05





どうやら降谷零という男は、中々に多忙な男であるらしい。

「ごめん、さくら!今日になって急に安室さんからバイト休むって言われちゃって、私がヘルプで入ることになっちゃったの!」

研究室での2回にわたる打ち合わせを終えた翌日。梓と一緒にトロピカルランドに行く約束をしていたというのに、急遽“安室透”がバイトに出て来られなくなったせいでその予定もパアになった。恨むぞこんちくしょう。……忙しくしている背景に、自分が全く関係ないとは言い切れないから複雑ではあるけれど。

(今朝パスワードを送ってきたときは、特別急いでる様子も無かったのにな)

彼は宣言した通り、あれから毎朝ラインで当たり障りのない挨拶と共に、セキュリティロックのパスワードを送ってくるようになった。“安室透”のアカウントでやり取りしているから、普段の口調とのギャップが凄まじい。

「そういうことならしょうがないね。それにしても、梓が仕事なら私はどうしようかなあ……」

実家に帰ってのんびりしてもいいし、一人でショッピングをしてもいい。そんなことを考えていた私の耳に、魅力的な提案が飛び込んできた。

「それなんだけど、折角だからさくらも一緒にポアロで働かない?」
「え?」
「店長がね、業者さんの対応でお店を開けることが多いかもって言ってて。安室さんがいたら安心だったんだけど、私一人じゃ心許なくってさ」
「そりゃ、オーナーが許してくれるなら私はいいけど。昔取った杵柄だしね」
「じゃあ、私から店長に訊いてみてもいい?さくらが来てくれたら百人力よ!」

と言う訳で、私は急遽古巣のバイト先で1日ウェイトレスをする羽目になったのだった。
迂闊にもほいほいとバイトの話を引き受けたことで、私の人生における最大の過ちを犯してしまうことになろうとは、この時の私は夢にも思っていなかった。

そう、私はこの日、歩く事件吸引器と出会ってしまったのである。

*****

蘭と小五郎のおっちゃんと一緒にポアロに来た時、出迎えてくれたのは梓さんでも、最近おっちゃんに弟子入りした安室さんでもなかった。

「さくらちゃんじゃねえか!久しぶりだなぁ!」
「毛利さん!それに蘭ちゃんも!ご無沙汰してますー」

梓さんと同じ年頃の、見慣れないウェイトレス。さくらと呼ばれた彼女のことを、おっちゃんや蘭はよく知っているようだった。

「さくらさん、一体いつドイツから帰って来られたんですか?」

蘭の嬉しそうな声を聴き、彼女はひらひらと手を振った。

「ああ、今は一時帰国中なの。今日は欠勤した安室さんのヘルプで入ってるだけよ」
「そうなんですね。あれ?安室さんとお知り合いなんですか?」

俺と同じ疑問を、蘭も抱いていたらしい。俺もあの人のことはよく知らないが、縁者と言う人が出てきて少し安心した。
しかし俺の安心も、続く彼女の言葉で打ち砕かれる。

「ついこないだ知り合ったのよ。梓とオーナーにお土産を渡しに来たら、偶々安室さんが店番してて」
「なるほど。それでヘルプに入ってあげるなんて、さくらさんは相変わらず優しいですね」

何だ、安室さんの縁者じゃなかったのか。知り合ったばかりの人間のヘルプに入るなんて、優しいというか人が良すぎるように思うが。
俺は子供の顔を装って、彼女の情報を集めることにした。

「ねえねえ蘭姉ちゃん、このお姉さんだあれ?」
「あ、そうか。コナン君は初めて会うんだっけ。この人は本田さくらさん。今年の3月まで、ポアロで梓さんと一緒にバイトしてたのよ」

今年の3月というと、俺がこの体になる前のことだ。道理で知らないはずである。

「へえー、そうなんだ。初めまして、さくらさん」
「初めまして。蘭ちゃんの……弟?親戚?」

愛想のいい微笑みとともに、彼女の首が傾げられる。俺が自己紹介しようとしたら、すかさずおっちゃんが横から口を挟んだ。

「こいつは、あの生意気な探偵坊主の親戚だ。今、うちで居候してんだよ」
「お父さん、そんな言い方ないでしょ。この子は江戸川コナン君。まだ小さいのに、すっごく頭がいいんです」
「ああ、蘭ちゃんの幼馴染の、工藤君だっけ?あの子の親戚なのね。コナン君、よかったわね。こんな優しいお姉さんがいつも傍にいてくれて」

