古文





私は自分の席でノートを取りながら、時折ちらちらと黒板に板書をしている安室先生の背中を見上げていた。

景光先生と話をして、ぼんやりと自分の心が解った気がする。

―――藤原は、ゼロの本当の顔は嫌いか?

(嫌いなんかじゃ、ない……)

むしろ逆だ。私は先生の後頭部を見つめながら唇を噛んだ。
嫌いどころか、むしろどストライクに好きだった。これまでは“憧れ”という言葉で煙に巻いて、どこか遠巻きに眺めているだけだった安室先生を、急に生身の男の人として意識してしまったのだ。
その相手に耳元であんなことを囁かれて、キャパシティが限界を迎えてしまった。だから逃げた。逃げて、きちんと受け止めるだけの時間を稼ぎたかった。

シャーペンの動きがぴたりと止まったままの私を、背後から和葉がつついてきた。

「どないしたん?みずほ。アンタが古文の授業中にぼーっとしてんの珍しない?」
「うんちょっとね、フェルマーの最終定理について考えてた」
「へーそうなん」
「その関西特有の適当な相槌、地味に傷付くからやめようね」
「冗談言える元気あるんやったらええわ、と思て。ほんで、ホンマは何に悩んでんの?」

さすがは親友、私が珍しく古文の授業中だと言うのに集中できない様子をすぐに見抜き、こうして声を掛けてきてくれた。けれどまさか、悩みの種となっている当の本人が同じ教室に居るこの状況で、素直に悩みを打ち明けることは出来ない。

私がまたあとで話すね、と答えようとしたその時、安室先生の厳しい叱責が飛んできた。

「藤原さん、遠山さん、私語は厳禁ですよ。今は授業中ですからね」
「は、はい!ごめんなさい」
「すみません、安室先生」

素直に謝る私達に、服部君と沖田君は遠慮のない爆笑をくださった。紅葉ちゃんも口元を押えて笑っている。紅葉ちゃんはいいとして、男子2人はあとでしばく。
安室先生はそこでふと表情を緩め、和葉を名指しして質問した。

「それでは過去の助動詞の活用を、遠山さん」
「へっ、あ、アタシ!?えっと、せ、まる、き、し、しか、まる、から、かり、まる、かる、まる、かれ、です」
「それではこの活用は何形ですか?」
「えーっと、惜しから……ってことは未然形?やんな?みずほ」
「え、そこで私に訊いちゃう?そうそう、未然形」
「よかった!ほな安室先生、未然形です!」
「正解です。ではこの助動詞の意味は……」

最後ににっこりと笑って解説を始めた安室先生に、私はほっと息を吐いた。和葉を指名しているはずなのに、その強い眼差しが私に向けられていたかのように感じたのだ。

(いや、自惚れかも知れないけどね。でもやっぱり、昨日までの先生とどこかが違う)

クラスメイトの誰も気付いていないだろう変化に、私はぎゅうと胸元のシャツを握りしめた。
皆が気付いていないというよりも、先生が気付かせていないのだ。好青年のような仮面を上手に被り続けて、誰にもその本性を覗かせないようにしている。それなのに、私にだけ本当の顔を見せてくれたという事実に、酷く気分が高揚した。

どうして先生が本名を偽っているのか、どうして私だけに素顔を見せてくれる気になったのかは解らないけれど、私はもっと本当の安室先生を知りたいと思った。それはこれまでの恋に恋するような気持ちではなくて、もっと強い渇望だった。

(あむろせんせいのことが、すき……)

噛み締めるように心の中で呟くと、私は教科書で熱を持った頬を隠した。その呟きが聞こえていたかのようなタイミングで、安室先生はこちらを振り返った。蒼い瞳が私を捉え、僅かに剣呑な色を帯びる。けれど、その後はまるで興味を失ったかのような素っ気なさで、先生はこちらに背を向けた。

それがまるで挑発のように見えて、私は授業が終わるまでの間中、歯噛みしながら先生の後頭部を見つめ続けた。こちらばかりいいように振り回されてたまるか、と反抗心のようなものが沸き起こっていた。



朝講習が終わり、教室を出て行こうとした先生を私は追いかけた。

「あ、あむろせんせい」
「ん?どうかしましたか、藤原さん」

白々しく「ん?」なんて言ってるけど、本当は私が追って来ていることなどとっくに気付いていたのだろう。その証拠に、階段の踊り場で振り返った先生は満面の笑みを浮かべていた。
私はぐっと掌を握りこんだ。背筋を伸ばし、まっすぐに先生の瞳を見上げる。

そして言った。私からの精一杯の宣戦布告を。

「次の実力テスト、古文で学年1位取れたら、ご褒美ください!」
「……ご褒美?」
「はい。私、もっと先生のことを知りたいです」

私の言葉がよっぽど意外だったのか、先生は何度も目を瞬かせた。

「だから今度の実力テストで1位を取れたら、ご褒美に先生の本当の名前を教えてください」

名前を知って、名前を偽っている理由を知って、本当はどんな性格をしているのかを知りたい。そうして徐々に先生の素顔を暴いていって、その時初めてこの気持ちを伝えようと思った。今このタイミングで告白するなんて勇気はないから、例え少し遠回りをしてでも、自分の逃げ道を塞ごうと考えたのだ。

私のそんな決心を、先生はきっちりと受け止めてくれた。驚きに見開かれていた目が、苦笑と共に細められる。

「……ええ。その挑戦、受けて立ちますよ、藤原さん」
「あ!だからって、鬼のような難易度にはしないでくださいね!」
「それは約束しかねますね。でもきっと、あなたなら大丈夫ですよ」

そこで先生は私の頭に手を伸ばした。他の先生のように撫でられるのかと思いきや、その手は私の後頭部にまで回り、強い力で引き寄せられる。

「お前が俺のために努力してくれるなんて、教師冥利に尽きるよ。次のテストも期待している」

「…………っ」

低い声音でそう囁いて、先生はぱっと体を離した。咄嗟に言葉が出てこない私を置いて、先生は上機嫌で職員室へ戻っていく。
その足音を聴きながら、私は胸を抑えて蹲った。あの顔で、あの甘い声でこのギャップである。これで簡単に落とされてしまうのだから、我ながらなんて単純な女だろうと思うけれど。
私だっていつかはきっと、先生を翻弄できるようになってみせる。そう決意を新たにして、私はすっくと立ち上がった。

私と先生の恋の駆け引きは、まだまだ始まったばかり。いつか必ず素顔の先生を翻弄できるくらいの大人になってみせようと、私は拳を握りしめた。

文系特進クラスの安室先生と私の、何の変哲もなかったはずの日常を綴ったお話は、これにて一旦閉幕である。

Fin.


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