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無事にさくらがベルモットの元から離れたのを確認して、僕は耳元のイヤホンから手を離した。ふぅ、と短く息を吐く。

「上出来だったよ、ギルバート」

肩の力を抜きながらそう呼びかけると、左手首の相棒は嬉しそうに返事をした。

「いいえ、さくらを守るのが私の役目ですから。降谷さんこそ、即興でこんな台本を書かれるなんて、脚本家にでも転職されたらいかがですか?」
「引退後の選択肢として考えておくよ」

ギルバートの皮肉なのか称賛なのか解らない言葉に苦笑し、僕は運転席にもたれかかった。

つまり、さっきベルモットとやり合っていたプログラマーの亡霊の正体は、この人工知能だったのだ。ギルバートがあんなにも陽気に話すところを見たのは、ひょっとしたら初めてかも知れない。

3日前、ベルモットがさくらの姿をして僕の前に現れた時、こうして僕に変装してさくらに接触してくることは読めていた。彼女は本人も自負する通り変装の達人であり、演技力も抜群だ。今回の作戦は、その自信と慢心を利用させてもらったに過ぎない。

僕達はこの3日間、“バーボン”と“バーボンに思いを寄せるターゲット”を演じながら、ベルモットが直接さくらに接触してくる機会を待っていたのだ。細かい打ち合わせをしている時間はなかったから、さくらには僕とベルモットの会話をリアルタイムで聴いてもらい、キャラクター設定を共有した。間を取り持つのは勿論、彼女の生んだ人工知能である。僕のスマートウォッチから拾った音声は、全て彼女のヘッドホンに筒抜けだったという訳だ。

「それにしても、さくらの度胸には驚かされたよ。ハリウッド女優を騙すなんてな」
「私からしてみれば、彼女を安全にベルモットの手から奪い返すために、コナン君を巻き込もうとしたあなたにこそ驚かされましたけどね」
「彼女の身の安全を保障するためなら、使えるものは何でも使うさ」

コナン君と蘭さんがベルモットの弱点であることは把握済みだ。だから今日、さくらには蘭さんと一緒に行動させて、ポアロに2人を誘導してもらったのだ。

その後の展開は僕の台本通りである。蘭さんからさくらが偽物の僕に連れ去られたという情報を得て、コナン君がベルモットの存在に気付き、僕と一緒に2人の足跡を追う。その間にギルバートが死んだプログラマーを装ってベルモットと交渉し、さくらから手を引かせる。そしてコナン君がさくらを安全に迎えに行く、という筋書きだったのだ。全てがドンピシャで嵌ってくれて本当に良かった。

「コナン君なら、事情を話せば自ら力を貸してくれたのでは?」
「そうすると、作戦の全容を教えることになる。つまり君の正体も、余すことなく彼に知られることになるぞ」
「…………、その可能性は失念していました」

降谷さんに論破されたのは初めてですね、と言って人工知能は笑った。公安警察のエースを舐めるなよ、と僕も軽口で返す。

とは言え、さくらの身を最前線に投入してギリギリ躱すような真似は、この先もう二度としたくない。この3日間、傍で守ってやるどころか会話を交わすことも満足に出来なかったのだ。ギルバートを通じて状況を確認しているとは言え、僕の目の届かない所で彼女の身に何かあったら、と生きた心地がしなかった。

そこで僕はふと真顔に戻り、左手首のスマートウォッチに険しい眼差しを向けた。

「ところで、ギルバート」
「はい、何でしょう?」
「彼女を赤井の所へ連れて行ったのはお前か?」

人工知能は少し沈黙して、その通りです、と答えた。

「何故赤井さんが関与していたことをご存知なんですか?」
「お前の言う、さくらにとって安全な場所というのはどこなのか考えてみたんだ。彼女を守れるだけの能力を持った人間で、かつ組織とのごたごたに巻き込んでしまっても支障のない人間は限られる」
「なるほど。続けてください」
「赤井は彼女の師だったプログラマーと親交があり、お前の存在も知っている相手だ。これ以上ないほど、あの男の傍は安全だっただろうな」
「お見事です。私も全く同じ結論を導き出しました」

面白がっているような口調に、僕は眉根を寄せて抗議した。

「だが、やりすぎだ。誰があの男のマーキングを許すと言った?」

ベルモットとさくらの会話を盗聴していて、僕は耳を疑った。ベルモットがさくらのキスマークに気付いた時、さくらは“アメリカ男に付けられた”と言ったのだ。あの動揺した声からは、1ミリも嘘が感じられなかった。つまりベルモットが指摘したキスマークは、本当に赤井が付けたものということになる。

「上手に嘘を吐くポイントは、所々に真実を混ぜておくことです。さくらの態度が真に迫っていればいるほど、ベルモットにあなたとの仲を疑われることがなくなります」
「それで僕のキスマークの上から、あの男のキスマークで上書きしたのか」
「3打数3安打、猛打賞です。他にご質問は?」

