ソロモン・グランディ





私が彼と出会ったのは、本当に単なる偶然だった。

その日の私は酷く不機嫌だった。当直明けでただでさえ疲れている上に、考えられないような規模の爆発事故が近隣の建物で起こったため、受け入れ態勢を整えるのにドタバタしたのだ。退勤時間を大幅にオーバーした夜の9時、漸く帰路についた私は、帰宅途中で振り出した雨に濡れながらコンビニに立ち寄って、晩御飯のお弁当と栄養ドリンクを買った。

そこまでは良かった。そこまではいつもより少し忙しくて少し不運な程度の、日常の一幕と呼んで差し支えなかったのだ。

それが一瞬にして非日常の風景に様変わりしてしまうなんて、一体誰が予想できただろう。

「すみません、ちょっと道に迷っちゃって」

見知らぬ男にそう声を掛けられたのは、コンビニから出て数歩歩いた所だった。それこそまだ駐車場の中にいた段階である。疲れから危機管理能力が低下していたせいなのか、私は馬鹿正直に男の声に反応してしまった。

「はあ……」
「米花町に行きたいんですけど、何に乗って行ったらいいですかね?」
「米花町なら、あっちにまっすぐ行った駅から東都線に乗って2駅ですよ」
「そうなんですか、ありがとうございます。ところで僕、友達に約束ドタキャンされてこの後暇なんですよね」

その言葉を聴いて、私は男が声を掛けてきた理由を悟った。
ああそうですか、私はまったく暇じゃありませんけどね。というかこの時間から約束するようなお友達なんて碌なもんじゃないですね、どうせ架空のお友達でしょうけど。
そんな悪態を心の中で吐き捨てて、私は最大限相手に興味がないということを示すために素っ気なく頷いた。ただでさえ疲れていて、雨に濡れたせいで不愉快な気分なのだ。これ以上頭痛の種を増やしたくはなかった。

「そうですか。では私はこれで」
「あの、それでよかったらその辺で一杯奢らせてもらえませんか?」
「いえ結構です。迷わずに米花町に辿り着けるといいですね」

疲れている時にナンパの相手をしてやるほど、私の心は広くない。私が早々に男に背を向けて立ち去ろうとすると、男は私の手首を掴んで引き留めた。
ぞわ、と怖気が走った。

「そんな冷たくすることないじゃん。こんな時間にコンビニ弁当買うってことは、独り身なんでしょ?だったら俺が慰めてやろうって思っただけなのに」

何でこう、ナチュラルに上から目線な発言ができるのだろうか。私の苛立ちは頂点に達したものの、生憎腕っぷしには自信がない。精一杯目に力を籠めて睨み付けてやっても、私の童顔では大して迫力も出せなかった。

いい加減にして、と声を荒げそうになったとき、背後から第三者の声が割って入った。

「そこまでにしませんか。女性を怖がらせるのはよくないですよ」

高くもなく低くもない、特徴的なその声に、私は男の存在を一瞬忘れて背後を振り返った。
そこに立っていたのは、声と同じく特徴的な見た目の若い男だった。

褐色の肌に明るい金の髪、そして瞳は印象的な蒼。一体どこの国籍なのか、まだ20代前半のように見える男は、私の掴まれた手首を見て不愉快そうに眉を顰めていた。彼も傘を忘れたのだろうか、その両手は手ぶらだった。だというのに、彼の肩は濡れた痕跡がなかった。

いつからそこに居たのだろう。こんなに目立つ風貌だというのに、全く気配に気付かなかった。

私の視線を追ったナンパ男は、訳が解らないと言いたげに首を傾げた。

「お姉さん、どうしたの?」
「は?」
「さっきから、誰もいないとこばっか見つめちゃって」
「誰も居ない?」

何を言っているのだろう。確かに私の視線の先には、芸能人かと疑いたくなるような風貌の男が立っているのに。

「え?だって、あそこに……」

煮え切らない私の態度に苛立ったのか、ナンパ男は私の手首を乱暴に引っ張った。

「このアマ、ふざけてんのか?」
「っ、いった……!」
「優しくしてやったら付け上がりやがって!」

いきなりブチ切れられた。自律神経のコントロールが上手くいっていないタイプの、いわゆる情緒不安定な輩だったらしい。優しくされた記憶など1ミクロンもないのだが、男の中ではそう都合良く記憶が改竄されているようだった。振り上げられた掌に、さすがに身を竦めたところで、何かが風を切る音が聞こえた。

次の瞬間、地面に背中を打ちつけていたのは、私ではなくてナンパ男の方だった。

「嫌がる女性に無理矢理触れるだけではなく、暴力に訴えるとはね。あなたのような輩は男の風上にも置けませんね」

ひらひら、と手を振るのは、先程こちらに声を掛けてきた金髪の男だった。彼は私を庇うように前に立ち、男を威嚇する。
その横顔に、私は不覚にも一瞬見惚れてしまった。整った造形は勿論のこと、その精悍な眼差しに目を奪われてしまったのだ。

殴られたナンパ男はと言えば、

「な、なんだ……?」

ぽかんと殴られた左頬を押さえ、私の方を恐怖の入り混じった目で見たかと思うと、

「こ、この女やべーって!やべー奴だって!」

そんな暴言を喚き散らしながら、こちらに背を向けて走り去った。
ぽかんとしたいのはこちらである。いきなりブチ切れたかと思えば人をやべー奴呼ばわりしながら逃げていくなんて、変わり身の早さに呆気に取られるほかない。

ともあれ、突然現れた男性に助けられたのは事実である。私は掴まれて痛む手首を擦りながら、金髪の男性に向き直った。ああいけない、驚いた拍子に財布を落としてしまった。

「すみません。助けていただいて、ありがとうございました」
「どういたしまして。怪我はありませんか?」
「ええ、平気です」

私がそう答えると、男性は私が落としてしまった財布を拾おうと屈みこんだ。慌てて自分で拾おうと腰を落として、そこで私は目を瞠った。

あるべきはずのものが、人体の部位で言えば足と呼ばれるものが、彼の足元にはなかった。

更に言えば、財布を拾おうとした時に私の手と彼の手は、目で見る限り確かに重なった。であれば当然、そこに何らかの温もりだとかごつごつした感触だとかいうものを感じ取るはずなのに、私の手は彼の手をスルーした。
比喩表現ではなく、物理的にスルーしたのだ。

「へ、……?」

戸惑いの色を含んだ私の視線を受けて、彼は自分の手をじっくりと見つめた。そして頷く。

「ああ……。やっぱり、そうか」
「や、やっぱりって……?」

心臓が嫌な音を立てる。漫画やドラマではこんな展開、見たことがあるような気もするけれど、でもまさか。
こんな非現実的なことが、この私の身に降りかかるなんて。

驚愕に彩られた私の顔を見返して、彼は自分の掌を握りしめた。

「やはり僕は、死んでしまったんだな」

金髪の男は、足首から先が透けて見えない、物理的な質感を持たない男は、そう言って力なく微笑んだ。

その言葉を耳が受容し、脳が理解した瞬間から、いつもより少し忙しいだけの私の日常は非日常へと変わってしまった。

このお話は、ごくごく一般的な勤務医の私こと結城つばさと、体を失ったユーレイ君との、1週間にわたる同居生活の記録である。



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