08
控室にダミーのパソコンを置きに行った時、大切なヘッドホンが鞄に突っ込まれていたことには気付いていた。
(降谷さんってば、絶対身に着けておいてってお願いしたのに)
少しばかり憤慨したものの、あまりゆっくりしてはいられない。今は作戦中なのだ、それにあのヘッドホンが狙われることなどないだろう。
そう思って、ヘッドホンを置いたまま控室を出たのだ。しかしその見通しは甘かった。
(ギルバート)
控室に戻ってヘッドホンが鞄から持ち去られていたことに気付いた時、頭が真っ白になった。ドイツに行ってから数か月間、いつでも傍にあった存在が消えてしまった。ホテルの部屋にはサブのヘッドホンが残っているが、サブのヘッドホンでは駄目なのだ。彼と連絡を取り合うには、あのヘッドホンでなければならない明確な理由があった。
(落ち着いて、落ち着いて。降谷さんが回収しに行ってるんだもの、きっと無事に戻ってくるはずよ)
無事を祈ることしか出来ない自分がもどかしかった。ギルバートが傍にいないというだけで、全く働かなくなる頭が悔しかった。
自分はどれだけギルバートに依存していたのだろう、とこの時初めて思った。例え彼の声を聴いていなくとも、ヘッドホンの重みを首に感じるだけで思考はクリアになっていくはずなのに。
パソコンではなかったのか。私のアプリを盗んで悪用した犯人の真の狙いは、パソコンにあるのではなかったのか。
もしかしたら、犯人はあのヘッドホンの秘密に気付いているのではないだろうか。
それを思うだけで、ぞわりと背筋が震えた。
はたと思い出したことがあって、私は自分のダミーではないパソコンを触ろうとした。けれどそれは降谷さんの愛車に積まれていたのだと思い出し、私はぐっと拳を握りしめた。
―――ままならない。自分でも悪意に立ち向かおうと思っていたのに、私の力ではどうしようもない。
せめて最悪の想像が外れていることを確認しようと、私はスマホを取り出した。
連絡先は、先日再会したばかりの阿笠博士である。
*****
GPSを辿った先で見た光景は、滑稽と言って差し支えなかった。
先ほど大畠から荷物を受け取った男の車は、講演会場から車で20分程度離れた公園に横づけされていた。まずはその横を走行しながら車内の様子を確認する。
彼女のトラップによって初期化されたダミーのパソコンは助手席に放られ、運転席では彼女のヘッドホンを着けた男がしきりに何かを叫んでいた。
「だぁから、俺はそんなことを訊いてんじゃねーんだっつうの!」
唇の動きからは、おおよそそんなことを言っているように見えた。
残念ながらヘッドホンの向こうの声は聞こえなかったが、男が僕のRX-7に全く気を取られていないのは好都合だった。僕は彼の車のほんの少し前に愛車を寄せ、彼の車がすぐに発進できないようにした。
そしてすかさず男の車に駆け寄り、運転席の窓をノックする。
「ああ?チュートリアル!?ふざけんなよてめえ、ゲームの振りなんかしてんじゃねえ!」
どうやら気付いていないらしい。僕はもう一度強めにノックをした。
そうして男が漸く僕の存在に気付いた時、彼はぽかんとした表情で僕を見た。僕は精々道に迷った一般人のような顔をして、彼に窓を開けるよう促した。
「……何すか、急いでるんすけど」
急いでいるくせにこんな所でヘッドホン相手に喧嘩をするのか、と僕は内心盛大に嘲った。
「すみません、ちょっと道に迷ってしまって。ここからみなとみらいホールへは、どう行ったらいいですか?」
わざとらしく男が出てきたばかりの会場の名を出すと、男は目に見えて怯んだ。逃げ腰になる前に、と僕は早速行動に移すことにした。
開いた窓から車のロックに手を伸ばし、強制的に開けさせる。そのままドアを開くと、男の体を引きずり出して反転させ、バンパーに頬を押し付けた。
「おわっ!?お前、一体何のつもりで」
「それはこちらの台詞だな」
押さえつけられて指一本も動かせやしない男に、僕は冷たく言い放った。
「そのパソコンは、ついさっきみなとみらいホールで行われていた講演会で使われていたものだ。持ち主の許可も得ずに持ち出して、一体何をするつもりだったのか教えてもらおうか」
「……っ、あんなパソコンなんかどうだっていい!返して欲しけりゃくれてやるよ!」
その言葉は少々意外だった。いくら初期化されたとは言え、元々犯人たちの狙いはこのパソコンにあったはずなのに。
これではまるで、今こいつが身に着けているヘッドホンこそ真の狙いだったと言っているように聞こえる。
「勿論返してもらうさ。ただし、お前の身柄と一緒にな」
低く告げて、僕は背中から手錠を抜き取った。男が抵抗できないでいるうちに両の手首を拘束する。
こうして、彼女の研究成果を盗むことに躍起になった犯人たちの暴走は、計画通り阻止されることとなった。ここから余罪を見つけて行って、サイバーテロの犯行についても認めさせるつもりである。
みなとみらいホールへ戻り、彼女の控室をノックすると、慌てたように椅子が引かれる音がした。
「降谷さん……っ」
勢いよく開かれた扉から、大きなアーモンドアイを真っ赤に染めた彼女が飛び出してくる。その勢いに驚くやら呆れるやらで、僕は小さくため息を吐きながら手に持った荷物を差し出した。
「落ち着いてくれ。ほら、約束通りヘッドホンを取り戻してきた」
「あ―――ありがとう、ありがとうございます……!」
彼女は僕の手からむしり取るようにヘッドホンを掴み、自分の頭に装着した。
「ギルバート!ギルバート、返事をして!私よ、さくらよ!」
恋人に呼びかけるような切実さで、彼女はヘッドホンの向こうの男を呼んだ。やがて返事があったのだろう、彼女はあからさまにほっとした様子で息を吐き出した。
そして彼女の両目から、とめどなく涙が流れ落ちた。
こんなにも簡単に泣くのだ。
自分のアプリが犯罪に使われていると知った時にも毅然としていた彼女が。
ギルバートという男のためなら、こんなにも簡単に涙を見せるのだと、僕は胸の内で小さな漣が広がるのを感じていた。
ガクリ、と彼女の膝から力が抜け、倒れ込みそうになったところを思わず支える。折れそうなほど細い腕に一瞬慄き、体を離そうとしたら何かに引っ掛かって叶わなかった。
彼女の綺麗な指先が、僕のスーツを握りしめていた。
「ギルバート、ギルバート。無事でよかった、本当によかった……!」
僕の腕に縋り付きながら、他の男の名前を呼ぶ。それが無性に腹立たしくて、僕は彼女の頭を自分の胸に押し付けた。
今お前の目の前に居るのは自分だと、そう言いたくてたまらなかった。
「降谷、さん……?」
困惑した彼女の声が鼓膜を震わせ、僕はますます腕の力を強くした。彼女の頭のヘッドホンが、激しく振動している。恐らく大声で何事かを言っているのだろうが、僕はお構いなしに彼女を抱き締めた。
ざまあみろ。
お前は、彼女が泣いているときに抱き締めてやることも出来ないだろう。
見も知らぬ男に張り合うような、狭量な自分が嫌になる。それでも彼女が泣き止まないのをいいことに、僕はしばらく彼女を腕の中に閉じ込めていた。
耳障りなヘッドホンの振動音は、都合よく聞こえない振りをした。
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