06





久しぶりにポアロでバイトをした翌日、私は楕円形の建物が特徴的な家の前に立っていた。ここを訪れるのは日本を発って以来のことで、私は浮き立つ胸を押えこむことが出来ずにいた。

呼び鈴を押すと、中からスリッパの音が響く。ドアの向こうに丸いシルエットが見えて、私は頬を綻ばせた。

「阿笠博士!」
「おおさくら君、久しぶりじゃのう!」

私を出迎えてくれたのは、丸々とした体に白衣を着た、眼鏡の男性だった。彼の名前は阿笠博士。博士と書いてひろしと読む。
奇抜な発明品が多く、失敗することも多々あるけれど、たまに驚くほど有用性のある作品を生み出してくれる。そんな愉快な発明家に、私は大学時代からしばしばお世話になっていた。研究室の教授が、私に紹介してくれたのだ。

「3月以来ですね。ごめんなさい、事前連絡もなしにお邪魔してしまって」
「いいんじゃよ。彼はドイツで元気にしておるかのう?」

博士の言う“彼”とはギルバートのことだ。実の所、ギルバートのことについては私よりも博士の方が良く知っている。

「実は、そのことで報告があるんです。今もここにいますよ」

ここ、と言って首元を指差すと、博士は仰天してまじまじと私のヘッドホンを見つめた。

「何ぃ!?もうそんな大きさになったじゃとぉ!?」
「博士?何の騒ぎなの……」

その時、博士の後ろで扉が開き、落ち着いた女の子の声が響いた。開いた扉から姿を現したのは、コナン君と背丈の変わらない茶髪の女の子だった。

「……お客様が来てたの。お茶の準備をしてくるわ」

彼女は素っ気なくそう言うと、くるりと背を向けてキッチンに入って行った。

「博士、あのシェーンなフロイラインは?」

私はドイツ語を交えながら博士をからかった。あの綺麗なお嬢さんは?という意味だ。
博士はそうじゃった、と言って小さな背中を指し示した。

「ずっと紹介しようと思っとったんじゃよ。あの子はのう、灰原哀君と言うんじゃ」

灰原哀。つい昨日、ポアロで聴いた名前である。

「ああ、なるほど彼女がね。話には聞いていたけど、本当に賢そう」
「っ!?」

私の発言を聴いた哀ちゃんは、コーヒーの載ったお盆を手に固まった。何なのだろう、この反応は。私、そんなに機嫌を損ねるようなことを言ったっけ?
博士は哀ちゃんの態度が固くなったことに気付き、取成すように訊いた。

「さくら君、誰からこの子の話を聞いたんじゃ?」
「ポアロで毛利蘭ちゃんから。私と同じ、コンピュータに強い女の子がいるって知って、会ってみたかったんです」

にっこりと哀ちゃんに微笑みかけると、彼女はほっとしたように肩の力を抜いてくれた。
そんなにシリアスな顔をしないで欲しい。私はシリアスとは程遠い人間なのだから。

「おおそうか、蘭君が……。それなら是非、仲良くしてやってくれんかのう」
「ええ、喜んで。初めまして、哀ちゃん。私は本田さくらといいます」
「本田、さくらさん……」

私が名乗ったことで、彼女は弾かれたようにこちらを見上げた。それまでの余所余所しい態度が嘘のように、お盆をテーブルに置いて私の手を握ってくる。

「あの、人工知能に感情を与える研究をしている?情報工学界のレディ・アン?」

私はくすぐったさに肩を竦めた。レディ・アンというのは主に海外で呼ばれている私の通称である。由来は何のことはない。数年前に研究を通じて知り合った天才プログラマーが、何故か私の事を気に入ってくれて、唯一の弟子にしたいと言われたことに起因する。つまりはフランス語の1(Un)だ。

「哀ちゃんは、私のことを知っているの?」
「感情極性の抽出に関する論文を読ませてもらったことがあるわ。あとはディープラーニングとAIブームを引き起こしたアルゴリズムについての論文もね」
「ああ、2年前に発表したあれね。恥ずかしいな、あんな昔の論文を読まれてたなんて」

頬が熱を持つのが解って、私は空いた手で頭を掻いた。何はともあれ、哀ちゃんの警戒心を解くことには成功したらしい。

「そうか、哀君も彼女の論文を読んどったか。それなら話が早いのう」

博士も加わり、私達は一頻り情報工学の研究について語り合った。恐らく知らない人が見たら、一体何の集まりだと思われそうな3人組である。
哀ちゃんに淹れてもらったコーヒーが3杯目になった頃、博士が眼鏡を掛けなおしながら言った。

「それでさくら君。ワシに報告があると言っておったじゃろ」
「ああ、それなんですけど。ちょっと待ってくださいね」

博士に促され、私は首のヘッドホンとは別の、サブのヘッドホンを2つ鞄から取り出した。一つを博士に、もう一つを哀ちゃんへ手渡し、パッドがこめかみの下に当たるように着ける位置を調整する。
小さなクリック音がして、落ち着いた男の声が全員の脳内に響き渡った。

