家庭科





「みずほ、遅いやん!急いで家庭科室行かな、遅刻すんで!」
「ごめん!ちょっと想定外の事態が起きちゃって」
「何やの、想定外の事態って。何か事件でも起きたん?」
「違うよ、事件じゃないけど。落し物を預かっちゃったの」

事件と聴いたら服部君がハッスルするんだろうな。あ、何かくだらないダジャレみたいなこと言ってしまった、げふんげふん。
服部君は大阪府警察本部長のお父さんを持つ。だからなのか、推理小説やドラマが大好きで、本人の推理力もとても高い。リアル脱出ゲームではいつも頼りになる存在だ。推理に熱中しだすと周りが見えなくなるのはご愛敬である。

私は和葉に急かされながら、エプロンと三角巾を引っ掴んで教室を後にした。日直なので教室の鍵を掛けるのも忘れずに。

今日の家庭科は、先週凍らせておいたアイスボックスのクッキーを輪切りにして、オーブンで焼くだけである。だけ、と言いつつ先週の実習で張り切って3本ほど生地を凍らせてしまったので、班の全員の分と合わせたら焼きあがるのにそこそこ時間がかかりそうだった。

「焼きあがったら、この袋に詰め込んでいってね。1人2袋までよー」

家庭科の上原由衣先生は、そう言って手に持った透明なビニール袋をひらひらと振った。綺麗な黒髪を額の真ん中で分けた美人さんで、気さくな性格もあって私は由衣ちゃん先生と呼んで慕っている。元々は虎田先生と名乗っていたけど、旦那さんが亡くなって苗字が変わり、上原先生になったのだ。でも面倒くさいから由衣ちゃん先生と呼んでいる。ちなみにコーヒーを淹れるのは苦手らしい。

「由衣ちゃん先生は、一つ大和先生にあげるんですか?」
「え?うーん、そうねぇ。でも敢ちゃん、ぼた餅以外の甘いもの食べてくれるか解らないのよね」
「ああー、何でしたっけ、なんか物騒な名前のヤツ」
「半殺しと皆殺し、ね。こればっかりは、敢ちゃんより上手に作れたことがないのよね」

敢ちゃん、というのは日本史を担当している大和敢助先生のことだ。由衣ちゃん先生の幼馴染で、はっきり明言されたことはないけど恋人のような関係らしい。ついでに世界史の諸伏高明先生も2人の幼馴染で、大和先生とは小学校時代からのよきライバルなのだそうだ。

「幼馴染同士のカップルってええなあ」
「あははー、そだねー」
「何やの、そのテキトーな相槌は。由衣先生、大和先生との仲が進展したら教えてくれるって言うてはったのにまだ何も報告きてへんねん!」

私の相槌がテキトーな理由は、多分和葉(と紅葉ちゃん)以外は誰でも解っている。和葉は由衣ちゃん先生たちの仲が思ったように進展せんでじれったいねん、とぼやいているが、私からしてみればアンタらも大概じれったいねん、と突っ込んでやりたかった。工藤君は蘭に告白したというのに、こちらの2人はまだこのもだもだした関係を続けていくつもりのようだ。

「みずほはこのクッキーどないするん?安室先生にあげるん?」
「へ!?いやいやいやいや、そんな命知らずなことはさすがに出来ないよ!」
「命知らずて、大袈裟ちゃう?」
「だって、安室先生ってお菓子作るのもプロ級なんだって。前に景光先生が言ってたもん」
「アンタ何気に景光先生と仲ええよな」
「まあね。音楽は得意だし」

こう見えてもピアノ一筋13年という経歴を持つ私は、芸術科目の選択で迷うことなく音楽を選んだ。去年は蘭や工藤君が一緒だったけど、今思い出しても工藤君の音痴っぷりはおかしかった。一周回って芸術点が高いとさえ言える。

それはともかく、そんな腕前の人に調理実習で作っただけのクッキーを渡すなんて、恐れ多すぎて出来ないわけです。私がそう説明すると、背後からくすくすと笑う声が聞こえた。

「藤原さん、可愛い悩みを抱えてるのね」
「由衣ちゃん先生!」
「いいじゃない、好きな人にそのクッキーあげちゃえば。お菓子作りが得意な人に食べてもらえば、いいアドバイスがもらえるかも知れないわよ?」
「でも、そうホイホイと渡すのも気が引ける相手というか……」
「そう?安室先生、割と素直に生徒からのプレゼント受け取ってそうなイメージだけど」
「ところがどっこい、意外とそうでもないんですよねー。こないだ3年の先輩がプレゼント渡そうとしてたんですけど、困った顔してきっぱりと断ってましたよ」

私がそのシーンを目撃したのはたまたまだったけど、先生がどんな顔をしていたのかは今でもはっきりと思い出せる。いつも穏やかな微笑みを絶やさない先生が、あの時はほんの一瞬だけ、本気で困った顔をしていた。
あんな顔をさせてしまうくらいなら、このクッキーは2袋とも自分で食べた方がマシだ。カロリーが気になる所だけど、その分運動すれば問題ない。

「ふーん……。ちょっと意外だったわ。もっとチャラついた先生なのかと思ってた」
「安室先生はチャラくなんかないですよ!あの金髪は地毛だって景光先生が言ってました」
「だから何でアンタの情報源は全部景光先生やねん」
「将を射んとする者はまず馬を射よ、って言うしね」
「景光先生は馬扱いなんや」
「あはは、藤原さん面白い子ね。今度景光先生に伝えておくわ、あなた生徒に馬呼ばわりされてたわよって」
「えっ、それは勘弁してください」

安室先生の一番の仲良しさんである景光先生に嫌われたら、安室先生の情報源がどうとかいう以前に普通に哀しい。けれど私の不安を由衣ちゃん先生は一蹴した。

「そんなことであなたを嫌いになったりするような人じゃないわよ。まあでも、そういうなら次から例えるなら飛車角とか、右腕とかにしてあげたら?」
「はーい……」

由衣ちゃん先生は大いに笑って、隣の班の様子を見に行った。

安室先生へのプレゼントかあ、と内心で一人ごちながら、私はさっき受け取ったばかりの安室先生のカフスボタンをそっと取り出した。
グレーのスーツをびしっと着こなす安室先生らしい、お洒落なスクエアカットのカフスボタンだった。私みたいな高校生でも知っている、有名なブランド品である。

(さっきは、授業以外でも会う口実ができた!って浮かれちゃったけど。考えてみればこんなの、相当なお洒落さんじゃない限り男の人が自分で買う訳ないよね……)

彼女からのプレゼントなんじゃないか、という最悪の想像が、胸に重くのしかかった。先生の瞳の色みたいに透き通ったブルーが、照明を弾いて眩しく光る。

片想いとはこんなにままならないものか。今なら小野小町にも負けない歌が詠めるかもしれない、と私は平安貴族のような物思いに耽りながら、クッキーが焼きあがるのを待った。


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