13
妃法律事務所の事務員の栗山緑さんが、昨日の夜、俺が工藤新一の名前を使って依頼した橘鏡子に関する調査結果を持ってきたのは、IoTテロが終息した後だった。
「栗山さん!ごめんね、折角のバカンスだったのに」
「いいえ。先生の一大事に、事務員の私が遊んでる訳にはいきませんから!」
彼女はそう言って力強く笑った。肩から掛けていた鞄から、数枚の紙を取り出す。
「えーっと、こちらが橘鏡子弁護士についての調査結果です」
「え?」
「あれ?工藤新一君から頼まれたんですが……」
不思議そうな顔をする英理おばさんに、緑さんこそ怪訝そうな顔を向けた。俺は素知らぬ顔をして、へえー、とすっ惚ける。
「新一兄ちゃん、そんなこと頼んでたんだぁ。兎に角見てみない?」
俺の言葉で、全員が緑さんの資料を囲んでソファに腰を下ろす。
それによれば、境子先生は去年まではフリーだったわけではなく、事務所を持って活動していたこと、勤めていた羽場二三一という事務員がゲーム会社のアクセスデータを盗み出すという事件を起こしたことがきっかけで、事務所を畳まざるをえなかったことが判明した。
その羽場二三一という男が拘置所内で自殺したという話を聴いて、俺は何か引っかかるものを感じた。
(こんな話、ついさっきも聴いたような気がする……)
しかし俺がそれをはっきりと思い出す前に、白鳥警部がやって来て小五郎のおっちゃんが不起訴になったと伝えてきた。
何でもIoTテロが起きた後の捜査会議で、おっちゃんのパソコンはNorを使ってアクセスの中継点にされただけだという証拠が見つかったらしい。そして今日のIoTテロにも同じ手口が使われていたが、その発信源はスマホを使って公共のWi-fiからアクセスされており、拘置所にいたおっちゃんにはテロを起こすことが出来ないと判断されたのだ。
これで漸く、おっちゃんの無実が確定した。
「……っ、よかったぁ、お母さん!」
蘭は安堵からぼろぼろと涙を零し、英理おばさんと抱き合った。俺も漸く肩の力を抜き、蘭に微笑みかける。
「よかったね、蘭姉ちゃん!」
「うん、ありがとうコナン君。あっ、新一や園子にも教えなくっちゃ!」
蘭は弾んだ足取りで事務所を出た。恐らくこのあと掛かってくるであろう着信に備え、俺も部屋を出ようとする。
しかし、緑さんと白鳥警部の会話が気になって俺はそのまま足を止めた。
「ところでこれ、どうしましょう。羽場二三一を検察官が取り調べた調書なんですけど……」
「あれ?この人、スマホの発火で火傷した、岩井検事?」
岩井検事というのは日下部検事の上司にあたる人物である。この人とおっちゃんの起訴に直接的な関わりはなかったが、ついさっき発生したIoTテロによってスマホが発火し、軽い火傷を負ったのだという。
「去年は主任検事だったのね」
「ええ。でも今は統括検事で、同期だった日下部検事の上司ですよ」
つまり日下部検事は、この岩井検事との出世争いに敗れた形になる。負け知らずの敏腕検事でも出世争いに敗れることがあるんだな、と俺が考え込んでいると、そこへ新たに乱入する声があった。
「そうです。岩井検事は妙なことに、羽場二三一の窃盗事件がきっかけで出世したんです」
剣のある声で事務所に入ってきたのは橘鏡子だった。緑さんの持ってきた彼女に関する資料をちらりと見て、これは?と訝し気な顔をする。
「何故私や、私の元事務員のことをお調べになっているんですか!」
痛くもない腹を探られる、どころか十分痛い腹を無遠慮に探られて、境子先生は吊り上がり気味の目尻を更に吊り上げた。咄嗟に英理おばさんが、先生のことをよく知っておきたくて、私が栗山さんにお願いしたの、と嘘を吐いてくれたものの、境子先生は眉間の皺を消さなかった。
「……よく調べてある。あなたも優秀な事務員のようね」
あなたも、と言って向けた視線の先にいたのは緑さんだ。俺はその言葉に素朴な疑問を抱き、そのまま口にした。
「あなた“も”?まるで羽場さんもそうだったって言ってるみたいだけど、その人は窃盗事件を起こして、境子先生の事務所を潰した悪い事務員さんだよね?」
しかし、俺の発言を受けた境子先生はくわっと目を剥いた。
「っ、あれは二三一のせいじゃない!!」
「!」
「私が、無力だったから……」
だから彼は死んでしまったのだ、と続くのか、だから彼は犯行に走ったのだ、と続くのか。俺にはそこまで解らなかったが、一つ気になったことがあった。
「下の名前で呼ぶんだね。自分の事務所で働いていた事務員さんを、二三一って」
もしかして、2人は特別な関係だったのだろうか。安室さんとさくらさんのように。
境子先生は肩で息をしながら、緑さんの資料をぐしゃりと握りしめた。
「……彼が拘置所で自殺したことは、ご存知ですか」
「え?ええ」
