Sweet and sweetheart





海外では、バレンタインに男性から女性に物を贈るという。だから正直、僕は彼女からバレンタインの贈り物を貰えるなんて全く期待していなかった。

そのため、ポアロの勤務を終えて、梓さんから“預かりものです”と言って渡されたそれを見て、僕は最初お店の常連さんがくれたチョコレートなのかと思ったのだ。だったら丁重に断ろうと思っていた僕を遮り、梓さんはチッチッと指を左右に動かした。

「違いますよ、さくらからです。安室さんのお家に送っても気付かれないかも知れないから、私から渡してくれって頼まれたんです」

その言葉に僕は目を瞬かせた。僕は自分名義で借りている部屋の他に、安室透名義で借りている部屋や適当なセーフハウスがいくつかある。そしてそのどれも、さくらに教えたことはない。
訊かれても答えられないことは彼女だって解っている。だからこうして、確実に渡してくれるだろう梓さんを仲介人に選んだのだ。

「ありがとうございます。そういう事なら、喜んでいただきます」

無意識に表情が緩んでいたのだろう。梓さんの口元がにやにやと悪戯っぽいものに変わる。

「いいですねえ、さくらからのチョコを貰えるなんて。高校時代はそれこそ争奪戦だったんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。あの子、あんな見た目だし、けっこう男子から人気あったんです」
「……おや。あんまり愉快な話ではなくなってきましたねえ」

過去のことにまで嫉妬をするつもりはない。だが、自分の大事な人が知らないところで男に大人気だったと聴いて、平常心でいられるほど僕も人間が出来ていなかった。

僕は手渡されたチョコレートの紙袋を覗き込んだ。真っ赤なハートの形をした箱に、小さなメッセージカードが添えられている。

Mein Liebchen.
英語で言うならMy sweetheart―――実に率直な愛情表現だ。

それでも、僕はがくりと肩から力を抜いた。嬉しい気持ちは勿論あるが、それ以上に突っ込み所が満載だった。
家に帰ったら、絶対文句を言ってやる。そう決めて、僕は梓さんに背を向けてポアロを後にした。



彼女のくれたチョコレートは海外のメーカーらしく、包装は簡単なものだけだった。缶の周りに貼られたシールを剥がせば、難なく蓋が外せた。中からは赤いアルミホイルに包まれたチョコレートや、小ぶりなサイズのクッキーが顔をのぞかせた。その一つを指でつまみ、迷いなく咀嚼する。濃厚だけど癖になる味わいが、舌の上に広がった。

そして添えられたメッセージカードを睨み付け、僕はスマホをタップした。ドイツと日本の時差は7時間程度だから、この時間なら昼休憩だろうと踏んだのだ。
彼女は2コール目で着信に出た。即座にビデオ通話に切り替える。もう数か月も会えていない、愛しい女の子の顔が画面に表示された。

「ハイ、本田です」
「さくら、僕だ。今話せるか?」
「ええ。梓から受け取ってくれたのね?」

ふふふ、と悪戯が成功した子供のように笑う彼女に、僕はやっぱり確信犯だったかと頭を抱えた。

「早速賞味してるよ、ありがとう。割と濃厚な味なんだな」
「あなた、コーヒーも濃い目が好きでしょう。チョコレートもそうかと思ったんだけど」
「ああ、おいしいよ。味は文句なしにおいしい。―――ところで」

僕はわざと低い声を出した。それでも彼女は怯まない。

「ん?」
「あのメッセージカードはどういう意味だ?」
「何か気になることでも?」
「Mein Liebchenと書かれていた」
「ええ。率直な気持ちのつもりだったんだけど」

何か気に障ったかしら、そう言って彼女はくすくす笑った。くそ、可愛い顔をしやがって。

「chenって何だ、ヒェンって」
「やっぱり気付いてくれたのね。さすがはプライベート・アイ」
「はぐらかすな。僕は小さな女の子じゃないぞ」

ドイツ語には男性名詞と女性名詞、そして中性名詞がある。彼女がカードに書いていたLiebchenとはLiebhaber(恋人)の語尾を変形させたもので、-chenとは中性名詞の“小さな、親愛”を意味することもあるが、“〜ちゃん”というような、幼い女の子に付ける愛称を指すこともある。

