09.5





「ねえさくら、私、あれが食べたいわ!」

ナターリヤが唐突にそう切り出したのは、水族館巡りで散々歩き回り、やや脚に疲れを覚え始めた頃のことである。彼女の指差す方向に揃って視線を向ければ、そこにあったのはたい焼きの屋台だった。和菓子を見るとテンションが上がるのは、外国から来た観光客にとっては不変の真理らしい。

「ええー、ナターシャお前、ついこの間ダイエットしなきゃ!って言ったばかりじゃないか。いいのか?甘いものなんて食べて」
「そうだよ、今のままじゃ夏に水着が着られないって言って、大騒ぎしたのはどこの誰だ?」

エドゥアルドとルカスが口々に窘めると、ナターリヤは唇を尖らせた。

「旅先に来てまで、そんなにケチケチしたこと言わないでよ。それに、疲れた体には糖分が必要よ」

そうでしょ、さくら。と、ナターリヤは僕の隣の彼女を振り返って言った。
さくらは小さく頷き、ナターリヤに追従した。

「その通りよ。それに普段節制している人は、偶にはジャンクフードを食べなきゃ、却って太りやすいんですって」
「へえ、そうなのかい?」
「初耳だな。体のいい言い訳じゃないのか?」

首を傾げる男性陣に向けて、僕も一言補足を入れた。

「僕も聴いたことがありますよ。確か、あまりにも糖質を摂らないで生活していると、脳が勘違いするんですよね。普段の食事で摂取する栄養素も、全て脂肪に変えて蓄えないといけない、と思ってしまうんだとか」

飢餓ホルモンと呼ばれるそれは、生物が過酷な状況下でも生存できるように進化した、自然の知恵なのだ。だから糖質制限ダイエットをする人は、週に1回のデザートデイを設けておくといいと言われている。

「へえ、そうなんだ。安室さんは博識なんだな!」
「さすがは、さくらが惚れた男だな」
「わ、私のことは今はいいでしょう。兎に角そういう説もあるくらいだから、1つくらい甘いものを食べたって平気よ、って言いたかったの」
「それを聴いて安心したわ。それじゃさくら、一緒に買いに行きましょう!」

さくらからのお墨付きをもらったナターリヤは、今にも駈け出そうとしていた。それをやんわりと止め、エドゥアルドがさっとポケットから財布を取り出す。

「僕が買ってくるよ。さくら、どの種類がいいんだ?」
「え、あ、ありがとう。それなら、私は抹茶餡のがいいな」
「私はつぶ餡ね!」
「解った解った、ナターシャはマスタード入りにしてもらうよ」
「ちょっと、扱いの差が酷すぎるわよ!」

ナターリヤは憤慨しながら、財布を持ったエドゥアルドと荷物持ちのルカスの後に着いて行ってしまった。畢竟、僕とさくらが2人で残された形となる。

「安室さん、あそこのベンチで座って待ちましょうか」
「そうですね。段差があるので、足元に気を付けて」

僕が自然と手を差し出すと、さくらははにかみながらそこにそっと手を添えた。
目的のベンチの目の前までやって来た時、彼女はある1点に目をやって足を止めた。

「どうしました?さくらさん」
「あ、いえ。あそこに射的があったから、つい」
「射的?」

見れば、彼女の言う通り射的の屋台が立っていた。恐らく景品の目玉なのだろう、大きなイルカのぬいぐるみが店頭に飾られている。イルカはこの水族館のメインキャラクターだから、同じような景品をそこかしこで見つけることが出来た。

「やってみますか?」
「いいんですか?」
「ええ。1ゲーム終えたら、きっと彼らも戻ってくる頃でしょう」

念のためにさくらから彼らに連絡を入れてもらい、僕達はイルカのぬいぐるみが目印の屋台へと足を向けた。

おもちゃの銃を受け取って、さくらは嬉々としてコルクを籠めた。腰を落とし、冷静に的を絞っていく。しかし彼女は銃に関しては素人である。その構えはあまりにもお粗末で、案の定的は1つも落ちなかった。残り1発という時になって、僕はとうとう口を出した。

「脇が甘い。しっかりと脇を締めて、銃身を支えてください」
「え?こ、こうですか?」
「そうです。そうしたら、柄の部分を頬にぴったりと寄せて……」

言いつつ彼女の両手に自分の手を重ねる。自然と体が密着し、さくらの体が緊張するのが解った。薄手のカーディガン越しに、早くなった鼓動が僕の胸に伝わってくる。
ふと視線を落としてみると、彼女の形のいい耳が目の前にあった。ちょっとした悪戯心が芽生えて、僕はわざとらしくそこに向かって息を吹きかけるように囁いた。

