07





小五郎のおっちゃんの担当をする検事が東京地検の公安部、日下部誠に決定したと白鳥警部に知らされたのは、その日の夕方のことである。
その名前に反応を見せたのは、橘境子だけではなかった。英理おばさんも厄介な相手が出てきた、と言いたげに頭を抱えた。

「公安事件の弁護をすることが少ない私でも、名前は知ってる」
「そんなに凄い検事さんなの?」
「妃先生と同じで、負け知らずの敏腕検事。……私とは真逆ね」

境子先生はそう言って肩を竦めた。あまり朗報とは言えない情報に、蘭の顔に不安の色が広がる。
俺は境子先生が担当したといういくつかの事件の調書に目を通し、声を上げた。

「あ。僕、この事件知ってるよ。NAZU不正アクセス事件!」
「えっ、NAZUって……、アメリカで宇宙開発してるあの有名な?」

蘭が首を傾げると、境子先生も思い出したのか、ああ、と相槌を打った。

「去年、ゲーム会社の社員が遊びでアクセスしたって事件。この時の検事も日下部さんだったんです」
「……。その裁判も……?」
「勿論、負けてます」

境子先生は苦笑を浮かべた。おいおい、こっちはあんたにしか頼れない状況なのに、堂々と負け宣言をされても困るんだが。
しかし、と俺はその表紙を睨みながら、気怠げな微笑みを思い出していた。

(NAZU不正アクセス事件……。なんつーか、こういうのもさくらさんの手に掛かれば、発覚することなく済んじまうんだろうな)

おっちゃんや蘭とは親しくしていながら、その相手を貶めようとしている人物。だが俺の依頼した爆発物の特定にも尽力してくれたという、謎の行動を取る人物。
安室さんといいさくらさんといい、表の行動だけを見ていたら何がしたいのかさっぱり解らない。

くそ、と俺は自分の頭をガシガシ掻いた。
今はあの2人のことよりも、その敏腕検事相手にどこまで戦えるかを考える方が先決だ。

だが、親の仇のように睨み付けたその相手が、今まさに上司に向かって“毛利小五郎は誰かに罪を擦り付けられたのではないか”と訴えている最中だとは、さすがに予想出来なかった。



日下部検事はおっちゃんを起訴することに消極的なのではないか、ということに気付いたのは、翌日になってからのことだった。

「追加の捜査を求められた?」

英理おばさんは意外だ、という気持ちを隠さずに訊き返した。対する白鳥警部は、こちらも腑に落ちないという表情でもう一度同じ発言を繰り返す。

「はい。日下部検事に、毛利さんを犯人とするには証拠が不確かなのではないか、と言われまして」
「じゃあ、その捜査でお父さんが不起訴になるってことは……?」

蘭が期待を込めて尋ねるが、それには白鳥警部も首を振った。

「いえ、追加捜査は日下部検事の一存で、公安警察は起訴を決めたようです」

警察が被疑者を逮捕してから48時間以内に検察に身柄を送致しなければならないように、検察も送検から24時間以内に被疑者を起訴するか否かを決めなければならない。しかし白鳥警部は、起訴を決めたのは公安“警察”だと言った。それを聴いて英理おばさんは強く反駁した。

「ちょっと、なんで警察が起訴に口出すの?警察は検察に監督される立場のはず。何より起訴は、検察官の独占的権限で―――」

そこまで言って、おばさんは何かを思い出したように口を噤んだ。後を引き取ったのは境子先生である。

「ええ、おっしゃる通りです。ただそれは、検察の民事部や刑事部、それに特捜部の場合です。公安部については少し事情が異なるのは、先生もご承知のはず」

次々にややこしい単語が出てきて、俺も蘭も理解が追い付かなかった。ぽかんとしている俺達を見かねて、境子先生は解説をしてくれた。

「一口に公安部と言ってもね、警視庁、警察庁、検察庁にはそれぞれの公安部があるの」

境子先生は組織図を空中に描くように丸を3つ指で描いた。

「まず、警察は捜査した結果を検察に送るけど、検察はそれを受けて、改めて事件を調べるのね。民事部や刑事部の場合、容疑者を起訴するかどうかは、この検察の調べを踏まえて検察官が判断するのが普通です」

