15





翌日、気まずい思いを振り払って私はポアロを訪れた。
昨日あったことは犬に噛まれたようなもので、雰囲気に酔っていただけなのだと言い聞かせる。全く動揺しなかった訳ではないけれど、イタリア男の距離感に比べればあんなのは可愛い部類である。

「こんにちは、安室さん」
「ああ、こんにちはさくらさん。よかった、来てくれたんですね」

にこやかに受け答えをする降谷さん、もとい“安室透”は、お店に入った瞬間私に突き刺さる女性客の視線をシャットダウンするように私の前に立った。その手には、大量のサンドイッチが置かれたお皿が握られている。

「ちょうどよかった。これから毛利先生の所へ差し入れに行くんですが、さくらさんも一緒にいかがですか?」

今日ここへ呼んだのは私へのお礼がどうのこうのという話ではなかっただろうか、と思いつつ、毛利さんや蘭ちゃんに会えるのはやぶさかではないので頷いた。コナン君に、哀ちゃんとお友達になれたよ、と報告もしていなかったこともある。

連れ立って毛利探偵事務所へ行くと、扉が開いていた。家人の3人はテレビに夢中になっていて、降谷さんと私が来たことに気付いていない。3人が見ているのはこないだ発生した銀行強盗に関するニュースで、私自身がそれどころではない事件に巻き込まれていたから、殆ど関心を寄せることもなかった。
すると彼は何を思ったか、ノックもせずに入り込み、毛利さんの背後を取った。そのまましれっと会話に紛れ込む。

「しかし、悪いことは出来ませんねえ。強奪した2億円のほとんどは本店から搬入されたばかりの新札で、紙幣の記番号が丸わかりだったんですから」
「ああ、使うに使えない金をつかまされたその強盗犯が捕まるのも、時間の問題……」

そこで毛利さんは、降谷さんが無断で室内に入っていることに気付いたらしい。彼が差し入れを持ってきた、とサンドイッチを差し出すと、流れで部屋の外にいた私にも視線が向いた。

「おお、さくらちゃんじゃねえか!そんなとこに突っ立ってねえで、こっちに来いよ!」
「あは、それじゃお邪魔します。蘭ちゃん、コナン君、こんにちは」

私が誰かさんと違ってきちんとお断りを入れてから入室すると、蘭ちゃんは私の手を掴んでにじり寄って来た。心なしかその目が輝いて見える。

「さくらさん、安室さんと一緒に来られたんですか?」
「え?ええ。ポアロで待ち合わせしてたんだけど、安室さんが毛利さんに差し入れに行くっていうから、ついでに私も会いに来ちゃったの」

迷惑だったかな、と眉を下げると、蘭ちゃんはとんでもない!と首を振った。

「やっぱり安室さんとさくらさん、仲がいいんだなって思っただけです!」
「?……そりゃあ、大事なポアロの後輩だし?」

私と“降谷さん”はそこそこ共に時間を過ごしているけれど、私と“安室さん”は大して仲良く振舞っていた訳ではない。けれど考えてみれば、大畠先輩が捕まるまでは毎日ラインでやり取りしていたし、今日もこうして一緒に探偵事務所を訪ねるようなことをしていれば、一般的に見て“仲がいい”と呼べる部類ではあるのかも知れない。何故そこで蘭ちゃんがこんなに楽しそうなのかは解らないけれど。

私達が後ろでそんな会話をしている間に、降谷さんは毛利さんが依頼人と会う約束をしていることを言い当てた。件の依頼人からメールが届き、待ち合わせ場所をこの事務所からレストラン“コロンボ”に変更することになったらしい。
それなら探偵業の邪魔になってもいけないし、と帰ろうとした私を止めたのは、誰あろう降谷さんだった。

「それなら、僕と彼女も同席して構いませんか?今日のポアロの僕のシフトはお昼までですし」
「え」
「いいけど、同席するならちゃんと授業料払えよ」
「えっ」

私に選択権はないのだろうか。確かに私は今日の午後からフリーだったし、降谷さんもギルバートにその辺のことは確認済みなのだろうけども。そして毛利さんも許可しちゃうんですか。一応秘密保持の原則とかあると思うんだけど。
そんな私の戸惑いは誰にも理解されることなく、降谷さんに言い包められるまま、私はレストランコロンボに連れてこられた。

依頼人が姿を見せないので、お昼ご飯を食べながら待つことにした。どうやら依頼人は先日兄を亡くしていている女性で、兄の遺品のコインロッカーの鍵が出てきたがどこのロッカーの物か解らないため、それを特定して欲しいとのことだった。

