干涸びた杖一つ

夢を見た。魔法使いの弟子になる夢。

黒い三角帽子の老婆は告げる。

さあ、叶えてやろうじゃないか。もしも───。

世界は靄に包まれた。夢はそこで途切れる。

目を覚ますベッドの上、夜明けを待つ午前四時。

気怠い瞼を持ち上げた彼、松岡凛は深く息を吐く。

ぐっしょりと濡れた黒いタンクトップは汗を吸い込んで生身の肌に張り付いていた。

数分前のことを思い出す。夢を見た。魔法使いの弟子になる夢。
黒い三角帽子の老婆は告げる。

さあ、叶えてやろうじゃないか。もしも───。

彼女が杖を翳した、その先を思い出せない。

ぼんやりと考えながら、凛はタンクトップをベッドの脇に脱ぎ捨てる。汗の臭いが、鼻先を掠めた。
再び、枕に顔を埋める。

夢を見たのは、いつ以来だろうか。幼い頃から寝つきが悪く、愛用の枕がないと眠れなかった。

そういえば、妹も幼い頃は怖い夢を見たと泣いてはベッドに潜り込んできたな、とそんなとりとめもない記憶が浮かんでは消えた。

不意に、幼い頃好きだった絵本を思い出した。枕元で母にせがんだあの物語。確か、魔法使いが出てきたはずだ。ちょうど、夢で会ったことがあるような。


夢を見た。魔法使いの弟子になる夢。
黒い三角帽子の老婆は告げる。

さあ、叶えてやろうじゃないか。もしも───。


…ああ、思い出した。


「ん…」

掠れた声一つ、ギシリと音をたてて二段ベッドの上が揺れる。ぱさりと布が擦れる音がした後、ふあ、と欠伸一つ。

「悪ぃ…起こしたか」

「いえ」

おはようございます、とその後輩、似鳥愛一郎は梯子を下りながら、笑う。窓に差し込む筈の朝の陽射しはまだない。

「なあ、似鳥」

「何ですか?」

酷く頭痛がした。寝不足のせいだろうか。


「…もしも一人だけ救えるとしたら、お前は自分とそいつ、どっちを選ぶ?」


言ってから、しまったと思った。案の定、後輩はぽかんとした表情になる。余りに唐突過ぎて、話の意図が何一つ伝わらない。しかし、これ以上は伝えなくていいのだと凛は思った。

「…なんでもねぇ、忘れろ」

相変わらず、その後輩は首を捻っている。

夢を見た。魔法使いの弟子になる夢。黒い三角帽子の老婆は告げる。

さあ、叶えてやろうじゃないか。もしも───。


お前と、お前の大切な誰かが溺れてしまったとして、儂が一人だけ助けてやると云ったら、お前はどちらを選ぶ?


目を覚ます直前、俺は何と答えただろうか。きっとどちらも正解で、きっとどちらも間違いなのだろう。破られたページ、途切れた一つの物語。最後はきっと、誰も笑えない結末のままで。

凛はランニングウェアを取り出した。真新しい朝の光に、全てを溶かしてしまおうと。

「あ、ランニングならぼくも…」

「いい。一人で走らせてくれ」

その夢は余りに突飛で、長い語りもなしに人には伝わらない。しかし、これ以上は伝えなくてよかったのだと凛は思った。


扉が閉まる。朝を迎える、薄暗い二人部屋に独り。

残された彼は、寂しそうに笑った。


──もしも一人だけ救えるとしたら、お前は自分とそいつ、どっちを選ぶ?


きっと、あなたを救えるのはぼくじゃない。そして、あなたはいつか…きっと、あの人に救われる。

カーテンを開くと、差し込んだ陽の光の向こうに青い空が広がる。朝の空気に冷やされた澄んだ青。同じ瞳の色をした少年を、見たことがある。

彼もまた、魔法使いなのかもしれない。いつかその魔法に触れて、頑なに閉ざした心が開かれる時がくる。

空は広く、深く。凛として、そこにあった。風に捲られたページ、破られたその先が綴られる。物語は、終わらない。


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