月曜日





うっかり引っ掛けたナンパ男から、私を颯爽と助けてくれたのはユーレイでした。なんて、同僚に話したら即座に心療内科に連れていかれそうな話だ。けれど実際に私はコンビニの前でナンパに遭い、そしてこの男性に救われたのである。

(いや、そもそもそこからして夢だったんじゃ……?)

ふと自分の記憶さえ疑ってしまいそうになったが、それなら地面に落として雨に濡れた財布と紙幣の説明がつかない。私は濡れた髪をタオルで拭いながら、部屋のソファに腰掛ける男性をジト目で見下ろした。

好き好んで自分の部屋に連れ帰った訳ではない。けれど彼はどこにも行く当てがないのだと答えた。と言うのも、彼はどうやら自分が何者で、何故ユーレイになってしまったのか覚えていないらしい。心因性か外傷性かは解らないが、短期記憶障害を引き起こしているようだった。端的に言えば、記憶喪失と呼ばれる状態だ。

「あなたさっき、僕は死んでしまった、とか言ってなかったっけ?」
「気が付いたらこの体になっていたんです。死んだ心当たりはありませんが、幽霊になるってことはそういう事なんじゃないんですか?」
「知らないよ、幽霊になる理屈なんて。死んだにしては随分あっさりしてるとは思うけど」
「実感が湧かないんです。死んだことも勿論ですが、死んだあと、幽霊になってまで何かに執着していた自分というものが」

ああ、と私は納得した。夏にやっている心霊番組曰く、ユーレイというものはこの世に強い未練を残して死んだ者の魂であるとか何とか言われている。
ならば、この目の前の男も強い未練があるのだろうか。だから成仏できないと、そういう話がしたいのだろうか。

「それで、名前も自分の身分も覚えていないからって、どうして私の部屋に来たがるの?」

そもそもユーレイなんてものの存在を信じていない私には、まだ彼の存在が何かの悪戯なんじゃないかと疑っていた。あるいは疲れすぎて幻覚を見ているのだろう。
けれど記憶喪失のユーレイは、寂しげに微笑んでこう言った。

「あなただけが、僕に気付いてくれたから」

気が付いたら見知らぬ場所にいた。誰に声を掛けても気付かれることはなく、誰の温もりを感じることも出来ず、まるで自分と言う存在が世界から見捨てられたように感じたのだと彼は言った。

「そんな時に、あなたがあの男に声を掛けられているところに遭遇した。止めようとしたのは、反射のようなものです。でもまさか、あなたに僕の声が届くとは思わなかった」
「…………」
「だから最初は、あなたは僕の縁者なのではないかと期待したんです。まあその期待も、どうやら外れてしまったようですが」

一人ぼっちのユーレイは、そう言って肩を落とした。
そんな風に言われてしまえば、私としても見捨てられるはずがなかった。私の専門は外科であって脳神経外科や神経内科ではないし、ましてや霊能者でもないから成仏のさせ方なんて解らないけれど、苦しんでいる人を助けることが医師の務めである。

「そういう事情なら、仕方ないなあ。あなたの記憶が戻るまで、しばらくここに居る?」
「いいんですか?」
「いいよ、どうせ一人暮らしだし。それにあなたが私の脳が見せている幻覚だって言うんなら、それはそれで悪くないしね」

明日になれば消えているだろう幻覚のことで、うじうじと悩んでいても始まらない。私はそんな軽い気持ちで、ユーレイと同居することを受け入れた。

「ありがとうございます。えっと、何と呼べば……?」
「私の名前は、結城つばさ。28歳だから、あなたよりは年上かな?」
「うーん、自分の年齢も覚えていないので何とも言えないんですが、僕の方が若そうですか?」
「そうだね。見た感じ、20代前半くらいじゃないの?」
「それなら年上の女性に敬意を表して、つばささんと呼ばせてもらいます」

