授業前





(……結局、昨日のあれは何だったんだろう)

昨日の放課後、逃げるように職員室を後にした時のこと。高校の真ん前のバス停からタイミングよくやってきたバスに飛び乗って、私はようやくまともに思考を働かせることができた。けれどいくら冷静になろうとしても、去り際に見た先生の顔を思い出すだけで、体温がぶわりと上がるのが解った。

あのひとは、あむろせんせいじゃなかった。
私のよく知る、穏やかで誰にでも分け隔てなく接する安室先生じゃなかった。

そこで私は、萩原先生や景光先生の謎の態度を思い出した。
“あむろせんせい”という呼称に吹き出した萩原先生。
脈絡もなく安室先生のことを“ゼロ”と呼ぶ景光先生。
2人は安室先生の同期で、大学時代からお互いの事を知っている。だとすれば、あの2人は “あむろせんせい”ではないあの男の人のことを知っているのかもしれない。松田先生や伊達先生も、あの2人と同じように表向きではない安室先生の一面を知っているのかもしれない。

そんなことを一晩中考えながら寝ていたせいか、私はこの日5時間しか睡眠時間が取れなかった。充分じゃないかって?ノンノン、育ち盛りにはいくら睡眠時間があっても足りないのです。
(当社比で)睡眠不足にうなされながら、私はとぼとぼと教室に向かった。今日の朝講習は、何の因果か古文である。普段なら朝イチで安室先生に会える!と浮かれる所なんだけど、昨日の今日で顔を合わせ辛いことこの上ない。

ちょうど私が教室の入り口までやって来た時だった。人気のない朝の廊下の向こうに、見慣れた黒髪の男性のシルエットが見えたのは。一瞬身構えてしまったのは、その人影が目立つ金髪を持つあの人といつも一緒にいる人物だったからである。

けれど、今日はその隣に安室先生の姿は見えなかった。それにほっと息を吐いて、私は目標に向かって一直線に突進した。

「景光先生!!!」
「ああ、藤原。おはよう」
「すみません今ちょっとお話してもいいですか!?」
「うん?どうした?解ったからそんなに引っ張るなって」

私の形相があまりにも必死だったからか、景光先生はすぐに私の要望を聞き入れてくれた。兎に角昨日あったことを誰かに相談したくて堪らなかったのだ。その点、景光先生はうってつけの人材である。

景光先生と並んで誰もいない空き教室へ行くと、先生は私に座るよう促した。大人しく従って腰を下ろすと、向かいの席に先生も腰掛ける。

「それで、どうした?お前がそんな顔してるってことは、昨日何かあったんだろ?」
「実は、かくかくしかじかで」
「うん、さっぱり解らない」
「じゃあ、これこれうまうまで?」
「伝える気あるのか?お前」
「すみません、なんか気を抜いた会話が出来るのが嬉しくて」

私が不細工な作り笑いを浮かべると、景光先生は僅かに目を瞠った。

「……よっぽど変なことでもされたのか?」
「そんなことはないです。ただ、何か現実味がなくて」

むしろ昨日見たことが夢だったのではないだろうかと、今更になって私は自分の記憶を疑い始めた。いっそ夢であればいい、とすら思った。だってあんな顔した安室先生、心臓に悪すぎる。

けれど今、向かいに座っている景光先生こそが、昨日の会話が夢ではなかったのだという証明だった。私は腹を括って、先生の猫のような目をまっすぐに見上げる。

「あ、安室先生は―――」
「うん」
「本当は、安室透っていうんじゃないんですか?」

嫌な音を立てる心臓を押さえつけながら、私は訊いた。先生は思ってもみなかった質問がきた、と言いたげに、何度も目を瞬かせた。

「それ、あいつから聴いたのか?」
「いいえ、安室先生は何も。ただ、昨日誰にも聞こえないように耳打ちされた時の態度が、いつもの安室先生と違ってて」

うーん、と言って景光先生は頭を掻いた。どうやら誤魔化すつもりはないらしい。私はここぞとばかりに畳みかけた。

「景光先生が安室先生のことをゼロって呼ぶのも、萩原先生が“あむろせんせい”って言葉に爆笑するのも、安室先生の本名が“安室透”じゃないからじゃないんですか?」
「萩原、そんなことしてたのか。今度会ったらしばいとこう」
「萩原先生の扱い雑すぎません?」
「お前が言うな。……まあ、お前の推測通りだよ。ゼロの本名は、安室透じゃない」

驚きよりも、やっぱり、といった気持ちの方が強かった。普段私達に見せている顔は、先生の本性ではないのだろう。

「……どうして、偽名を使ってるんですか?」
「実はあいつ、とある機関のスパイをしててさ。潜入のために身分を偽ってるんだ」
「ええっ!?」
「なんて、冗談だよ。そんな、どこぞの推理漫画じゃあるまいし」
「だからメタ発言はやめましょうね!!」

無駄に変な汗をかいた。一瞬本気で信じ込みそうになったのだから、景光先生の話術は侮れない。
先生はそれ以上安室先生が偽名を使う理由については触れずに、困ったように眉を下げた。

「藤原は、ゼロの本当の顔は嫌いか?」

その聴き方は狡いと思った。景光先生は、私がどれだけ安室先生を好きかということを知っている。嫌いだなんて、今更思うはずがないじゃないか。

「嫌いじゃありません。でも、自分でもよく解らないんです」
「解らないって、ゼロに対する気持ちがか?」
「はい。ぞんざいな口調がカッコいいというか、色気が駄々漏れで心臓止まりそうだったとか、……上手く言えないんですけど」

概ね好意的に受け止めているのは解るが、これが何と言う感情なのか解らなかった。
だって、こんなに心臓を鷲掴みにされるような感情、今まで味わったことがない。
私が頭を抱えて唸ると、景光先生は呆れたように溜息を吐いた。

「お前それ、……まあいいか。それで頭が混乱したから、誰かに相談したかったってことか」
「はい。でも会えたのが景光先生でよかったです。うっかり和葉に話してたら、安室先生の個人情報が駄々洩れになるところでした」
「お前がそういう所に気が付く奴でよかったよ。うーん、そうだな……」

俺が言えることは多くはないけど、と言って景光先生は立ち上がった。時計を見れば、朝講習が始まる10分前だ。そろそろ教室に戻って、授業の準備をしなくては。

「あいつも大人だから、お前が気持ちの整理をするくらいの間は待ってやれるだけの余裕はあると思う。だからお前は、焦って結論を出そうとしなくてもいい」
「…………」
「それで自分の気持ちが解ったら、その時はゼロに直接伝えてやって。お前の本音なら、あいつは何だって受け入れるだろうから」
「……はい。お話、聴いてくださってありがとうございました」

混乱した頭が完全に整理された訳ではないけれど、景光先生に打ち明けることができて随分心が軽くなった。私はようやく肩の力を抜き、先生に続いて立ち上がる。

「そう言えば、先生の授業って朝講習の時間にはありませんよね?なのにどうしてこんな時間に登校されてるんですか?」
「うん?……いや、それは内緒」
「?」

歯切れの悪い返事に首を傾げると、先生は若干同情のこもった視線を投げかけてきた。

「お前も厄介な奴に目を付けられたな、と思って。まあ、頑張れよ」
「?……よく解んないけど、解りました」

私は首を捻りつつ、先生と分かれて自分の教室へ向かった。背後で先生が苦笑しながら、こんなことを呟いていたとも知らずに。

「藤原は俺になら気兼ねなく相談してくるだろうから、普段より1時間早く登校しろってなあ。ゼロの奴、どこまでお見通しなんだか……」


[ 12/15 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]