火曜日





朝、目が覚めてリビングの扉を開けると、幻覚だと思っていたユーレイのレイ君が、ソファの上でお行儀よく座っていた。

「あ、おはようございます、つばささん」
「…………、おはよう。よく眠れた?」
「この体だと、どうやら眠れないらしいんですよね。というか、睡眠を必要としていないようです」
「ああそう……」

どうやら今日も、この幻覚と向き合わなければならないらしい。1週間続いたら一度心療内科に出向こう、と私は一人ごちながら、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。レイ君はいつの間にか私の背後に立ち、中身が殆ど入っていない冷蔵庫を覗き込んで眉根を寄せる。

「つばささん、ちゃんと食事摂ってますか?」
「朝食はシリアルで済ませることが多いかな。お昼は病院の食堂で、きちんと摂ってるよ」
「休日の食事は?」
「……コンビニ弁当で済ませてるけど」

どうやらレイ君は、この短時間で私の生活力の無さを見抜いてしまったらしい。冷蔵庫の中には飲み物以外殆ど何も入っていないし、昨日の晩御飯もコンビニ弁当で済ませていたのだから、気付かれるのも時間の問題だっただろう。

「次のお休みはいつですか?」
「一応、明日。患者さんの容態によっては職場に行くけど」
「でしたら明日、食料品の買い出しに行きましょう。食事は生活の基本ですよ」
「解った解った、でも今朝はこれしかないから」

何やら健康維持に関しては一家言あるらしいレイ君を軽くいなし、私はシリアルを入れたお皿に牛乳を注いだ。サラダもフルーツもない食卓に、レイ君は大げさに頭を抱える。

「僕に体があったら、もっとちゃんとした朝食を準備するのに……」
「なあに、あなた生前はシェフか何かをしていたの?」
「そうではない……と思うのですが、料理をするのは苦ではなかったと思いますよ。体が覚えてますから」
「じゃあ明日のメニューは、レイ君にお任せしようかな。調理は私がするから、後ろで指示を出してくれる?」

朝の忙しい時にあれこれと口を出される煩わしさから、私は取り敢えず折衷案を出した。それに本音を言えば、私も久しぶりに料理をする機会が出来て少しばかり浮かれていた。自炊をするのは嫌いではない。ただ時間がないだけだ。
私の提案に、レイ君は嬉しそうな顔で頷いた。

「ええ、任せてください。完璧な栄養と味のコースを準備してみせますよ」

その得意げな様子に、私は彼のどこか子供っぽいプライドを見てとって、くすりと笑みを零した。こうして見ると可愛いものだ。

「それじゃ、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」

レイ君に見送られて玄関を出た私は、幾分弾む足取りで最寄駅までの道のりを歩いた。
誰かに見送られて出勤するなんて、本当に久しぶりのことだった。



病院に着くと、私は白衣を翻してICUの中に入った。物々しいチューブに繋がれた患者さんや、全身をミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされた患者さんが私の担当する相手である。

「結城先生、おはよう」
「おはようございます。当直お疲れ様です」
「先生が帰ってから、3番ベッドの男性のSpO2下がったから、2リットルから5リットルに変更してるよ。朝の3時には98パーセントに回復したけどね」
「ありがとうございます。確認します」

申し送りを伝えると、当直の先生はシャワーを浴びてくると言ってICUを出て行った。
昨日搬送されてきたうちの1人で、身元が解らないままの男性の枕元に私は近寄った。頭部と腹部の損傷が酷く、顔は半分ほどが包帯に覆われてしまっている。健康的な浅黒い肌と筋肉質な体に、彼が何がしかのスポーツをやっていたのか、もしくは体が資本の職業に就いていたということが伺えた。

彼の執刀は大変だった。爆発に巻き込まれた際に瓦礫の下敷きになった内臓が潰れ、胸腔には大量の血液が溜まっていた。あと少しドレナージを開始するのが遅ければ、彼は自分の血液で溺れてしまう所だったのだ。頭部外傷も見られたために脳神経外科のドクターにも来てもらい、開頭手術も行った。その為、彼の頭部は現在髪の毛が綺麗に剃られている。元々の髪色が何色だったのかは、血液と砂埃で汚れていたため確認できていない。