「力学的に考えてみてください。力のモーメントを利用して的を落とすには、どこに当てるのが最適なのか」
「っ、え、っと」
「あの的は箱型ですから、真ん中を狙っても簡単には落ちません。では、どこを狙えばいいでしょう?」
「―――ぁ、の、ちょっと離れて……」
「どうしてですか?僕が手を離したら、銃身がぶれてしまいますよ」
「解った、解りましたから、ちょっと黙ってください……!」

そこまで懇願されては仕方ない。僕は彼女の言葉通り、少しの間口を噤んだ。彼女は漸く集中して計算できるようになった、と安堵の溜息を漏らす。

「えっと、つまり回転を掛ければいいんですよね?ということは、右上らへんを狙うといいんでしょうか」
「正解です。それじゃ、もっと目線を落として」

たかがイルカのぬいぐるみのために、ここまで真面目に角度や力学の計算をする大人も珍しい。屋台の店主はそう言いたげにこちらをじっと見据えていたが、彼女の顔は真剣そのものだった。

引き金を引く。空気圧に圧されたコルクは、まっすぐに的へ向かって飛んで行った。
やがて、ポコン、と気の抜けたような音と共に、狙った的がぐらりと傾いだ。息を呑んで見守る彼女の祈りが通じたのか、直方体の的は棚の向こう側へとその姿を消した。

「やった……!」
「ナイスショットでしたよ、さくらさん」
「安室さんのお蔭です!ありがとうございます!」

彼女は銃を構えたまま、肩越しにこちらを振り返った。密着していた顔がより近くなって、至近距離で視線が絡まる。
鼻先が触れ合いそうな位置で、僕達は束の間見つめ合った。けれどそれも一瞬のことで、僕はおもむろに体を起こし、彼女から距離を取る。

それを見て、店主はさくらに景品のイルカを差し出した。

「ほらよ、景品のぬいぐるみだ。お嬢ちゃん、最後まで諦めずによくがんばったな!」
「ありがとうございます!安室さんも、本当にありがとう」

さくらは両手でぬいぐるみを抱き締めて、ほくほくと笑った。普段の大人びた雰囲気とのギャップに、僕は少々くすぐったいような気持ちになる。

「さくらさんも、ぬいぐるみなんて欲しがるんですね」
「ぬいぐるみが欲しかったと言うか……、これ、安室さんの瞳の色と似てるでしょう」

意外な言葉が返って来て、僕は思わず足を止めた。

「店頭に飾られていた子たちの中で、この色をしていたのはこの子だけだったんです。だから、どうしても欲しくって」

さくらはそう言って、ぬいぐるみの背に顔を埋めた。その耳は真っ赤に染まっている。可愛いことを言うその顔が見られないのが惜しくて、僕は彼女の腕からイルカを取り上げようとした。

「ちょっと、もう、安室さん―――」
「しっ。……黙って」

彼女が無防備に顔を上げた瞬間、掠めるように唇を奪う。イルカの影に隠れていたから、見咎める人間は誰もいなかった。

「…………っ」
「ふっ。茹蛸のようですね、さくらさん」
「こ、こんな所で、何を……!」
「大丈夫ですよ、誰も僕らのことなんて見てませんでしたから」
「そんなの解らないじゃないですか。誰がどこで聞き耳を立てているか……」

彼女が何をそんなに危惧しているのか、僕だって勿論解っている。だが、僕には絶対的な自信があった。今このシーンを組織の人間が見ていたということは、絶対にあり得ない。
そうとは知らない彼女は、僕の背中をぽかぽかと叩いた。笑ってそれを受け流していると、ぱたぱたと軽快な足音が3つ、こちらに近寄ってきた。

「お待たせ、さくら、安室さん!」

足音と共に姿を見せたのは、両手にたい焼きを掲げた外国人3人だった。
それと同時に、射るような鋭い視線が僕と彼女に突き刺さった。

あまりに解りやすすぎる気配に、僕はこっそり嗤ってしまった。さくらの友人3人のうち誰に化けているのかは知らないが、ベルモットは間違いなくこの中にいる。

「さくらは、抹茶の餡だったわよね」
「ありがとう、ナターシャ。エディもルカスも、ご馳走になります」
「すみません、お任せしてしまって。僕にもいただけるんですか?」
「勿論よ。安室さんは何となく、髪の色からカスタードのたい焼きにしちゃったけど、これでよかったかしら?」
「ええ、ありがとうございます」

それぞれ大きなたい焼きを受け取り、もちもちした食感の生地に歯を立てる。ざらついた感情と共に食い破ってやろうと力を込めると、口の中にまろやかなカスタードの甘みが広がった。

こんな息が詰まるデートはもうこりごりだ。さっさとベルモットに手を引かせて、彼女の安全だけでも確保しなければ。
より一層強くなった決意を胸に、上っ面だけの笑顔を浮かべながら、僕は甘いたい焼きを咀嚼した。

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