「―――ハイ、さくら。こちらは良好です。それからお久しぶりですね、阿笠博士」

直接頭の中に語りかけてくる音に驚いたのか、2人はきょろきょろと辺りを見渡した。私はくすりと笑みをこぼして、自分の耳の少し前を指で叩いた。

「骨伝導システムですよ、2人とも。鼓膜を通さずに顎の骨に直接音を伝えて、それが内耳の蝸牛に直接届くんです」

耳を塞ぐタイプのヘッドホンではないから、周囲の会話も拾うことが出来る優れものだ。
このシステムの元々の発案者はベートーヴェンだと言われている。この技術の開発者は彼の墓前にいくらかお布施をすべきだと、内心で一人ごちた。

「よくぞここまで……さくら君、君にギルバートを預けたのは正解じゃったのう」
「大げさですよ、博士。それに感動の再会はこれからでしょう?」

感涙に瞳を潤ませる博士にウインクを飛ばし、私は自分のヘッドホンを装着した。そして声に向かって呼びかける。

「ハイ、ギルバート。紹介するわ、博士の同居人の灰原哀ちゃん。彼女もコンピュータに明るいんですって」
「えっ、ちょっと。さくらさん!」

見知らぬ相手にいきなり紹介された哀ちゃんが、批難の籠った目を向けてくる。それを制したのは博士だった。

「心配いらんよ、哀君。彼はワシとさくら君の仲間じゃよ」
「仲間って、だけど」
「ギルバート、哀ちゃんあなたのことを怖がってるわよ。安心させてあげて」

私が笑いながらそう言うと、ギルバートは無茶を言いますね、と呆れたように言った。

「ほら博士、聴きました?彼、今溜息を吐いたんですよ!」
「ああ、聴いておったよさくら君!素晴らしいのう、この数ヶ月でここまで感情を露わにするようになるとは!」

テンションが上がる私達とは対照的に、哀ちゃんは目を白黒させている。ギルバートはごく冷静な声で、彼女に語りかけた。

「申し訳ありません、哀さん。私のことになると、あの二人は親バカみたいになるのですよ」
「みたいって言うか、親バカそのものじゃない……」

まるで幼い子供が、初めて自力で立ち上がったのを見守る親みたい。哀ちゃんのその呟きに、私は笑みを深くする。

「私自身で証明することは難しいのですが、ともかく私はあなたの敵ではありません。警戒しないでいただけると有り難いのですが」
「まあ、この2人の態度を見ていれば解るわよ。あなたが悪人じゃないってことはね。初めまして、ギルバートさん」
「よろしくお願いします、哀さん。……さくら、これで満足ですか?」

二人の会話を満足しながら見守っていた私に、ギルバートは突然水を向けた。私はこみ上げる笑いを隠しもせず、ヘッドホンの表面を撫でた。

「Good boy. よくできました」

テストとしてはやや甘い気もするが、合格範囲内だろう。
私の顔がよっぽど締まりのないものになっていたのか、哀ちゃんは小首を傾げた。

「ギルバートさんは、さくらさんの恋人なの?」
「え?」
「だって、普通は仲間に対してGood boy(お利口さん)なんて言わないでしょう。そう呼びかけるのは相手が犬か小さな子供か、そうじゃなければパートナー。違うかしら?」

なるほど。言われてみれば、そんな風にとられてもおかしくはないのかも知れない。
けれどよりにもよってギルバートを、私の恋人だと勘違いされるとは。見れば、博士も哀ちゃんから見えない角度で肩を揺らして笑っている。

「博士。哀ちゃんには、そろそろネタバレしてもいいんじゃないですか?」
「そうじゃのう。哀君なら、ギルバートの力になってくれるかも知れんし」

博士の許可を貰い、私は哀ちゃんに向き直った。彼女は怪訝な顔をしつつ、私の話に耳を傾けてくれた。

「気を悪くしないで聴いてね。実はさっきまでの会話は、テストだったのよ」
「テストですって?」
「ええ。チューリングテスト、と言えば通じるかしら」

そこで彼女は息を呑んだ。さすが、彼女も私と道を同じくする研究者である。信じられない、と言いたげに見開かれた目が、姿の見えないギルバートを探すように揺れた。

「嘘でしょう?だって、こんなに―――」
「哀さん」

ヘッドホンの向こうから、落ち着いた男の声がする。
たった今その正体を明かされた本人は、軽い笑みを含みながら諭すように告げた。

「嘘ではありません。先程申し上げた通り、私はあなたの敵ではありませんよ」
「―――っ」

哀ちゃんはまだしばらく事実を受け入れられない様子だった。けれど私と博士の顔を見返して、ようやく納得したように口許に笑みを浮かべる。

「……素晴らしいわ。本当に素晴らしいわ!さくらさん、少し彼の知恵を借りてもいいかしら?」
「ええ。私もあなたの研究が気になるから、ラボにお邪魔してもいいならね」
「勿論よ!こっちへ来てくれる?」

私の手をぐいぐい引っ張っていく哀ちゃんを見て、博士は慌てて止めようとした。けれど私が文句も言わずに立ち上がったので、結局何も言わなかった。

その時の博士の眼差しは、それこそ親バカとしか言いようのない温かなものだった。


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