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さくらさんは俺の言葉にふわりと微笑んだ。

「ありがとう。今のあなた、とっても男前よ。探偵さん」

彼女はでもね、と続けながら、小首を傾げた。手入れの行き届いた髪が、さらさらと白い頬に打ちかかる。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、って言うじゃない?」
「つまりさくらさんも、目的があってベルモットに近付いたってことか?」
「ええ。彼女のスマホをハッキングして、データをコピーしたかったの」

さらりととんでもないことを言ったが、彼女にとってはそんなもの朝飯前なのだろう。何せ軍用ヘリの動きを1分間止めることの出来るワームを開発するような人間である。

「そんで得ようとした虎児って、一体どんな情報なんだ?」

さくらさんは安室さんを通してしか、黒ずくめの奴らのことを知らないはずだ。安室さんだって、さくらさんを組織の絡む事件に巻き込まないようにしていたはずだった。それなのに一体どうして、さくらさんの方から奴らに深入りするような真似をしたのだろう。

つい咎めるような声が出てしまったが、さくらさんは怯まなかった。俺の手を握り返して、チェリーレッドの唇をおもむろに開く。

「APTX4869。……あなたなら、この名前をよく知ってるんじゃないかしら?」

予想もしていなかった単語が出てきて、俺は束の間言葉を喪った。その薬の名前を知っているということは、灰原と組織の関係も、そして俺と灰原の正体も、さくらさんには知られてしまったということだ。

どうして、一体どこから。

「―――さくらさん」
「ごめんなさい。ちょっとだけ探らせてもらったの。こないだ、ギルバートと会話するために私のスマホに触ってもらったでしょう」
「あ……、うん」
「その時にあなたの指紋を採取して、誰のものと一致するのか世界中のデータベースと照合したのよ」

ギルバートに協力してもらってね、とさくらさんは肩を竦めた。

「5万回の試行の結果、あなたの指紋はあの高校生探偵、工藤新一と一致するという結論に至ったわ。その原因が、例の薬にあるということも知ってる」
「何でそこまでして、俺の正体を……?赤井さんも、さくらさんに何か喋ったの!?」

今回、密かにさくらさんの護衛をしていたという赤井さんは、彼女が組織やあの薬の秘密を握ってしまったという事実を知っているのだろうか。
赤井さんは俺の問い掛けに、ふと口元を緩めた。それはこの場においては肯定と同義だった。

「このお嬢さん相手に、迂闊に隙は見せない方がいいぞ。どこから秘密を暴かれるか知れたもんじゃない」
「人聞きの悪い言い方はやめてください。私だって、安室さんがあれほどまでコナン君を信頼してなければ、正体を探ろうと思いませんでしたよ」

さくらさんはむう、と唇を尖らせたあと、真顔に戻って俺の顔を覗き込んだ。
深い藍色の瞳と、まっすぐに視線が絡まり合う。

「ねえ、コナン君。私と取引しない?」
「……それって、どんな?」
「あなたの秘密を絶対に誰にも漏らさない代わりに、あなたにお願いしたいことがあるの」

彼女の言葉は決して高圧的ではなかった。それでも断ることの出来ない圧を、俺は握られた両手から感じ取った。

「それ、俺に断るって選択肢ないだろ」
「まあそうね。でも、あなたにとって不利な取引じゃないと思うけど?」

そう言って自信満々に微笑む彼女に、俺は乾いた笑いを零しながら渋々頷いた。

*****

私を迎えに来てくれた少年は、赤井さんが責任をもって家まで送り届けると言ってくれた。だから君は早く降谷君の元へ行った方がいい、と言われて初めて、iPhoneに零さんからの着信が何件も入っていたことに気付く。

「赤井さん、今回は本当にありがとうございました。何てお礼を言っていいか……」

きちんとお礼はしますから、と言って頭を下げると、赤井さんは礼ならもう貰ってるさ、と笑って自分のうなじを指さした。彼の言う意味が解って、思わず首筋を自分の手で押さえつける。コナン君もいるのに、何てことを言うのだろう。

