06





私は重い頭を抱えながら、おぼつかない足取りでホテルへと向かっていた。
眠い。正直に言おう、私は今とても眠かった。

現状を把握するために、まずはここまでの時系列を整理したい。

4月27日、私は休暇を取ってドイツからフィンランドへ、そしてフィンランドから日本へ飛んだ。その間、私は一睡もしなかった。羽田に降り立ったのが28日の朝のことで、そこから時差ボケ解消のための仮眠を取った。零さんからアプリの開発の依頼をされたのは、それからたった1時間後のことである。
アプリを完成させた後、毛利さんのパソコンに細工をし、徹夜で国際会議場にアクセスした履歴を調べ、犯行に使われたソフトウェアを突き止めた。そして今日、29日の朝、零さんに報告を入れたあとで博士の家に赴き、爆発物の特定に協力してきたのである。……我ながら働きすぎて、そろそろ体力の限界だ。

30分程度仮眠を取ろうという目論見も、あの迷惑探偵によって阻止された。寝不足かつ寝起きでテンションが低いところに、正論という名のぶっとい刃を突き立てられたのだ。対応が雑になるのも多少は許して欲しかった。

(面と向かって自分の非を論われることが、こんなに堪えるなんてね……)

大事な女の子のためなら、誰彼かまわず食って掛かる直情さ。自分の信じた推理を裏付けるためなら、相手の都合を斟酌することもしない傲慢さ。
これが、零さんが自分よりも早く真相に辿り着くかも知れないと期待を寄せる相手なのかと、正直に言うなら私は落胆したのだ。だから敢えて挑発し、ガス抜きでもしてもらおうと、私は大人の都合を振りかざした。

多少冷静になってもらわないと、このままでは“使えない”。

結果として、彼が冷静になってくれたのか確認する前に私はあの場を離れたのだけれど、いつかは私の発言の意味を理解してくれたらいいと思った。



漸くホテルに辿り着いたころには、既に日は高く昇っていた。
兎に角寝よう。私の体は今、睡眠を欲している。

こんな真昼間にチェックインする人間は殆どいない。閑散とするロビーを足早に通り抜けようとして、私はそこに見慣れてしまった人間の後頭部を発見した。
薄暗い室内でも明るく映える金の髪。間違いない、零さんだ。

彼は私が立ち止まったことに気付いたのか、ゆっくりと立ち上がってこちらを振り返った。

「お疲れ、さくら。そろそろ来ると思って、待ってたんだ」
「待ってたって、どうして……」
「君のアプリを通じて、コナン君のスマホから君がホテルに帰って寝ると聴いたからな。君が眠るまで、傍に居てもいいか?」

ああ、どうやら彼はコナン君とやりあった私を心配して来てくれたのだと、鈍い頭でも察することが出来た。

「捜査の方は、大丈夫なんですか」
「昨日も言ったが、誰かさんが優秀過ぎるお陰で大分時間に余裕が出来たんだ。あとはもう一人の協力者が動くまで、僕らとしても身動きが取れない状態でね」

だから、今度は君を僕の好きにさせてくれ。そう言って彼は微笑んだ。

「まずは一緒に、仮眠でもどうだ?」
「ふふ……、魅力的なお誘いね」

私は彼の提案に乗ることにした。彼が私の手を引いて部屋までエスコートしてくれるのを、まるでお姫様にでもなったような心地で受け入れた。

並んで横になると、一人用のベッドはさすがに少し窮屈だった。

「狭くない?大丈夫?」
「大丈夫だ。その分、君とくっついていられるしな」

彼が私の頭を撫でてくれるのが心地よくて、私はうっとりと目を細めた。
一緒に仮眠、と言われたが、きっと目が醒めたら彼は隣に居ないのだろう。私が眠ったのを見届けたら、すぐに去って行ってしまうかも知れない。
それでもいい、と思った。彼がこうして、私にひと時の安らぎをくれるために会いに来てくれたことが嬉しかった。

だから、私は彼に縋り付くことが出来なかった。その代わり、意識が落ちる瞬間に、自分でも聴き取れないほどふにゃふにゃした声で、私は彼にこう告げた。

解決したら、いっぱい好きって言わせてくださいね、と。

*****

「降谷さん、理性が飛びそうな状態であることはお察ししますが、同意を得ていない女性に手を出すことは犯罪です」

僕は冷静なギルバートの声に反論出来なかった。彼女が眠りに落ちる直前に落とされた爆弾は、危うく僕の理性を根こそぎ持って行ってしまうところだったのだ。
僕はすやすや眠る彼女の体を抱き寄せて、その首筋に顔を埋めた。