つまり、あのメッセージをそのまま訳すならば“私のかわい子ちゃん”といった意味合いになる。間違っても、成人済みの筋肉質な男に贈る言葉ではない。

「あら、私にとってはあなたは可愛い可愛いLiebchenよ?」
「うるさい。可愛いと言われても嬉しくない」
「ムキになる所がますます可愛いわ」

ああ、許されるなら今すぐ彼女の口を塞いでやりたい。そして体に思い知らせてやりたいと思った。あんまり僕を挑発すると、辛いのはお前の方だぞ、と。
僕が不穏な考えに頭を支配されていると、彼女はとんとん、と画面を指でつついた。

「零さん、怖い顔をしないで。……そんなに怒った?」

さすがに笑いすぎたと思ったのか、彼女は顎を引いて両手を胸の前で絡ませた。普段は弱気な顔など見せないというのに、今は本当に困った、と言いたげに眉をハの字に提げている。

……降参だ。こんな顔を見せられてむっつり怒っていられるほど、僕だって鬼じゃない。ただし非常に面白くなかったことは事実なので、多少反撃しても許されるだろう。

「怒ってない。ただ、僕を可愛いと言う君の方こそ、僕の何倍も可愛い」
「え」
「自分の愛情表現は素直なのに、攻められるとすぐに赤くなるところも可愛い」
「……あの、零さん」
「照れたら涙目になる所も、耳まで真っ赤になる所も可愛い」
「……もう!恥ずかしいから、その辺でやめて……」

羞恥心に耐え切れなくなったのか、彼女は両手で顔を覆ってしまった。その仕草さえ愛おしくて、僕はこみ上げる笑いを誤魔化すことが出来なかった。

何故彼女が僕を揶揄うような言葉を選んだのか、僕は本当は大方の見当がついていた。
彼女は僕との関係に名前を付けたがらない。その理由は何となく理解できたから、僕からも敢えてそこに踏み込むことをしなかった。

面と向かって恋人とは呼べない。だからわざと語尾を変えて、直接的ではないにしろ“愛しい人”という言葉を僕に伝えたかったのだ。

「さくら。僕も君を愛している。この世界の誰よりも」
「……素直じゃない女だって、思ってるでしょう」
「いいや?僕は君の、謎かけのような愛情表現が割と好きだ」

素直じゃないと見せかけて、その実どこまでも素直な彼女のことを、益々愛しいと思うだけだ。
彼女は頬をバラ色に染めて、恨めしそうに僕を見上げた。

「やっぱり、あなたの前ではいつもの私じゃいられない……」
「ああ、君の強気な仮面を剥ぎ取る瞬間が楽しくて仕方ないよ」
「悪趣味ね。覚えててよ、いつか絶対あなたの余裕もなくしてあげるんだから!」

どうやら彼女にとっては、僕はいつでも余裕綽々の意地悪な男に見えるらしい。それは大いに間違っているのだが、一体何をしてくれるのか楽しみでもあったので、ここでは否定せずにおいた。

「ああ、楽しみにしてる。……だから早く、帰ってこい」

直に顔を見て、直にその声を聴いて。君のその体を抱き締めたい。そんな思いと共に告げれば、彼女はいいことを思い出した、と言いたげにぱっと顔を明るくした。

「あ、そうそう、4月末から長期休暇が取れそうなの!」
「へえ?」
「その間は日本に帰国するつもりだから、もし時間が合いそうなら……」
「必ず時間を作る。だから会おう」

僕は間髪入れずにそう提案していた。彼女が帰って来るというのに、会わないという選択肢などなかった。
ちょうどその頃には、東京で国際サミットが開催される。彼女が帰って来るのはその直前だ。ゆっくり会うことは難しくても、ディナーくらいは一緒に行けるだろう。

年甲斐もなく胸が弾んだ。早く春になればいいのにね、と言って彼女ははにかんだ。
通話を終えたスマホを見つめ、僕はふと唇に笑みを刷いた。

早く帰ってこい、僕の最愛―――Mein Liebchen。
バレンタインが過ぎて立春が近付き、桜の蕾が大きくなり始めたら、春はもうすぐそこだ。

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