彼はそう言うと、整った顔に苦笑のようなものを浮かべた。作り笑いは得意ではないらしい。

「あなたにも、何か名前を付けた方がいいよね。ポチとか、たまとか」
「僕は動物じゃありませんが」
「冗談だよ、冗談。なら、アレックスとかウィリアムとか?」
「日本名がいいです。僕は日本人なので」
「それじゃあ、ユーレイのレイ君は?」

私がふざけて提案した名前に、ユーレイはぴくりと肩を震わせた。あれ、と私が目を瞬かせると、彼はその名前を自分の口の中で反芻し、やがてこくりと頷いた。

「それでいいです。意外としっくりくる響きだったので」
「ふぅん。ひょっとしたらあなたの本名も、そんな名前だったのかも知れないね」

手掛かりと言うには頼りなさすぎる手掛かりだが、少しでも早く彼が本来の自分というものを取り戻せたらいいと思った。例え彼の存在が、疲れた自分の脳が見せる幻覚だったとしても、だ。

「それじゃ私、お風呂に入ってくるから。寝室以外はどこに居てもらっても構わないよ」
「すみません。それじゃあ、しばらくこの部屋に居させてもらいます」
「あ、テレビでも見る?点けておこうか」
「……、お願いします」

一瞬の躊躇いは恐らく、それくらい自分で出来ると言おうとしたのだろう。けれど今の彼はリモコンに触ることが出来ない。それを思い出して、彼は手元を強く握りしめた。

「そんな顔しないでよ。記憶なんて、ゆっくり取り戻していけばいいんだからさ」
「……そう、ですね」
「不安になるのも解るけど、まずはリラックスすることが大事だよ。大丈夫、私があなたの主治医になってあげるから」
「主治医?」

怪訝そうな顔を見せるレイ君に、私はバスタオルを出しながら答えた。

「これでも私、米花薬師野病院の勤務医なんだ。ま、記憶障害は私の専門じゃないけどね」

だから大船に乗ったつもりでいてよ、と微笑むと、彼は漸く肩の力を抜いてくれた。

「ありがとう。それなら、心強いですね」
「ん。じゃあ、適当にドラマでも見ててね。それともニュースの方がいい?」
「そうですね。もしかしたら、僕がこんな体になった原因が解るかも知れませんし」
「了解、番組変わっても電源はそのままでいいから」

私はリモコンを操作すると、バスタオルと着替えを手に風呂場へと向かった。熱いお湯に肩まで浸かって、ほうっと短く息を吐く。
当直明けだからと言って、明日が休みになる訳ではない。むしろ明日も今日に負けず劣らず忙しいのだろうな、と私は手の甲で額を覆った。

今日の夕方に起こった大規模な爆発事故の直後、私の勤める米花薬師野病院には大勢の救急患者がなだれ込んだ。ER(救急外来)の職員だけでは受け入れ対応ができなくて、第一外科や第二外科、私達ICU(集中治療室)の医師も総出で施術に回ったのである。

10床しかないICUのベッドはすぐに埋まった。身元が解る人間も何人か居て、そうした中には警視庁に勤める人もいたから、すぐに警察病院に移送する手配をした。けれど身元が解らないくらいに損傷が激しい患者や、身寄りとなる人間が居なさそうな患者はそのまま私の担当患者としてICUに残っている。

いずれにせよ、単なる事故などではないのだろうと思っていた。

(美和子にでも、何があったか訊いてみようかな)

警視庁刑事部の捜査一課に勤務している佐藤美和子とは、とある事件を通して知り合った。米花サンプラザホテルにて開かれたパーティーで、美和子は銃撃を受けて重傷を負った。その時の銃弾の摘出手術を執刀したうちの1人が、何を隠そう私である。それ以来、彼女とはまるで職場の同僚か、学生時代の同期のように親しくしている。

もしも彼女が言えない内容だとしたら、それだけ大きな事件が影で動いていたということだ。だが患者を受け入れた時点で、私も既に部外者ではない。

隣町の杯戸中央病院では、厄介な受け入れ患者を巡って爆弾魔が忍び込んだこともあるという。似たような事態に陥りませんように、と祈りつつ、私は湯船の淵に頭を預けた。


[ 2/11 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]