「どうした?顔が赤いぞ」
「……いちいち指摘しないでください。それじゃあ、私はもう行きますね」
「ああ。君の荷物も渡さなきゃならないから、また連絡してくれ」
「さくらさん、本当にお疲れ様。安室さんによろしくな」
「ええ、あなたも色々とありがとう。また会いましょうね、新一君」

私は2人に手を振って、特に目的地もないまま暗い夜道を歩き始めた。
またしても震え始めたiPhoneを耳に当て、もしもし、と短く答える。

「―――さくら」

そこから聞こえてきた声に、胸がぎゅうと搾り取られるように痛んだ。
彼にこうして名前を呼ばれることが、酷く懐かしく感じられた。

「……、……はい」

れいさん、と呼び掛けた声は、音にならなかった。掠れた吐息だけが空気中に吐き出され、喉が引き攣る感覚がする。

「ベルモットの説得と、ラムへの報告も終わったよ」
「……それで、どうだった?」
「君のことからは金輪際手を引く、と言っていた。さすがに、死んだはずのプログラマーに組織の機密をこれ以上握られるのは、上としても避けたかったようだ」
「そう、ですか」

私は足元を見つめながら、一歩一歩を踏みしめるように歩いた。組織の手から逃れることが出来たと知って、ようやく浮足立っていた気持ちが落ち着いたようだった。

「今どこにいる?」
「お店を出て川沿いに10分歩いた所の、公園の横を歩いてます」
「解った。すぐに向かうからそこに居ろ」

短いやり取りを終えてiPhoneは沈黙した。私は公園の入り口付近のベンチに腰掛け、大人しく迎えが来るのを待つ。
やがて聴き慣れたエンジン音と共に、零さんの愛車が姿を見せた。
私がのろのろと立ち上がるのと同時に、白い車体は公園の脇に停車した。運転席のドアが開き、1人の男がそこから降り立つ。

明るい金の髪。褐色の肌。私を見つめる、瞳孔の開いた青灰色の瞳。

彼は私の元まで歩み寄ると、乱暴な手つきで私の腕を引いた。そのまま彼の胸板に頭が押し付けられる。
シャツ越しに伝わってきた彼の鼓動は、今にも張り裂けそうなほど激しくビートを刻んでいた。

―――ああ。
零さんだ。

この香りも、この固い胸の感触も、私の背骨を折ってしまいそうなこの腕の力強ささえ、紛れもなく零さんのものだと実感する。
は、と震えた吐息が耳を擽って、私は彼の背中に回した手に力を込めた。

約束をした。決してあなたの傍から離れないと。あなたを置いていったりしないと。
だから、意地でも死んでやるもんかと思った。生きてあなたの腕の中に戻ることだけを、この3日間ずっと願ってきた。

彼の腕が僅かに緩み、私と彼の間に隙間を作る。促されるように顔を上げると、ものも言わずに唇を塞がれた。
人通りのない時間でよかった。そう思ってしまうほど、そのキスは情熱的でしつこかった。
捻じ込まれた舌が上顎をこする感覚に、背筋に震えが走った。応えようとこちらからも舌を差し出せば、絡め取られて軽く歯を立てられる。

「ふ……っ、ん、んっ」

するり、と明らかな意図をもって背中を撫でられて、とうとう腰が抜けた。がくりと倒れそうになった体を、彼は軽々と支えてくれた。

「……さくら」

耳元に吹き込まれた声に、首の後ろにぞわぞわしたものが広がった。観覧車で彼の指に触れられた時にも感じた熱に、じわじわと体が炙られていく。

「先に言っておく。今日は、手加減できない」
「…………?」

そんなのいつものことじゃないか、と疑問に思いながら顔を上げる。そして彼の瞳を見た瞬間、私は自分の考えが甘かったことを知った。

彼の瞳は嫉妬に染まっていた。それが何に向けられたものか解らないほど、私は鈍くも無神経でもない。

ああ、これは明日指1本も動かせないかも知れないな、と他人事のように思いながら、私は彼の手に導かれるまま車の助手席に向かった。


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