それなら話は簡単だ。ギルバートの内蔵カメラに鍵を作った会社名とシリアルナンバーを見せれば、日本中、いや世界中のコインロッカーの鍵穴と照合して、5分と経たず目的のロッカーを突き止めることが出来るだろう。ちなみに今日のギルバートは定位置である私の首に掛かっている。
特に面倒事もなく済みそうだな、と高を括って、私は注文したオムハヤシライスを味わった。

ところがどっこい、である。

「来ないね、依頼した人……」
「うん……」

コナン君の言葉通り、依頼人はいくら待っても来なかった。ひょっとすると事務所で行き違いになっているのではないか、ということで、再び毛利探偵事務所にとんぼ返りする。
しかしそこにも依頼人は来ていなかった。毛利さんとの約束をすっぽかすなんて、その依頼人も中々肝が据わっている。仮にも彼は世間でも名の知れた名探偵だと言うのに。

すると、私達が事務所に戻ってきたタイミングを見ていたかのように、依頼人から毛利さんのケータイにメールが届いた。それも2通。
1件目は“たった今コロンボに着いたから来てくれ”、2件目は“急いでみんなで来て”という内容だった。そこで私は初めて違和感を覚えた。

みんなで来て、と言うことは、私達が一度事務所を空け、大人数でコロンボに向かったことを依頼人が知っているということになる。どこかで私達が移動する所を見ていたのなら、遠慮せずに声を掛けてくればいいのだ。けれど依頼人はそうしなかった。

それは何故か?―――恐らく依頼人の目的は、空っぽになった事務所にこそあったのだ。
そう考えれば、この部屋の落ち着かない空気にも納得がいく。ドアの鍵穴にはピッキングの痕が、毛利さんがこぼしていた煙草の灰は綺麗に拭かれた痕が、そして棚の中には濡れたまましまわれていたカップがあった。
つまりこの依頼人は、わざとコロンボに待ち合わせ場所を変更して事務所を空っぽにさせ、その隙に侵入して何かを仕掛けていくことが目的だったのだ。

しかし降谷さんの推論は違っていた。彼の意見では、依頼人を装ってメールを送ってきた第三者がいるはずだと言う。その第三者が毛利探偵事務所の関係者の振りをして、依頼人をこの事務所で接待したはずだと言った。その第三者は、今もこの事務所のトイレに隠れているとも。

さすがに予想外すぎて固まる私達の前で、トイレの中から音が聞こえた。聞き間違いでなければそれは、拳銃による発砲音である。
慌ててトイレのドアを開けると、自らに向けて拳銃を構えて息絶えている男性と、ガムテープでぐるぐる巻きに拘束されている女性がいた。女性の方は意識もあるし外傷はなさそうだけど、男性の目は明らかに瞳孔が開いている。さすがに直視できなくて、私は咄嗟に目を逸らした。

死んでいる。事務所の中で、人間が。

私はこの時、漸く哀ちゃんの忠告を思い出していた。

―――私達の傍には、しょっちゅう事件を呼び寄せる迷惑な探偵さんが居るのよ。
―――さくらさんも命が惜しければ、あんまり江戸川君に深入りしない方がいいんじゃない?

あの時はただの軽口だと思っていたけれど、それなりに意味のある言葉だったのだ。
こんなことになると知っていれば、タイミングを見て抜けていたものを。
ふらつきそうになったその時、背後から大きな手が私の肩を支えてくれた。振り返らなくても解る。この手は降谷さんだ。

「さくらさん、顔色が悪いですよ。早くこちらに」
「ありがとうございます……」

彼の誘導で事務所のソファに腰を下ろした私の前で、降谷さんは私の手を握った。

「すみません。僕があなたを連れ回したせいで、あなたに辛いものを見せてしまいました」
「…………」
「現場の第一発見者である以上、警察の事情聴取に協力してもらわなければなりません。だからそれまではここに居てもらうことになります。ごめんなさい」
「いいえ、それは解ってます。だから謝らないでください……」
「もしどうしても辛かったら、僕が傍に居ますから。警察の方がここに来るまで、一緒に頑張ってもらえますか?」

口調こそ丁寧だけれど、これは“降谷さん”の本気の声だと解った。きっと彼は本気で私を心配してくれて、本気で力づけてくれている。
だから私も、精一杯強がってみせた。

「はい。解決したら、一杯奢ってくださいね」

私の下手糞な作り笑いを見て、彼は私の頭を撫でてくれた。昨日の触れ方と似ているのに、今は心底安心できる温もりを感じた。

「ええ。約束します」

そう言って彼も笑ってくれたから、私は何とか正気を保っていられた。

この事件を皮切りに、私はコナン君という迷惑探偵の絡む事件に巻き込まれていくことになった。平和なモブ人生を満喫したいというささやかな願いは、ここで潰えたと言っていい。


[ 16/112 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]