03





どれだけ無為に過ごそうとも、はたまた無理難題を吹っ掛けられようとも、時間は全ての人間の上に平等である。僕はようやく終わりの見えてきたポアロの勤務時間を壁の時計で確認しつつ、深いため息を吐いた。

「安室さん、どうしたんですか?今日、なんだか顔色がすぐれませんね」

梓さんが心配そうにこちらの様子を伺ってくる。そんなにぱっと見で解るほど憔悴している自覚はなかったが、彼女がさくらのことを知る人間だということで少し気が緩んでいたのかも知れない。

「平気ですよ、ご心配お掛けしてすみません。もう少しでシフトも終わりますし、最後まで頑張ります」
「そうですか?せっかくさくらが帰国してるんだし、もし体調が悪いなら、呼びつけて看病してもらってくださいね」
「あはは、ありがとうございます」

親友だからこそのぞんざいな扱いに、僕は声を立てて笑った。看病してもらうことが目的でなくても、可能な限り僕の目の届くところに居て欲しいと本音では思っていた。

けれど、彼女を傍に置くことと一度離れてみることと、どちらがより彼女を守れることになるのか僕には解らなかった。公安の方に身辺警護を依頼しようかとも思ったのだ。上司には彼女と交際を始めた旨は報告済みで、元々協力者として彼女の情報は知られていたから、警護を依頼したらすぐに人員を割いてくれるだろうとは思っていた。
だがそれを止めたのは、彼女に忠実な人工知能だった。万が一、公安警察にツテがあることを知られれば、彼女だけでなく僕の立場も苦しくなるからと。

ならばどうしたら守れるのか、と僕は歯噛みしたい気持ちでいっぱいだった。

「でも、今日はさくらさんは実家に帰るらしくて、家族水入らずのところを連れ出すことは出来ませんよ」
「それならむしろ安室さんも、さくらの実家にお邪魔しちゃえばいいのに」
「いえ、さすがにそこまでは……」
「さくらんちのお父さん、すっごい過保護なんですよ。あの子がドイツに行くって決めた時も最後まで反対してて」
「ああー……」

それは何となく解る気がする。彼女の両親には病院で一度会ったが、父親だという男性の僕を見る目が、射殺されそうなほど鋭かったのは覚えている。娘を傷物にしやがって、とありありとその瞳に書かれていた。恋人でなかったあの頃でさえそうなのだ、仮に今、恋人だと紹介されたら殴られるのは覚悟した方がいいだろう。

そんな平和な未来など、当分来るはずもないのだが。

「だからさくらの両親を攻略するには、まずお母さんを落とすことが大事ですね!」
「はは、参考にさせてもらいます」

随分気の早い話だ、と思いつつ、僕は笑って梓さんのありがたいレクチャーを聴いていた。



シフトが終わるまであと10分、という時になって、カランとドアが開く音がした。振り返っていらっしゃいませ、と言おうとした僕は、相手の顔を見て一瞬動きを止めた。

「安室さん?どうしました……あれっ、さくら!」

そこに立っていたのは、今朝まで一緒にいた彼女だった。さっき梓さんに話した通り、彼女は今日実家で過ごしているはずではなかったのか。

「いらっしゃい、さくら。今日は家にいるんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんだけど、買い物に来てたまたま近くを通りかかったから。1杯コーヒーを飲んでから、実家に帰ろうと思ったの」

にこやかに答えながら、彼女はカウンターに腰を下ろした。それと同時に、ポケットに入れておいたスマートウォッチが5回振動する。普通の通知ならば2回しか振動しないはずだ。

咄嗟に目をやった彼女の白いうなじには、昨日の夜に付けたはずの紅い痣が綺麗に消えていた。

―――ベルモットか。

と、僕は瞬時に目の前の人間の正体を悟った。

「またまたー!いいのよ、素直に言ってくれても。“安室さんに会いに来た”って」
「梓さん、揶揄わないでくださいよ。さくらさんが困ってるじゃないですか」

ベルモットが僕と彼女の関係をどこまで掴んでいるかは解らないが、せめて恋人同士であるという事実は悟られたくない。余計な情報は与えるな、と牽制の意味も込めて梓さんの言葉を遮ると、僕は彼女の姿をした女に向き直った。

