夜明けのミイラ

「さっさと抱けよ」

枕元に放られたのは、散々汗を吸い込んだタオル一枚。部屋に戻って早々ジャージのままでベッドに倒れ込むその姿は、どう映っているのだろうか。ランニングを終えたばかりの凛はまだ僅かに息を乱し、戸惑う後輩の腕を引き寄せてぼんやりと考えた。

「わあっ!松岡せんぱ…」

急に腕を引かれたその身体はバランスを失い、どさりと彼の上に倒れ込んだ。胸にのし掛かる人並みの体重に、凛は少しだけ表情を和らげる。確かな存在が、そこにはあったから。

数秒、二人は沈黙する。軈て決心したように、後輩は上着のチャックに手をかけた。ジジ、と音を鳴らして襟元が開かれ、首筋が露になる。そのまま、抵抗しない彼の喉仏に噛みついた。


「…は、…あ、」

愛情が伴わないセックスに、口づけはしないと決めていた。何かが壊れてしまうことより、誰かを壊してしまうことが恐ろしかった。

例えば、彼奴みたいに。約束で拘束して自由を奪った足、今頃何処かで溺れてしまっているのだろうか。海の底に引き摺りこまれるような冷たい感覚を、彼も覚えてしまっているのだろうか。

「…ぅ…っあ、」

思考する暇などなくなってしまえ。苦しげに喘ぐ彼は、その息継ぎの合間に声にならぬ声で毒づいた。蟠りさえぐずぐずに溶かして、全て蒸発してしまえばいい。

そうすればきっと、誰も気づかない。


「…せんぱい、痛いですか」

切羽詰まっても猶此方を気遣う、そんな態度が彼は嫌いだった。

「…いてぇ、よ」

それが何に対する答えなのか、彼自身解らなかった。後輩の指先が凛の唇をなぞる。そして、ゆっくりとその顔を近づけた。

凛は咄嗟に顔を背けた。ちり、と微かに唇が掠める。

「……っ!」

僅かに体が震え、そこで彼は果てた。

熱く火照った体と対象に、心は罪悪感にゆっくりと冷たくなっていく。眉間に深く皺を寄せ表情を歪める彼は、しわくちゃに丸まったジャージの上着を手繰り寄せようと上半身を起こし、手を伸ばした。

「…おい、なにすんだ似鳥」

とん、と凛の胸元にさらさらした灰色の髪が触れる。その背に回された白い腕が、逃げ出そうともがく彼を離そうとしなかった。掴みかけていたジャージはぱさりと音をたてて床に落ちた。

舌打ち一つ漏らし、凛は抵抗を諦める。ふふ、と笑い声が聞こえ、彼はじろりと睨むように視線を下げた。

「何笑ってんだ」

「…いえ」

全てを終えた後に感じる人肌が、彼は嫌いだった。口づけも抱擁も、理性を残したままで行うそれは快楽を伴わない。ただ、生ぬるい温もりが恐ろしかった。

例えば、彼奴みたいな。誰かを傷つけることなく静かに包み込む水のような彼。本当は、自分自身気づいていた。物言わないその優しさに、いつだって甘えていた。


「…悪ぃ」

消えそうな謝罪の言葉は、口づけを拒んだことに対してか、愛のない行為そのものに対してか。それとも、此処にはいない誰かに対してか、彼自身解らなかった。

「いえ…せんぱいがそれでいいのなら」

その後輩は、凛を見上げて笑う。俯いて見えなかったその表情を漸く知る。瞳に映るその笑顔は、何処か悲しそうだった。きっともう、誤魔化しようもない程に気づかれてしまっている。

多くを問わないのは、心を踏み荒らさないようにと、彼なりの優しさなのだろう。

それに比べ自分のなんとちっぽけなことか、と凛は唇を噛む。鋭い八重歯が刺さり、血が滲んだ。

「…あ、」

白い指先が頬を滑り、彼の生まれたての傷に触れた。そして、薄桃色の唇が、傷付いた唇に優しく重ねられる。凛の赤い目が見開かれ、軈て観念するようにそっと伏せられる。傷口を抉ることもせずに、ただ血を舐め癒すだけの数秒間の口づけ。

同情なんて真っ平御免だ。所詮は全てが気休めの暇潰し、特別な感情も理由もない。彼は必死に言い訳を探す。


涙は滴になる前に、何処かで乾いてしまったらしい。蟠りは相変わらず残ったままだ。全て蒸発してしまえばいい。

例えば、水のように跡形もなく消え去ってくれればいい。それが叶わないのも知っていた。遥か彼方の海を映したような、青い瞳を思い出してはまた、苛立ちを募らせる。

独りになれないのは、自分が弱いせいだ。後輩の額を伝う汗を指先で拭うことだけが、今の彼の精一杯だった。


濁った白濁が消えることすら出来ずに、いつの間にか腹の上でからからに乾いていた。ぐちゃぐちゃに混ぜられた感情のようだと、渇いた声で小さく笑った。


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