あなたの世界を教えて





朝食を摂ってシャワーを浴びた後、さくらはお土産があるの、と言って僕に大きな紙袋を差し出した。部屋から出てきた時は少し顔色が悪そうに見えたが、今は随分血色がよくなったようだった。

「ありがとう。開けてもいいか?」
「ええ、勿論。喜んでもらえるといいんだけど」

さくらが僕に持ってきてくれたお土産は多種多様だった。

まず1つ目。フランスの名窯、レイノーのコーヒーカップとソーサーのセットが2客。
2つ目。ミュンヘンの高級食品店“ダルマイヤー”のコーヒー。
3つ目。世界3大貴腐ワインとして有名な、ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼ。
僕1人で貰い過ぎじゃないかと不安になったが、どれも貰って嬉しいのは確かだったので、僕は彼女の顔を引き寄せて触れるだけのキスを贈った。コーヒーカップが2客あるのは、彼女が帰国した時に使わせてもらおう。コーヒーは早速味わうことにしよう。

そして貴腐ワインを手に取った時、僕は彼女に何の気なしに訊いていた。

「さくら、カクテルはそんなに詳しくないって言ってたな。ビールも苦手なんだったか」
「ええ。向こうじゃ基本、ワインばっかり飲んでるわ」

あなたはやっぱりウイスキーが好きなの?と言って彼女は悪戯っぽく笑った。僕はいいや、と短く否定する。

「勿論ウイスキーは飲めるし、好きな銘柄もあるさ。でも、一番好きなのは日本酒かな」
「日本酒?」
「ああ。……そんなに意外だったか?」

僕は見た目はこれでも心はどこまでも日本人のつもりだ。だから朝のティータイムは緑茶を飲むし、お米も大好物である。

「そうね、ちょっと意外だったかも。ねえ、何かオススメの銘柄はある?」

彼女はそこまで日本酒に詳しい訳でもないようだった。まだ成人して精々3、4年しか経っていないのだから、お酒の味にそこまで慣れていないのだろう。けれどこうして興味津々で食いついてくるのは、彼女の科学者としての好奇心のなせる業だろうか。
僕がそんな疑問を口にすると、彼女は違うわ、と言って頬を膨らませた。

「あなたの好きなものを、私も好きになりたいの。恋人の好きな世界を共有したいって思うのは、自然なことでしょう?」

その口振りが何とも可愛らしくて、僕は彼女の膨らんだ頬をつついた。

「解った。それなら、君がドイツに戻る前に美味しい日本酒を飲みに行こう」
「本当に?」
「ああ。いつが空いてる?」

2人の予定を突き詰めると、3日後の夜に時間が合うことが解った。即座に店に予約の電話を入れ、了承を得る。

「ふふふ、楽しみだわ。とっておきを紹介してね?」
「勿論。期待しておけよ」

ころころと笑う彼女の額に、僕はそっと唇を落とした。



約束の日、僕は彼女と連れ立って行きつけの回らない寿司屋に来ていた。個室も完備されているため、誰かの目を気にする必要もない。

「そう言えば何も訊かずにここを選んだが、寿司は平気だったか?」
「ええ。日本にいる間は美味しい和食を食べなきゃね!」

心底嬉しそうにしている彼女に、僕は自分のチョイスが間違っていなかったことを知った。
大将が持ってきたお酒のメニューを開くと、僕はさっそく彼女にどんなタイプの日本酒を飲みたいか質問した。

「そうね、香りが高いものがいいな。あんまり辛すぎないのがいいかしら」
「だったらこのあたりだな。すみません、鍋島のグラス一つ。僕は……梵をください」

鍋島は佐賀県鹿島市で製造されている日本酒だ。フルーティーな香りがして、女性の口には合いやすい。梵は皇室にも献上された福井県産のお酒で、やや辛口のものである。
やがて突き出しの品と共に、枡に入ったグラスと瓶が運ばれてきた。目を輝かせる彼女の前で、大将はしたり顔で日本酒を注いでいく。
彼女がスマホで写真を撮るのを待って、僕は杯を軽く持ち上げた。

「それじゃ、乾杯」
「乾杯、いただきます」

まず香りを嗅ぐのは酒飲みの習性だろう。次いで杯の淵に口をつけて、彼女はゆっくりとそれを口に含んだ。
瞬間、解りやすく彼女の両目が喜色に染まった。

「美味しい……!マスクメロンみたいな香りがするわ!」
「それはよかった。癖もないし、飲みやすいだろう?」
「ええ!今まで私、日本酒って獺祭とか越乃寒梅とかしか飲んだことなかったけど、こんなお酒もあるのね!」

あなたのも一口ちょうだい、と言われて、僕は笑って彼女の方に自分の杯を差し出した。辛口のものは彼女の口にはまだ早かったようで、一口だけで彼女は僕にそそくさと杯を返してきたが。