「だけどここで会えたのも、何かのご縁でしょう。もう少しでシフトも終わりますから、ご実家まで車で送りますよ」

せいぜいベルモットの変装に気付いていないふりをしながら、僕は“バーボン”に与えられた任務を忠実にこなしているというポーズを取ってみせた。ベルモットは僕の提案に満足そうに笑い、お願いします、と殊勝に頭を下げた。

吐き気がしそうだ。ラムからの命令を任されたのは、僕一人ではなかったのだ。
ベルモットの監視を交わしながら、彼女を組織に引き入れることを断念させる方法を考えなければならないなんて。

最愛の彼女の顔をしながら不敵に微笑む目の前の女に、僕は完璧な営業スマイルで濃いめのコーヒーを差し出した。

*****

「さくら、少々厄介なことになりました」
「もう既にこの上なく厄介な状況だとは思うけど、何があったの?」
「例の指示を受けて動いているのは、降谷さん一人ではないようです」

予想以上に厄介な情報を聴かされて、私は机に顔を突っ伏した。

「それはつまり、“バーボン”一人には任せておけないっていうこと?まさか彼と私の関係を知られてるなんてことはないわよね?」
「さすがにそれはないと思いますが、本気で探りを入れられれば知られるのも時間の問題でしょう。今現在、ベルモットという女があなたに変装してポアロを訪れ、情報を集めようとしています」

最悪だ。この上なく最悪だ。私の顔やプライベートの写真は、ネット上で検索すれば簡単に見つかる。だからきっと私の好みそうな服装を真似ることも、同じメーカーの時計を見つけることも簡単だろう。実家の住所や家族構成はでたらめなものに書き換えているが、この家が特定されれば私だけでなく両親にまで危険が及ぶ。
予定ではあと1泊するつもりだったが、これは早々に切り上げてホテルに移動すべきだろうと思った。

「取り急ぎ、降谷さんにはスマートウォッチを鳴らして合図はしました。降谷さんからあなたに関する情報が流出することはあり得ません」
「私本人が会いたくても会えないっていうのに、偽物が零さんと一緒にいるなんて……」

私は唇を噛んで拳に力を籠めた。嫉妬している場合ではないと解っているが、自分の姿をした別人が恋人を誑かしているなんて、全くの他人に横恋慕されるよりも気分が悪い。白鳥の湖のオデット姫にでもなったような心境だ。

縁起でもない自分の例えに、私は目線を上げられないまま身震いした。バレエ音楽の白鳥の湖は様々なバージョンがあるが、最もオーソドックスな結末は、呪いが解けないまま王子ジークフリートと心中するというものだ。

私はがばっと体を起こし、ぶんぶんと頭を振った。悲劇は嫌いじゃないけれど、自分の身に置き換えるならハッピーエンドがいい。どうせ準えるならメッセレル版の、白鳥の呪いが解けて現世で結ばれるバージョンにしよう。
呪いを解くにはオディール姫の―――ベルモットという女の情報を集めなければ。

「ベルモットっていう女について、あなたの知っている情報を教えて。私も顔は見たことがある?」
「そうですね……。半年前の事件であなたは、NOCの疑いを掛けられた降谷さんを助けに、港の倉庫群に行きましたね」
「ええ、赤井秀一と一緒にね」
「その時に倉庫にいた、金髪ロングヘアの女性。彼女がベルモットです」

言葉と同時に、画像がデスクトップに表示された。その顔をどこかで見たことがあるような気がして、私は首を捻った。

「この人……、女優のクリス・ヴィンヤード?」

倉庫で彼女を見た時は逆光だったことと、零さんの無事を確保することしか考えていなかったから気付かなかった。けれどこうして明るい所で写真を見れば、ハリウッドを代表する大女優、シャロン・ヴィンヤードの娘で間違いなさそうだった。そんな人物が私に扮しているなんて、こんな場合じゃなければ光栄だと言って喜んでいたかも知れない。

「彼女の最大の武器は、今日の行動からも解るように変装して諜報活動を行えることです。彼女の目を欺くことは至難の業と言えるでしょうね」
「でも、死なないためにはやるしかないわ。そのためにもまずはここを出て、泊まるホテルを探さないと……」
「お任せください、すぐに手配します」

人工知能は小さなクリック音を残して沈黙した。私は愛用のスーツケースに荷物をまとめ、一言母親に連絡を入れる。

ひっそりと家を後にしながら、私は赤く染まりつつある空を見上げた。私が行く道を導くような、暖かな色だった。


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