(なんで俺が浮気相手になってんだ…)
なまえがあのクソ男と寄りを戻すのを応援するつもりだった。
それなのに、許してもらえなくて喧嘩したのかなんなのかはっきりさせもせず、自分の感情にまかせて抱いてしまったなんて。
いくらなまえが落ち込んでいたとはいえ、さすがにこれはまずいだろう。
頭を抱えざるをえない。
これじゃあのクソ男と大してレベル変わらねぇよ…。
休んだ次の日にはもう出社してきたたなまえは、熱を出していたあの日と比べさっぱりとした顔をしていた。
昨日の今日でもうあのクソ男と仲直りでもしたのだろうか?
一昨日の夜、散々俺に抱かれたくせに。
俺にすがってきた弱った彼女の姿を思い出せば舌打ちするほどにイラついた。
でも、それをなまえのせいにするつもりもなく、むしろ弱みに付け込んだ自分に対してが一番腹立っていた。
くっそガキくせぇ…。
「おはようございます」
「佐々木、この資料作っておいてくれるか?」
「え?ええ、はい?」
近づいてきたこともわかっていた。
俺に向けられた挨拶なのもわかっていた。
仕事においてなまえを贔屓していたつもりはないが、サポート役だし、昔馴染みってこともあって、彼女に依頼することは多かった。
実際彼女の仕事は迅速で丁寧。
営業の先輩には「お前みょうじにばかり仕事振りすぎだろ」と注意されたことさえあったぐらい。
その仕事を別の人間に振ったんだから、なまえも佐々木も驚いた顔をしてもしかたないだろう。
でも今の俺はそんな子供染みた抵抗をしてしまうほど心が狭い。
「中身確認して、わからないことあったら聞いて」
「は、はい…」
未だ呆然としているなまえの横を通り抜け自分のデスクに戻った。
俺はこれ以上あいつになにかしてやれねぇし、これ以上はもう関わることさえ憚られる。
すれ違いざまに横目でちらりと見れば、眉尻を下げ困ったように笑っていて、胸がキリキリと痛んだ。
なんでこんなことになったんだろうという後悔が堂々巡りしていて、結局それに対する答えは“あの日”引き留めなかった自分が悪い、という答えにしか行き着かない。
あの夜抱きしめたなまえの体温を絶対忘れられないんだろうな、と心の中で嘲笑うしかなかった。
―――
「なまえ、これどういうこと?!」
お昼休みに食堂でご飯を食べていれば、仲の良い同僚で友人の子が突然携帯の画面をこちらへ向けた。
この子には、以前タカヤからの紹介で彼の勤める会社に彼氏候補がいるんだった。
友人の友人を紹介しているその画面には、見知った二人の顔が仲睦まじげに写っていて。
「うわ〜幸せそうだね」
何事もない日々は過ぎていった。
タカヤと別れて一ヶ月と少し。
別れてしまえば、それはあっさりとしったものだった。
いつまでも悲しみに暮れ泣くこともなく、ただ淡々と日々を過ごすだけ。
私の身辺は何も変わらないというのに、タカヤとマネさんは付き合い始めたことをSNSで公言するまでに至ったようだ。
『今更?笑』なんてコメントが付いてて、笑える。
「は!?あんたなんでそんな悠長にしてるわけ?!いつ別れたの?!なんで?!!」
「やだ、顔近い…。別れたのは一ヶ月ぐらい前だよ。お互いの心の不一致で…」
長く付き合っていたものだから、この説明だけでは納得いかないかもしれないけれど、これ以上説明のしようがない。
円満解決だから大丈夫だよと言えば、そういうことじゃないと怒られた。
「なんで早く相談してくれなかったかなー」
「ごめんごめん。今回のことは私も悪かったし、結構ドタドタっと話が進んじゃって…」
笑って誤魔化せるくらいにはなった。
少しずつ気持ちも消化してきている。
「じゃあさ、今度の日曜カラオケ行こうよ!ショッピングもしてさ!ストレス発散しよ!」
「そうしたいのは山々なんだけどさ…」
「…なに?また野球の試合〜?今夜は?」
「ごめん、今夜も練習があって…」
彼女と遊びたくないわけではない。
以前にも彼女と遊ぶ約束を何度か断っていることもあって申し訳なく思いながら、今度絶対飲みに行こうね、と心の中で誓う。
「はー……ほんとなまえって野球好きだよね」
呆れて笑って許してくれる彼女のこういうところを、ありがたいといつも思っている。
「私の好きだった人が好きなスポーツだから」
お昼休みは残すところあと十分。
私たちは食べ終えた食器を片付け化粧直しに向かって、また自分たちの仕事に戻った。
何事もない日々は過ぎていった。
あれからあからさまに純が私を避けていることを除いては、何事もない日々。
胸が痛くないわけではないけれど、これは受け入れるしかないことだと諦めていた。
たくさん傷つけてきたのは私だから。
「よーし!じゃあ今日はこれで終わりにしよう!」
