07





日曜日の朝、私は枕元のスマホが振動する音で目を覚ました。

「―――はい、本田です……」
「おはようございます、本田さん」

最早聞き慣れてしまった声に、今の時刻が6時ちょうどであることを知る。時間に正確なのはいいことだと思いますよ、バイトのシフトに穴を開けるのは感心しませんけどね。

「おはようございます、“安室”さん。今日は、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくお願いします。パスワードはすでに送らせてもらいましたので、確認しておいてください」

言われてスマホの画面を確かめた。通話を示すアイコンとは別に、1件の短いメッセージが表示されている。

「解りました。私は今日、12時には現場に入ります」
「でしたら、10時に迎えに行きますよ」
「迎え?」

予想外の申し出に、私は体をベッドから起こした。カーテンを開けて日の光を入れると、途端に頭が覚醒し始める。

「ええ。前準備が必要でしょう?」
「……解りました。それじゃ、10時にホテルの前にお願いします」
「了解です。二度寝しないで下さいね」

言うだけ言って通話は切れた。私は物言わぬ鉄の塊となったスマホを放り、洗面台へと向かう。

今日は(もしかしてもしかしたら)勝負の日、である。
勿論何事も起きなければそれでいい。それでいいどころかそれが望ましい。
けれど何かがあったとしても、一人で立ち向かわなくていい。そうと知っているだけで、幾分心は軽くなった。

10時まであと4時間。軽くジョギングでもするか、と決めて、私は充電器からヘッドホンを掴み取った。
小さなクリック音の後には、いつもの落ち着いた男の声。

「―――おはようございます、さくら。今日はどのコースを走りますか?」

あれ、と思ったことは内緒だ。いつもと挨拶が違うのは、ここが日本だからだろうか。

「おはよう、ギルバート。3キロくらいのコースはある?」
「検索します。―――ルートが出ました。案内に従って走ってください」
「はーい。ナビは任せるわね、っと」

私はホテルのロビーを抜けると、朝の涼やかな空気の中に身を躍らせた。

*****

本田さくらの研究室が行う講演会の内容は、資料を見ただけでは正直よく解らないものだった。しかしホールを埋め尽くす聴衆にとってはそうではないようで、欧米の大手メーカーの営業マンも混じっていることから、この講演会の注目度の高さがうかがえた。
会場の下調べを終えて、僕は本田さんの控室へと足を運んだ。研究室では唯一の女性であることから、彼女の控室は個室も同然だった。

「僕の持ってきたパソコンはどうだ?使いやすいだろう」
「同じメーカーですし、悪くないですね。あとは私好みにカスタムして、トラップを仕掛ければ終わりです」
「それはよかった」

つまり作戦としてはこうである。今日の講演で使う彼女のパソコンはダミー。今日の講演で使う必要最低限の資料だけをこちらにコピーし、様々な論文や研究結果が詰まった彼女のパソコンは、先ほど僕が愛車のトランクに置いてきた。もしも犯人が彼女のアプリを盗もうとして、これまでの打ち合わせでそれが叶わなかったとすれば、おそらく仕掛けてくるのは今日である。講演が終わり次第ダミーのパソコンはこの控室に放置して、犯人がどう動くかを見極めるというものだった。

彼女はダミーのパソコンに対しても手を抜くつもりはないようで、このパソコンに他人が触れば初期化するように設定を変更していた。無論この端末には公安警察特注のGPSが埋め込まれているので、例え会場の外に持ち出されたとしても追跡は簡単である。

講演まであと30分。彼女はそろそろ舞台袖に移動しなければならない時間だ。

「それじゃ、僕は会場内の警備に行くよ。成功を祈ってる」
「あ、ごめんなさい、ちょっと待って」
「ん?」

本田さんの呼び止める声に、僕は足を止めて振り返った。彼女は首から下げていた例のヘッドホンを外し、僕に向かって差し出した。

「これを、あなたにお預けしたくって」
「……。このヘッドホンが、何か?」

正直、捜査に関係ない頼みごとに耳を貸している余裕はない。ヘッドホンをするとなると、右耳に嵌めているインカムに障りが出るかも知れないと抗議すると、彼女は笑って首を振った。

