつけてやろうと、嘗ての鍛練仲間と話した筈だったのに。


ごくりと喉が鳴り、飲み込んだ米が胃へと落ちていく確かな感触。食への感謝、恩師の教え。漸く、貴方の言葉を理解した。こんなにも美味い飯は、生まれて初めてだ。

体は貪欲に栄養を欲する、鼓動の源となり、命を繋ぐ為のそれを。もう叶わないと知っているのに、人間の生存欲求は果てない。

まだ、生きたい。生きてあの人の進む道の先へ行きたい。その背に伸びる影、あの頃踏むことさえ叶わなかった貴方の影を越えたその先にあるのが、俺の求める忍の道なのだと、ずっと、きっとそう思っていた。


血となり肉とならない虚しい食事は、一口で十分だった。掌から滑り落ちたそれは地に転がる。


何時如何なる時も、忍の道を先行く貴方。その眩しい背中に俺は憧れも、期待も、嫉妬も抱いた。その広い背に守られているとも知らずに。

やはりもう指一本動かすことすら出来ず、細胞は徐々に破壊され、体の機能は確実に停止に向かっているのだと解る。

死を恐れてはならない。忍として当然のことだと解ってはいるのに、この体の震えは止まってはくれない。死にたくない、と理性を壊して本能がそう叫ぶのだ。俺は、貴方の教えを一つとして全う出来ていない。

悔しさか、体力の限界か。じわりと視界が滲む。冷たくなる指先と反対に焼けるように熱くなる、もう塞がることは無い、友の残した傷痕。彼を友と呼ぶのは相応しくない、と貴方は言うだろうか。忍が他の人間と気安く馴れ合うなど、本来あってはいけないことだ。忍になることは、即ち孤独を知ることだ。いつか貴方がそう言っていた。一人前と自負していた俺は今も、貴方の後輩、忍の卵だったあの頃と変わらず所詮半人前のままだ。


いよいよ意識も曖昧になりつつあった。視覚、聴覚が鈍り、痛覚さえ無くなった。


「バカタレ団蔵、何やってやがる」


不意に遠くから聞こえた酷く懐かしい声に、鉛のように重い瞼を持ち上げる。けれど、開けた筈の視界は暗く、目に映る人の姿をこの瞳は捉えない。また一つ先に死んでゆく自分自身に更なる恐怖が生まれた。


「…ぅ…団蔵!」


残されたのは、僅かな意識と、脆弱な鼓動と。失われた筈の聴覚は、幻覚として貴方を形作り、最期に淡い夢を見せてくれようとしているのか。狡い奴だ、と思わず笑う。


瞬きの合間に視界は白く包まれ、追い続けた背中がいつの間にか目の前に広がっている。ああ、その足元に繋がる影よ、届かぬ夢の果てよ。


貴方の声と共に眠りにつけるのならば、恐怖など何も無い。






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最期に聞いた声は幻覚ではなく、正真正銘本物のぎんぎんに忍者してる文次郎(23)です。団蔵の忍務は密書を盗み依頼主の元へ持ち帰ることだったのですが、文次郎も別の城主から同じ任務を依頼され、密書を盗んで逃走する途中に倒れる団蔵を見つけます。

文次郎は忍として団蔵を葬ることはしません。振り返らずに走り去ります。それでも、自分が愛情注いだ後輩、思わず涙を流してしまう自分に彼奴を叱る資格などない、と自分自身を責めます。けれど彼は忍の道を進み続けます。後ろから追いかけてくる、小さな影が一つ消えたとしても。

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