ようやくキャプテンから終了の声が出たのは、すでに二十三時を時計の針が指していた。
幸いにも今日使っている練習場から私の住んでるアパートは近く、歩いて帰れる距離に安心した。
そうでなければキャプテンや他のメンバーも遅くまで残したりはしないけどね。
「長えよ!疲れが仕事と週末の試合に響くだろうが!」
「試合に勝つためにはしかたないだろ?」
キャプテンと副キャプテンは仲が良いのか悪いのか、言い合いながらグラウンド整備に合流している後ろ姿に見守っていたほかのメンバーと笑いがこぼれた。
私もベンチ周りの片付けと掃除をして帰ろうと立ち上がれば、キャプテンが振り返る。
「みょうじ、遅くなったからお前帰って良いぞ。伊佐敷、送って帰ってやれー!」
「は!?」
「大丈夫です!近くですから一人で帰れます!」
避けられてるのにこちらが喜び勇んで送ってくださいなんて言えない。
……喜び勇んでるのか私。
「でも、お前ら会社でも仲良いんだろ?そのぐらいしてやれよ〜」
ニヤニヤとした先輩の顔を見れば誤解を生んでいることはあきらか。
どうしたものか、と一瞬迷っている隙に副キャプテンがキャプテンに背後からチョップを食らわせた。
「バーカ。こいつにはタカヤがいるだろ。あいつ怒らすと面倒くせぇんだから、いらん誤解を生むようなことさせてんじゃねーよ」
その言葉には曖昧に笑った。
この人たちはまだ知らないのか。
「ご心配痛み入りますが、こんな泥まみれの女を襲う変質者もでないでしょうが一応女なので先に帰らせていただいてもよろしいでしょうか?」
皮肉交じりにそう笑えば、キャプテンもしかたねぇなと許してくれた。
この間ずっと動かず眉間に皺を寄せていた純にも視線を向ければ、やっぱり逸らされた。
帰ったら連絡だけ入れてくれ、と言ってくれる副キャプテンに頭を下げて荷物を持ち練習場を後にする。
空はどんよりと曇って星は見えず、立ち並ぶ家やビルの明かりだけが足元を照らしていた。
週末には回復する天気だと言っていたけれど一雨来そうな予感さえさせている。
人だけでなく車通りさえない風景に感じる寂しさ。
静まり返った夜の世界に響く足音は…
「……え」
自分だけのものじゃなくて、少しばかりの恐怖心が後ろを振り返らせた。
「純…」
ポケットに手を突っ込み仏頂面で立つ彼。
でもその顔を見た瞬間に訪れた安心感は計り知れない。
「…近くつっても危ねぇから」
短くそういう彼は私の数歩後ろを歩くらしく、先に行けと顎だけで合図した。
特に何か言うわけでもなく、あの日の私を責めるわけでもなく、彼はただ私の後ろを着いてきてくれている。
そんなことが嬉しいなんて、私どうかしてるね。
気付かれないようにこぼれていく涙。
呼吸を乱さないように、鼻をすすったりなんてしないように気を付けた。
とっくに枯れ果てたと思っていたのに。
「……っ!?」
気付かれないようにしているのに、気付くなんて空気読めないよ純。
掴まれた腕に、足を止めてしまったし振り向きかけた顔を下へ向けた。
「……お前のそういうとこ、ほんと卑怯だろ…なんで泣くんだよ」
拭ってはもらえない涙が一つまた一つと地面へと落ちていった。
言葉にできるのは謝罪にも似た掠れた呼気。
「頼むから…これ以上俺を振り回すなよ。期待、したくねぇんだよ!……期待したくねぇのに、バカみたいにまだお前が好きで、お前の気持ち都合よく解釈しちまうし、自分の感情に制御もできねぇし!」
怒りにも似た悲痛の叫び。
純の言葉が詰まる。
それなのに、それなのに…。
「ちが…ちがうの!純!」
「違わねぇだろ!!高校ん時もそう、俺がお前のことわかってなくて勝手に離れて行ったお前に怒って、離れたくねぇのに引きとめもしなかった!この間だって、お前があのクソ男のとこ戻ろうとしてんのが悔しくて無理矢理抱いて……こんな俺に甘えんなよ!期待さすようなことすんなよ!!」
「純っ…」
どこから話せばいいだろう。
間違えたくなくて、言葉を選ぶのが慎重になる。
慎重になろうとすればするほど上手く言葉が選べなくて、何を言うべきなのかわからなくなった。
核心的な言葉さえ伝えられなくて。
彼の頬にも同じように悲しく輝く透明が零れていた。
「…これ以上お前を傷つけたくねぇのに、どうしていいかわかんねぇんだ…」
悲痛に歪んだ顔で笑う純に伸ばしたい手。
伸ばさないの?
何度彼の背中を見ただろう?
でも、それ以上に何度私は純に背中を向けてきただろう。
向けられた背は遠のくように離れていく。
「純!純!!…っ行かないで!」
何度も見送ったその背中に、ずっと私を引いてくれたあの優しい手に、今度は私が手を伸ばした。
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