「……今のは反則だろう……」

普段のすまし顔でクールに愛情表現をされるのも好きだが、こんな風に素直に甘えられると心臓に悪い。

「ではあなたに理性を取り戻させる手助けをいたします。さくらが今朝、あなたにお伝えしたソフトウェアの件ですが」
「ああ、Nor―――だったか」

ギルバートが強引に僕の思考を仕事に切り替えようとしているのが解り、僕は一旦彼女の体から身を離した。

昨日インターネットが開通したばかりの国際会議場へのアクセス履歴を特定するのは容易かった。問題はそのアクセスがどこを経由してきたか、ということだったのだが、どのIPアドレスを探っても全く出所が掴めなかったのだ。
そこで僕らは、接続経路を匿名化するソフトウェアが使われているのではないかという結論に至った。さくらに依頼したのは、そこで使われたソフトウェアが何であるかを特定することである。

さくらが徹夜してまで特定してくれたそのソフトウェアは、Norという。

Norとは、TCP/IPにおける接続経路の匿名化を実現するための規格、およびそのリファレンス実装であるソフトウェアの名称であり、P2P技術を利用したSOCKSプロキシとして動作するシステムのことだ。仮想通貨の流出事件で知られるようになった“ダークウェブ”を閲覧できるソフトウェアの1つで、グーグルやヤフーのような普通の検索エンジンでは接続できない特殊なブラウザ、それがNorである。

接続経路を匿名化するものであって通信内容を秘匿するものではないため、接続の中継地点に使われたパソコンには国際会議場のガス栓にアクセスしたという痕跡がはっきりと残るようになっていた。そう、毛利小五郎のパソコンにわざとガス栓へのアクセスログを残したように。毛利小五郎の釈放の際にはこれも言い訳として使えるだろうと、僕はずる賢いことを考えていた。

「あのソフトがどうかしたのか?」
「はい。過去にNorが利用された事件について調べさせてもらったのですが、アメリカのNAZUがこのNorに対する匿名性を解除するシステムを所持しているようです」
「NAZU?あの宇宙開発の?」
「ええ、そうです。去年発生したNAZU不正アクセス事件をご存知ですか?」

ギルバートの言葉に僕は小さく頷いた。去年、日本のゲーム会社の人間がNorを使ってアメリカの宇宙開発局に不正アクセスをし、重大なサイバーテロとして検挙された事件である。

「二度と同じ事態が起こらないように、ということで、LANアナライザを搭載したNorノードを設置して、通信を傍受できるように設定したようです」
「システムの理屈は解らないが、NAZUに捜査協力を申し出れば、今回国際会議場のガス栓にアクセスした人間が解るかも知れないということだな?」
「その通りです。NAZUが関わってくるのであれば、今回の事件で私達が協力できるのはここまでのようですが」

謙遜するようにギルバートは笑ったが、ここまでで十分すぎる働きぶりである。さっそく風見に連絡を入れ、NAZUに対する協力の要請と、この情報を捜査会議で公表するのは毛利小五郎の起訴が決定した後にしてくれと伝えた。
ギルバートは不思議そうに尋ねた。

「今すぐ、毛利小五郎を解放しないのですか?」
「今回の送検と起訴までの流れで、犯人を炙りだせるかも知れない。今毛利小五郎を解放すると、手掛かりがないまま犯人を野放しにすることになる。犯人へのアプローチの手段は多い方がいいだろう?」
「と言うと、あなたが目星をつけている犯人は―――」
「しっ。……動きがあったようだ」

ギルバートの言葉を遮って、僕はインカムを耳に押し付けた。さくらの作ったアプリによって盗聴を仕掛けているコナン君のスマホから、新たな人物が登場したことを知る。

妃法律事務所に現れた橘境子というフリーランスの弁護士は、弁護士会で今回の事件を聴きつけて、毛利小五郎の弁護を買って出たいと言った。

「私がこれまでに扱った事件です」

橘境子はそう言って、紙の束を机の上に置いた。これまでに扱った事件の調書だろう。

「二条院大学過激派事件に、経産省スパイ事件。……公安事件が多いのね」
「っじゃあ、今回の事件にはぴったり……!」
「それで?お姉さんの裁判の勝敗は?」
「え?……ボク、難しい言葉知ってるのね」

橘境子は笑って全部負けている、と答えた。コナン君と蘭さんは不安そうな声を上げたが、他に弁護を引き受けてくれる人間がいないため、どうやらこのまま彼女が毛利小五郎の弁護人として担当することになりそうだ。

(風見は上手くやってくれたようだな)

あとは公安警察の言いなりになる公安検察に働きかけて、毛利小五郎を起訴させるように持って行ければいい。

今の所、僕の仕掛けは順調に進んでいる。そのために多大な力を発揮してくれた彼女を見やり、僕はふっと唇に笑みを刷いた。

安心しきって眠るさくらの頭を撫で、僕はその額にそっと口付けを落とした。


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