爆発現場にはいくつか壊れたスマホや端末の類があり、また火器の類も見つかったらしい。だが、あの凄惨な現場でどれがこの男性の持ち物であるかなんて判別が付くはずもなく、私達は彼の着ている物からその身分を推測することしか出来なかった。
彼が身に着けていたのは、恐らく灰色だったのであろうスーツと白いシャツ、ストライプ柄のネクタイ、そして拳銃を入れるためのホルスターだった。警察病院に搬送された警視庁の方々も同じような格好をしていたため、男性の身元を知っている人間がいないか警視庁に確認したものの、誰一人として彼の顔を知っている人間は居なかったのである。

規則的に心音を刻む心電図を見やり、挿管された口元を見やる。唇が荒れかけている。後でジェルを買って来ようと決めて、私は男性の手首を持ち上げた。力の入らない指に自分の指を添えて、ゆっくりと手の甲側に倒す。今度は反対側にじわじわと手首を倒していく。
続いて私は男性の足元に回り、そっと足首に触れた。足の裏に指を滑らせ、ツボを刺激する。そうして自分の手で触れて、私は目の前で眠る男性に確かに足があることを確かめたかった。

(当たり前だ。だってこの患者さんは、あのユーレイと違って生きているんだから)

一時期かなり危なかったものの、持ち前の生命力のお蔭か今は容態も安定してきた。微弱ではあるものの自発呼吸も出来ているし、感染症を起こさなければ体の方はある程度回復するだろう。
ただし、頭部外傷があったことからも解るように、彼は頭を強く打っているようだった。だから体が回復しても脳が無事である保証はどこにもないし、最悪このまま二度と目覚めない可能性だってある。

(……やめよう。最悪の事態を先走って考えるのは、悪い癖だ)

マイナスに考えがちな思考を止めて、私は看護師に点滴の落とす速度を調節するよう指示を出した。昨日の今日で、この患者さんの容態がどう転ぶかなんて誰にも予測できない。



この日は特に大きな変化も無く、私は昨日と同じコンビニでお弁当を購入して帰宅した。玄関のドアを開け、照明を点けて目を剥いた。誰もいないと思っていたキッチンにはぼんやりとした人影があり、その周りをふよふよと食器が漂っていたのである。

それはどこからどう見ても、ポルターガイストと呼ばれる現象だった。

「ぎゃああああっ!」
「あ、お帰りなさいつばささん」
「なっ、何やって……!」

ポルターガイストを引き起こしていたのは、勿論レイ君だった。家に帰ったらマグカップやフォークが宙に浮いている光景が広がっているなんて、とてつもなく心臓に悪い。こんな手荒な出迎えを受けたのは人生で初めてである。

「いえ、昨日リモコンには触れなかったのに、あのナンパ男を殴ることはできたでしょう。その理屈を考えていたんです」
「……ほほー。それで、納得のいく答えは見つかったの?」
「はい。色々と試してみて解りましたが、自分の中で“こうしよう”と強く意識することで、物体に触ることが出来るようなんです」
「と言うと?」
「リモコンを触るのも、あなたの財布を拾おうとしたのも、無意識での行動でしょう。ですが、あの男を“殴ろう”、またはこのマグカップを“浮かせよう”と強く意識することで、物体にも影響を及ぼすことができたんじゃないかと思います」

霊体は思念体とも言いますからね、と言いつつ彼はひゅっと音を立てながら拳を突き出した。その無駄のない洗練された動きに、私はふとある疑問が浮かんだ。

ひょっとしたら彼は、ボクシングのような格闘技を日常的にやっていたのだろうか。彼は今ユーレイだから服を剥いて確認することはしないが、ちらりと見えた筋肉はかなり鍛えられたものだということが解った。
けれど私がその疑問を口にする前に、彼は浮いていた食器類を棚に直してこちらを振り向いた。

「ところでつばささん、また今晩もコンビニ弁当ですか」
「あ。しまった」
「しまった、じゃありませんよ。医者の不養生という言葉をご存知ですか?」
「まあまあ。今日不養生した分は、明日きちんと栄養摂るからさ。レイ君監修のメニュー、期待してるよ」
「はあ……。いいでしょう、明日はきっちり野菜も果物も食べてもらいますよ」

なんだか同居人というよりは、心配性な母親のように思えてきた。これ以上お小言を食らう前に、と私は急いでコンビニ弁当を口に運ぶ。

けれど家を出るときは行ってらっしゃいと言ってもらえて、帰宅すればお帰りと言ってもらえる生活は久しぶりだ。ユーレイと同居するのも悪いことばかりじゃないな、と私はテレビを見つめるレイ君の横顔を見ながら、密かに口端を引き上げた。


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