「よく見てください。これは耳に入れるタイプじゃなくて、こめかみの下にパッドを当てるタイプなんです。だからインカムの邪魔はしませんし、周りの会話も聞こえますよ」

骨伝導システムか、と僕は呟いた。最近はこの手のタイプのヘッドホンも広く販売されるようになったのは知っているが、何故この場面でこれを託されるのかが解らなかった。

「演台にヘッドホンをしていく訳にはいかないでしょう?」
「それはそうだろうが、しまっておけばいいだろう」
「下手にしまっておくより、あなたが持っている方が安心かと思って」
「……このヘッドホンに、僕が直接守らなければならないほどの価値があるとでも?」

場合によっては大立ち回りが考えられる時に、余計なものは身に着けていたくない。
苛立ちを隠さずに聞くと、彼女は迷いなく頷いた。

「私の大切な相棒よ。絶対に手放さないでいてくださいね」

頭には付けなくていいですから、とにかく肌身離さず持っていてと言って、彼女はパソコンを手に控室を出た。僕は手元に残ったヘッドホンをまじまじと見つめるものの、彼女がそこまでこれを大事にする意味が解らなかった。

ただのお守りではないのだろうか。何か重大な情報でも聴いているのか?

僕は試しにヘッドホンを装着してみることにした。彼女が言っていた通り、こめかみの下にパッドが当たるように位置を調節する。なるほど、これならインカムの邪魔にもならずに周囲の雑音も拾うことが出来る。
少しばかり感心していると、小さなクリック音がした。一瞬どこから聞こえた音なのか判別できず、背後を振り返る。

そして間を置かずに、落ち着いた男の声が頭の中に直接響いた。

「―――さくら?」

聞こえたのは彼女のファーストネーム。

「こちらはギルバート、通信は良好です。どうかしましたか?今日はこれから講演があると把握していましたが」

男は相手が僕であるとは気付かずに、迂闊にも自分の身元を明かした。
次の瞬間には、僕は乱暴にヘッドホンを頭から外していた。

―――なんだ。
と、誰に向けたものかも解らない猛烈な怒りが湧きおこる。

大事な相棒というのは、ヘッドホンに対する比喩ではなかったのか。
これはお守りなのではなくて、大事なパートナーと繋がるための道具だったのか。
それを他の男に守らせようとは、なかなかに図太い神経をお持ちのようだ。
馬鹿馬鹿しくなって、僕は彼女の鞄にヘッドホンを突っ込んだ。わざわざ見張っていなくても、誰も奪ったりしないだろう。

視界に入った腕時計を確認すると、もう間もなく開演する時間だった。僕は足早に控室の扉を閉め、会場へと向かった。
胸を占める怒りの源がどこにあるのか、僕は理解しようともしなかった。



2時間後、会場は興奮に包まれていた。普通、研究結果の報告というのは白いプロジェクターにパワーポイントの資料などを写していくものが多いが、彼女の研究室の発表は一味も二味も違っていた。
彼女が考案したというプロジェクションマッピングのお陰で、研究室のメンバーが語っていた内容が立体的に可視化され、素人目にも理解しやすくなっていたのだ。
研究結果を示すだけではなく、聴衆に楽しんでもらおうという創意工夫が感じられ、未来を創造する研究者の健全なバイタリティに、僕を含めた会場内の人間は舌を巻いた。

しかしながら、僕にとっての本番はここからである。
講演が終わった直後、本田さんはダミーのパソコンを真っ先に控室に置きに行った。そして誰かが近寄らないうちに、ロビーの方に移動してもらう。
僕は警備室で監視カメラを見張っている部下にインカムで連絡を取った。