戸惑い気味におばさんが肯定するのを見て、境子先生は苦し気に続けた。
「その自殺は、拘置所の中で公安警察に取り調べされた後、すぐのことだったんです……」
俺はそれを聴いて、さっき引っ掛かったことを今度ははっきりと思い出した。
―――安室という男は……人殺しだ。
―――去年、拘置所で取り調べ相手を自殺に追い込んだ。
まさか、風見刑事の言っていた安室さんが死なせてしまった相手というのは、この羽場二三一のことなんじゃないだろうか。
「……何故、羽場さんを事務員にしたの?」
俺の問い掛けに、境子先生は感情の読めない目を俺に向けた。暮れ泥む夕日が先生の顔に陰影を作り、アンニュイな雰囲気を際立たせる。
「人にはね、表と裏があるの。君が見ているのは、その一面に過ぎない」
俺はその瞳を見つめながら、おっちゃんが逮捕された翌日にさくらさんに詰め寄った時のことを思い出していた。彼女もまた、似たようなことを俺に言っていなかったか。
―――大人っていうのはね、質問に対して答えないものなの。もしも答えてくれる人がいたなら、それは答える側にとって都合が悪くない部分だからそうしているだけなのよ。
―――そんなものを信用するっていうのは、つまり乗せられていることと一緒なの。
確かにその通りだ。大人は俺の質問に対して何も答えちゃくれない。
だからこそ、俺は自分の目で真実を確かめないと気が済まないんだ。
小五郎のおっちゃんが不起訴になったのなら、自分はもう用済みだから出て行くと言って、境子先生は事務所を後にした。それに続こうと、白鳥警部も別れの挨拶をする。
「じゃ、私もそろそろ。捜査が残ってますので」
「犯人のNorを調べるんだね?」
「そうだよ、コナン君。NAZUに捜査協力を依頼してたんだけど、どうやら彼らもお手上げのようでね。公安警察の方で、Norのアクセス元を調べてもらってるんだ」
「えっ、NAZUが!?」
NAZUに捜査協力を依頼したのは今朝盗聴していた捜査会議で聴いていたが、NAZUでもお手上げ状態とはどういうことだ。俺が食い気味に質問すると、白鳥警部は去年あったNAZU不正アクセス事件の話を持ち出した。境子先生が弁護して、日下部検事が担当した事件である。
「それがきっかけで、Norユーザーを追跡するシステムがNAZUで完成してたんだけど、どうやら今回のIoTテロで使われたNorはバグが混ざっていたようでね。NAZUのシステムが対応しきれないらしいんだ。そこで急遽、公安警察のツテで、海外の研究者が解析中だって聴いたよ」
それは間違いなく、安室さんの協力者のさくらさんのことだ。
NAZUでさえ追跡できないアクセス記録を、あの人なら特定できると安室さんは信じているのだ。
「まあそもそも、今日NAZUの協力を仰ぐのは間違いだったと言わざるを得ないけどね。NAZUは今日、はくちょうを着水させるミッションに追われてますからね」
そう言えば、あの無人探査機が地球に帰還するのも今日だった。そんな日と東京サミットが重なって警視庁も大わらわだ、と言い残し、白鳥警部は事務所を出て行った。
その背を何気なく目で追って、―――そこで全ての糸が繋がった。
国際会議場が爆発された日、会場を点検していたのが警視庁の公安部だったこと。
警視庁と検察庁の公安部の力関係。
風見刑事の盗聴器から、境子先生の着メロが聞こえてきた事実。
公安警察の取り調べを受けた直後、拘置所内で自殺した羽場二三一。
日下部検事のスマホのロック解除コードの5桁の数字。
NAZU不正アクセス事件と、それに追随するゲーム会社のアクセスデータ窃盗事件。
IoTを使ったテロ。発火物となったIoT圧力ポット。博士のドローンで撮影した、8千枚を超す画像。
それらを解析し、爆発物の特定に尽力したさくらさん。
安室さんとさくらさんは、公安警察と協力者の関係にある。
(そんな……、まさか……!)
境子先生によってぐしゃぐしゃにされた資料を束ねる緑さんに、俺は慌てて声を掛けた。
「緑さん、NAZU不正アクセス事件の詳しい資料を、すぐスマホに送って!」
「えっ?」
「って、新一兄ちゃんが言ってた!!」
多少強引だったかも知れないが、今は細かいことに構ってはいられない。俺はすぐにスケボーを引っ掴み、事務所を飛び出した。これから小五郎のおっちゃんを迎えに警視庁に行く、という蘭の言葉も、右から左にスルーした。
俺の推測が正しければ、安室さんは俺の元へ来るはずだ。さくらさんから得た、犯人を特定するのに十分な情報を持って。
そんな期待を裏付けるように、スケボーを走らせる俺の背後から、マツダのロータリーエンジン音が近付いてきた。
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