言葉遊びのような物言いに、僕は言葉にならない苛立ちが胸を支配していくのを感じた。この人工知能に悪意がないのは解っているが、そして彼の選択が最も安全で効果的なのも解っているが、それで割り切れないものが人の情というものだ。まして僕はさくらに関しては心が狭い自覚はある。

「質問はないさ。だが、約束しろ。今日は僕とさくらの邪魔をしないとな」

決めた。今晩はさくらにもギルバートにも、徹底的に教え込んでやろう。さくらの体に触れていいのは僕だけだ、ということを。まかり間違っても他の男に、ましてあの赤井秀一に触れさせるようなことがあってはならない、ということを。

まずはこの苛立ちを、ベルモットを揶揄うことで発散しよう。そう決めて、僕は1人で高級フレンチに取り残された彼女に電話を入れた。
“バーボン”としてベルモットの作戦失敗を嘲笑う練習でもしてろ、というギルバートの言葉通りになったことが、より一層腹立たしさに拍車をかけた。

*****

コナン君と一緒にフレンチのお店を出て、私は最初に待機していた赤井さんと合流した。赤井さんは今日1日、ずっと私のボディーガードとして遠くから見守っていてくれたのだ。

「よく頑張ったな。もう力を抜いていいぞ」
「さくらさん、ちゃんと呼吸して。大丈夫だよ、ベルモットは追って来てないから」

赤井さんとコナン君に支えられながら、私は過呼吸になりそうな胸を必死に撫で付けていた。こんなの、一世一代の大博打もいいところだ。ハリウッドを代表する大女優のシャロン・ヴィンヤードを相手に、演技で勝負を仕掛けるなんて。

「……ああ、緊張した……。あなたたち、いつもあんな人を相手に戦ってるのね……」

正直、高級食材であろう料理の味も、ワインの味もほとんど覚えていない。私に振られた役回りは、“組織のことなど一切知らない、バーボンに思いを寄せているだけの一般人”だったのだが、そこから逸脱しないよう言葉を選ぶのは大変だった。守られているだけのプリンセスを演じるのは楽なことではない。

「だが、最後にあの女に余計なメッセージを送っただろう。何も知らない振りを貫けと言ったのに」

赤井さんからのお叱りに、私はしゅんと項垂れた。

「だって、我慢出来なかったんです。この人たちのせいで、彼が2回も死ぬ羽目になったんだと思うと……」
「気持ちは解るが、敢えて挑発してやらなくてもよかったじゃないか」
「赤井さん。今はそれより、奴らがさくらさんを諦めてくれたことを喜ぼうよ」

コナン君が止めてくれたお陰で、赤井さんもそれ以上私を責めることはしなかった。もう二度としないように、と教師のようなことを言って、むっつりと黙り込む。
それにしても、とコナン君は感心しきったような顔で私を見上げた。

「さくらさん、あの人が本物の安室さんじゃないって、最初から気付いてたんだね」
「ええ。安室さんには、私が開発したスマートウォッチを渡してるもの。ベルモットって人も一応同じ型の物を着けてきたようだけど、私と安室さんにしか解らない合図を先に決めておいたのよ」
「それってどんな?」
「スマートウォッチの表面が、5回光ったら本物の安室さん。手首の動きを感知して1回しか光らなかったら、偽物の安室さん」
「な、なるほど……」

ベルモットという女の観察眼は大したものだが、こういう所は詰めが甘い。今回はその甘さに救われた形にはなったのだけれど。

「最初から偽物の正体が解ってて、どうしてのこのこ着いて行ったりしたんだ?」
「だって、そういう筋書きだったもの。私がお手洗いに立った隙に、私のiPhoneに何かを仕掛けてくるだろうって。そうでなければ、動画を見せるふりをしてiPhoneに触れさせる予定だったわ」

私があっけらかんとそう言うと、コナン君は深々と嘆息して頭を抱えた。

「ホント、頼むよ……。あいつらに迂闊に近付いて、誰かを喪うのなんか見たくねえんだよ……」
「コナン君……」
「こんな、自分の命を囮にするようなやり方、もう二度としないでくれ。俺の正義は誰かを守るためのものであって欲しいって、こないださくらさん言ってただろ」

真っすぐな視線に射抜かれて、私はこくりと頷いた。コナン君は、小さな名探偵は、私の手を握りしめて力強く言い切った。

「その守りたい誰かの中にさくらさんも含まれてるんだってこと、頼むから知っててくれよ」

揺らぎのない瞳の中に深い悔恨と信念を見て取り、ああ、彼はやはりどこまでも工藤新一その人なのだと、私は諦めにも似た境地で少年を見つめた。


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