「風見、彼女の控室に不審な人影は近寄っていないか?」
「大当たりですよ、降谷さん。まさしく今、一人の男が彼女の控室に向かっています」

狙い通りの展開に、僕はにやりと口元を緩めた。

「顔も確認できました。研究室の副リーダー、大畠雅史で間違いありません」
「控室に入ったら知らせてくれ」
「その場で取り押さえますか?」
「いや、決定的な証拠が欲しい。パソコンを手に逃走するか、ハードディスクをパソコンに接続するか、どちらかの行動に移したところを押さえる」
「解りました」

風見に出した指示は2択だったが、恐らく前者の可能性が高いと考えていた。彼女はパソコンのセキュリティロックを毎日変更している。そのことに犯人が気付いていれば、誰が来るとも限らない控室に長時間居座ることはしないだろう。

やがて大畠は目論見通り、彼女の控室に入って3分ほどで出てきた。小脇に抱えているバッグには、ダミーのパソコンが入っていることだろう。
僕はスマホを取り出し、彼女の番号をコールした。

「はい、本田です」
「本田さん、作戦は成功だ。犯人と思しき男が控室に入り、ダミーのパソコンを持ち出したのを確認した」
「―――やはり、研究室内部の人間の犯行でしたか」
「ああ、間違いない。副リーダーの大畠雅史による犯行だ」

一瞬息を詰めたのは、目的を同じくする研究室の仲間に裏切られたと感じたからだろう。しかし彼女はすぐに呼吸を整え、毅然とした声で続けた。

「解りました。私も控室に向かい、他に盗られた物が無いか確認します」

用件だけを伝えて通話は途切れた。僕は大畠の後をつけるため、ダミーのパソコンのGPSを起動させた。
大畠はダミーを手に、会場の裏口へと走っていた。このまま会場から逃亡しようものなら、自分が犯人だと白状するようなものである。一体どうするつもりかと思っていると、裏口に白い車が一台止まった。
運転席の窓が開き、大畠は荷物を中に居た男に渡している。

(なるほど、そうやって自分は何食わぬ顔で会場へ戻るつもりか)

現場は押さえた。今すぐ出て行って、車の男ごと捕まえてやろうと思ったところで、胸ポケットのスマホが振動した。着信の相手は本田さくらである。
今は目の前の男2人に集中したかったのだが、やむを得ない。簡単に済ませて車を追うことにしようと決めて、僕は受信アイコンをタップした。

「本田さん?今はちょっと取り込み中で」
「ヘッドホンが……っ」
「何?」

途端に耳に入ってきたのは、聞いたこともないほど切羽詰まった彼女の声だった。

「パソコンだけじゃないわ。ヘッドホンを持って行かれた!」

ぎくりと体が強張った。講演前に彼女が僕に預けて行ったヘッドホンを、僕は彼女の鞄に放置してきたのだ。控室にダミーを置きに行った時、彼女は恐らく僕が例のヘッドホンを身に着けていないことに気付いていたのだろう。
だからと言って、ヘッドホン一つでこんなに取り乱す必要がどこにあるのだろうか。

―――あの男の声が聴けないことが、そんなにも不安なのか。

「落ち着け。ヘッドホンの一つや二つ、今は些末な問題だろう」

必要以上に冷たい声音になった。そのことに気付いて自分に舌打ちしそうになった時、悲鳴のような声が鼓膜を揺らした。

「冗談じゃないわ!あの子が―――あの子こそ、私の」
「あの子?」

あの紳士然とした声の持ち主を“あの子”と形容するのはいささか不自然なようにも感じるが、彼女は泣き出しそうな声で訴えた。

「っとにかく!あのヘッドホンが無いと、私の研究は立ち行かなくなるんです!早く探して、取り返さないと」
「―――」

何がそんなに彼女を焦らせるのかは解らないが、僕が思っている以上にあのヘッドホンは重要な意味を持つらしい。目の前の車は発進してしまったが、ナンバーも覚えているしGPSも作動している。

「解った、幸い犯人はGPSに気付いていない。すぐに取り戻してみせるから、君はそこで待ってろ!」

そう叫んで、僕は愛車を取りに駐車場へ向かった。窃盗の実行犯である大畠の確保については風見に任せ、僕は彼女に託されたヘッドホンとダミーを回収することにしたのである。


[ 8/112 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]