まっとうな子ども扱いをされて、正直ものすごくむず痒い。俺は自分のことから話題をずらそうと、曖昧に返事をしてから質問をした。

「さくらさんは、どうしてドイツに行ってるの?」

すると彼女は身を屈め、俺に目線を合わせてくれた。間近で見るとびっくりするほど美人なお姉さんだということが解る。

「コナン君は、人工知能って知ってる?」
「うん!おっきいコンピュータの中に、人間と同じような知能をもったプログラムがいるんでしょ?」

俺の脳裏に、その存在を自ら消してしまった哀しい人工知能の記憶が蘇る。
ノアズ・アークという名のそれは、自らの生みの親の仇を取り、命を絶った。

「そうね、そんな感じ。私はそれを研究してて、ドイツの人工知能研究センターで働いてるの」

思った以上に頭脳派だったらしい。俺は素直に感嘆の溜息をついた。

「へえ……。すごいんだね、さくらさん。僕もいつか、さくらさんの作った人工知能で遊びたいな」
「ふふ、ありがとう。それなら今度、研究の展示会に招待するわね」

彼女は俺が子供らしからぬ分野に興味を持っても、不思議には思わなかったようだ。その方が都合がいいとは言え、もしかしたら多少天然の気が入っているのかも知れない。

しかしコンピュータに強いと言えば、目つきの悪いあの女が真っ先に思い浮かぶ。俺と同じタイミングで、蘭も同じ奴のことを思い出したらしい。

「コンピュータに強いってことは、哀ちゃんと話が合うんじゃないですか?」
「哀ちゃん?」

突然出てきた第三者の名前に、さくらさんは驚いて目を丸くした。俺はあまり知らない人間にあいつのことを知られたくなくて、蘭の袖を引いて止めようとする。

「あ、蘭姉ちゃん、それは……」

だが、テンションの上がった女子高生の口を封じることは至難の業だ。蘭は実にあっさりと、灰原のことをさくらさんに喋ってしまった。

「コナン君の同級生で、すっごく大人びた女の子がいるんです。その子も機械に強くって。もしかしてさくらさんなら、哀ちゃんのお友達になれるかなって思ったんですけど」
「コナン君の同級生?そんなに小さなお嬢さんが、コンピュータを?」
「あーっと、だから、その……」

さすがに怪しまれただろうか。誤魔化そうと口を開いたものの、うまい言い訳が出てこない。しかし俺の焦りは、彼女が目を輝かせて言った言葉によって杞憂に終わった。

「ドイツにもいるわよ、9歳くらいでバリバリ第一線で活躍してる子。ああいう子は、初めから脳の作りが違うんでしょうね」

あっけらかんとそう言い放ち、是非その天才少女に逢ってみたいな、と笑う彼女からは、何の悪意も感じられなかった。なるほど、俺が人工知能に興味を示しても不審に思わなかったのも、普段から周りに天才児と呼ばれる奴がいるからなのかも知れない。

「あ、いけない、オーダー聞いてませんでしたね。ご注文はお決まりですか?」

ふと我に返ったさくらさんは、ウェイトレスの役目を思い出して真面目な顔を作った。各々好きなものを頼むと、解りました、と言い置いて彼女は厨房へ下がって行った。

その背中を、店内にいた女性客がじっとりと見つめていることに俺は気付いた。

「ねえ蘭姉ちゃん。あの人達ってさ、いつもポアロに来てるよね?」
「え?……ああ、そう言えば、いつも同じ席で見かけるね」
「なんか、さくらさんに怖い目を向けてるように見えたんだけど……」

俺がその客を指差そうとした瞬間、一つの影が差した。

「あの子たちは、安室さんのファンなんです。それできっと、安室さんと仲がいいように見えるさくらを警戒してるんですよ」
「梓さん!」

入店してから姿の見えなかった、馴染みのウェイトレスの梓さんだった。困ったように眉を下げ、件の客を背後に隠す。

「安室さんがバイトで入るようになってから常連になったので、あの子たちはさくらがここでバイトしてたことを知らないんです。昔からのお客様なら、さくらを悪く思う訳がないんですけどね」
「そりゃあ、さくらちゃんにとっちゃあとばっちりもいい所だな。わざわざヘルプに来てやってるって言うのによ」
「今日さくらに来てもらったのも、半分は私の我儘なんです。でも、毛利さんも蘭ちゃんも懐かしいでしょう?」
「はい!久しぶりにお話できて、とても楽しかったです」
「僕も初めて会ったけど、綺麗なお姉さんでびっくりしちゃった!」

でも、安室さんとはこないだ知り合ったばっかりって言ってたよ、とやや大きめの声で主張する。勿論件の客に聴かせるためだ。おっちゃんの言う通り、とばっちりで恨まれるさくらさんが気の毒だと思ったのである。
すると梓さんは、厨房に目を遣ってから背中を屈めた。俺達だけに聴こえる声量で、口元に手を当てながら言う。

「でも、安室さんはさくらに気があるんじゃないかって思うんですよね」
「え?どうしてですか?」

俄然興味を示したのは勿論蘭だ。おっちゃんは眉を上げ、俺は目を丸くしたもののそれほど興味を引かれることはなかったが、女子高生にこの手の話題を振ると大変なことになる。

「こないださくらがお土産を持ってきてくれた時、さくらを車でホテルまで送っていくって強引に誘ってたの。さくらに聞いたら、ポアロの先輩だから気を遣ってくれたんだよって言ってたけど、これってちょっと怪しくない?」
「ええーっ!」

ああ、こりゃ駄目だ。こうなった若い女性は止められない。おっちゃんと俺は半眼で蘭と梓さんを見やるが、二人のトークはますますヒートアップしていった。

「しかも、その日の内に連絡先まで交換してたのよ。こないだも二人でご飯に行ったって言うし、強ちあのお客さんたちの邪推も間違いじゃないのかもって……」
「わあ、そうなんですね!安室さんとさくらさんなら、美男美女でお似合いじゃないですか!」

あ、これはさくらさん詰んだな。いくらボリュームを抑え気味にしていたとは言え、蘭の言葉はまっすぐに件の客の耳に届いただろう。
フォローしておこうと思った俺の努力は空しく散った。注文の品を持って出てきたさくらさんに益々刺々しい視線が刺さるようになったのは、言うまでもない。


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