そこまでは俺も知っている。小さく頷くと、先生は更に続けた。

「でも、検察の公安部だけは違う。はっきり言って、検察の公安は警察の公安に歯が立たないんです。捜査員の人数やノウハウに雲泥の差がありますからね」

だから起訴にも、公安的配慮が働く時がある。そう言って境子先生は窓ガラスに指を滑らせた。

「特にサミット会場の爆破なんて、公安警察の顔に泥を塗ったも同じ。その犯人を必ず起訴しろという圧力が、容易に想像できます」
「それじゃあ、お父さんは……」

さっきは不起訴になるかも知れない、と喜んでいた蘭は、現実を理解して戸惑いの声を漏らした。境子先生は蘭を振り返り、きっぱりと言い切った。

「ええ、きっと起訴されます」
「そんな……」

落胆する蘭を視界の端で捉えながら、俺は境子先生をじっと観察した。
この弁護士のこの口振りはまるで、起訴を望んでいるみたいだ。

*****

久しぶりにゆっくり睡眠を取り、随分すっきりした気分で目を開けたとき、目の前には瞼を下ろした零さんの端正な顔があった。

「―――」

咄嗟に出かかった声を飲み込んだ。まさかまだ、彼がこの部屋に居るとは思わなかったのだ。私が眠ったのを確認したら、すぐにでも捜査に戻るものと思い込んでいた。もしかしたら実際に、一度外に出てからこの部屋に戻ってきたのかも知れないけれど。

(私、どれくらい寝てたんだろ……。ひょっとして、まだ29日のままなのかな)

ふと窓の外に目を向ければ、すっかり明るくなっていた。少なくとも深夜や早朝ということはないだろう。
こんな時間に傍に居てくれたことが嬉しくて、私はなるべく身動ぎしないように彼の顔を見つめた。

伏せられた瞼を縁取る、髪と同じ色の睫毛がとても美しい。
この人の青灰色の瞳が私を映す瞬間、心の緊張を緩めるように黒目がちになるのが好きだ。
こうして目が醒めた時、彼が私の隣で目を閉じていてくれることで、私がどれだけ安心したのかなんて、きっと彼には解るまい。

私は吐息だけで笑って、ゆっくりと体を起こした。時計を確認すると、今は30日の午前9時であると表示されていた。
依頼されていた調べ物は全て終わったことだし、今日はポアロに顔を出してみようか。私がそんなことを考えていると、背後から衣擦れの音がして、体が心地いい温度に包まれた。

「さくら」
「……零さん。ありがとう、またここに戻ってきてくれて」

首筋に彼の髪がさらさらと打ち掛かって、くすぐったさに私は身を捩った。彼はそれを許さずに、ますます拘束する腕に力を込める。

「何のことか解らないな。僕は言ったはずだ、一緒に仮眠を取ろうって」
「ふふ。それなら、そういうことにしておくわ」

今日はこれからどうするの、と尋ねると、彼は一瞬で真顔に戻った。

「そうだな、今日は午後からポアロのシフトが入ってるから、その前にコナン君の様子でも見て来ようか」

警視庁で部下に確認したいこともあるし、と言って彼はインカムを指で押さえた。

「風見が送り込んだ協力者は、今の所うまく話を進めている。あとはコナン君がどう動くか、そして毛利小五郎の起訴に当たって誰がどんな動きを見せるか。それが焦点になりそうだ」
「え、ポアロに行くの?それじゃ、私も一緒に行きたいわ」

帰国してからバタバタしてて、梓と店長にお土産を渡せていないこともあるし。私がそう言うと、彼は笑って勿論いいよ、と答えてくれた。

そうと決まれば話は早い。私達は交代で部屋のシャワーを浴びて、並んでホテルを後にした。


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