「他にもあるぞ。癖がないものがよければ秋田県のゆきの美人、甘口がよければ石川県の加賀美人。ああ、これなんかもオススメだな」
「鈴鹿川?三重県のお酒なの?」
「ああ。頼んでみるか?」
「ええ!」

彼女はすっかり僕の進めるお酒の虜になったようで、この後も3、4杯ほど様々なお酒を嗜んだ。



そしてその結果、珍しく彼女は酔っぱらってしまったようだった。

「あれ、……足に力が入らない……」
「酔ったのか?珍しいな」

彼女は人形のような見た目と裏腹に、意外とお酒は飲める口である。だがこの時は、飲み慣れていない日本酒ばかりを好き放題飲んだせいで、自覚していた以上にアルコールが回っていたようだった。

「んー、酔ってはいない、と思うんですけど」
「酔っ払いは誰でもそう言うんだよ。ほら、無理しないで掴まってろ」

僕は彼女の肩を支えながら店を出た。すっかり千鳥足になった彼女は、ほんのり頬を赤く染めながら僕の上着を軽くつまむ。

「ふふふー」
「どうした?ご機嫌だな」
「零さんとこんなに堂々とくっついていられるなら、酔っ払うのも悪くないなって」

ぎゅー、と口で言いながら彼女は僕の腰に腕を回した。これは結構、本格的に酔っている。
こんな酔い方をするのは僕の前だけにして欲しいものだ。もしも海外で酔って男にこんな絡み方をしたら、即座に持ち帰られてしまうだろう。
通りでタクシーを待ちながら、僕は上機嫌で僕の胸元に顔を埋めるさくらに問い掛けた。

「さくら」
「んー?」
「何か僕にねだっておきたいことはないか?」
「ねだっておきたいこと?」

彼女は顔を上げて小首を傾げた。上目遣いがあざとい。実にあざとい。

「そう。例えばこれを買って欲しいとか、もっとこうして欲しいとか」

きっとこんな時でなければ、彼女は我儘を言わないだろう。今回の事件だって、かなり無理をさせた自覚はあるのだ。お金を払っておしまい、だなんていうつもりは毛頭ない。

彼女は少し考えて、僕の手に自分の指を絡ませた。いわゆる恋人繋ぎである。

「手だけでいいの。……写真、撮ってもいい?」

ささやかすぎるその願いに、僕は無言で頷いた。彼女はスマホを繋いだ手に向けて、大事な瞬間を収めるようにシャッターボタンをタップした。

「……これだけでいいのか」

一緒に写真に写ることなど出来ないのに、僕はそんなことを口走っていた。彼女があまりにも無欲すぎて、逆に心配になってくる。
しかし彼女は心底幸せそうに笑った。私にはこれくらいがいいの、と囁いて。

忘れないで、と前置いて、彼女は繋いだ手を持ち上げた。

「どれだけ距離が離れていても、あなたの手は私に繋がれてる。だから挫けそうになった時は、あなたの手を見て」

僕は日本で、彼女はドイツで。どれだけ物理的な距離があろうとも、時差があろうとも、彼女はどこにいても僕を支えている。
その決意に、僕はうっかり涙が出そうになった。誤魔化すためにその体を胸元に抱き寄せる。

「あんまり嬉しいことを言うな、馬鹿」
「あら?もしかして感動して泣いちゃった?」
「うるさい。―――言質は取ったからな」

僕は二度と君の手を離すつもりはないし、君が離そうとしたら地の果てでも追いかけてやる。
僕の宣言を黙って聴いていたさくらは、体を離して僕の瞳を覗き込んできた。

「ええ。私の身も心も、命さえもあなたのものよ」

だから不安になるなと、彼女は僕の額に自分の額をこつんと当てた。

「私はあなたから離れない。あなたを決して置いて行かないって約束するわ。怖くなったら何度でも訊いて。お前は俺のものなのかって」
「……君には、本当に敵わないな」

僕がこんなに弱気な顔を見せても、嫌がるどころか丸ごと受け止めてくれる。そんな絶対的な存在が、僕はずっと喉から手が出るほど欲しかった。
大切な存在など作らない方がいいと、ずっと自分を律してきた。けれどいざ自分の命より大事な人間が現れてしまえば、かつての不安がただの杞憂だったことを知った。
彼女と言う存在を得て、僕はより一層強くいられるような気がした。

この愛しい存在を、決して喪うことがないように。その笑顔を涙で曇らせることがないようにと、僕は決意を新たに彼女を抱き寄せる腕に力を込めた。

予約していたタクシーがやってくるまで、僕達は無言で寄り添っていた。沈黙がこれほど優しいものだと知ったのは、この夜が初めてのことだった。

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