俺は中国の本家にいた。あの後、烏に抱かれながら苗字家が用意した飛行機に乗り込みそのまま戻ったのである。元々、そういうつもりだったので特に問題はない筈だったのに、何故か俺は執務室に閉じ込められていた。苗字名前が死んだ後に溜まっていたものだという。
因みに、夏油センパイは無事に約束通り俺のモノにした。センパイには
烏は自分に被害が及びそうな時だけ主人の俺を差し出して、自分は遊び呆けている。この前はカジノに行って大負けして帰ってきていた。僵尸なのに。自我はあるし言葉は喋り出したし、本当に烏は規格外すぎる。俺を差し出すのは昔からだった気がする。
日本は五条センパイがなんとかしてくれている筈だ。宿儺の器を処刑したという話も聞いていないし、おそらくは大丈夫だろう。白いおかっぱの話も聞かないし、センパイが捕まえて吐かせたか、祓ったかでもしているだろう。
今日も今日とて執務室に閉じ込められたがもう限界。今日は見張りも夏油センパイだけ。
どうしようかと頭を悩ませていると少しだけ残ったお茶が入ったコップが目に留まる。それを一気に飲み干して隠蔽すると、センパイの方へ近づいた。
「ねぇ雪。お茶なくなっちゃった持ってきてくれない?」
「……」
一瞬怪訝そうな顔をするが俺を椅子に戻すと、四回も振り返りながら部屋の外へと出ていく。彼が出ていったのを確認すると俺は窓を開けて飛び出した。ここは建物の二階だが呪術師には関係ない。木の枝に飛び移り、実る桃をむしりとると、地面に華麗に着地。そしてそのままの勢いで廊下を走る。気分はまるで風の様。女中達があらあらといった表情で見てくるのを無視して、広く長い廊下を駆けていく。
駆け抜けた先には、美しい蓮が咲き誇る大きな池。その真ん中には、水上に立つ屋根のついた建物。そこには長椅子とテーブルが置かれており、長椅子には黒い男が寝転がっている。俺はそれに伸し掛かる様に飛びついた。
「どーん!」
寝転がっていた男はびくともせず、俺を受け止めてくれた。だが、そのままピクリとも動かず、瞼を瞑ったまま。あまりにも相手にされなさすぎて少しムッとしてしまう。俺は木から拝借してきた桃を目の前に差し出した。
「桃食べよう?」
「…自分で剥けよ」
「やだ」
ここを根城にしている主は俺の僵尸である烏。死者なのに生者と変わらず、ずっと屋敷内でぐうたらしている。俺が桃を差し出せば、それを受け取り、面倒くさそうに身体を起こした。その時に彼の上に乗っていると転がり落ちそうになったが、烏がその前に俺を起こしてくれて胡座をかいた足の間に座らせてくれた。
彼は桃の薄い皮を丁寧に剥いてくれ、出てきた白い果実にかぶりつこうとしたらまだ汚れていない手の甲で静止させられた。
「まだ」
「ぶぅ」
「ガキか」
「子どもだもーん」
烏は俺の動きを静止させながら桃を剥き終わると懐から小刀を取り出して、それでそっと刃を入れる。するとじゅわりと滴り落ちる様に果汁が溢れてきた。それと同時にこくりと俺の喉が鳴る。ちらりと上を見上げれば、呆れた様子で一口サイズに切り分け、俺の口へと放り込んでくれた。口の果汁が広がり、桃の程よい甘さに舌鼓を打った。頬が蕩けてしまいそうな程の味わいにもう一口と口を開けた時だった。
「名前!!何処にいるだ!!」
その怒声に屋根が軋んだ。
どうやら俺が執務室を抜け出したのがバレたらしい。センパイが報告したのか、それとも偶々か。今見つかればお説教が二時間はくると見た。俺が逃げだそうと動き出すよりも早く、烏が俺を捕らえ、動きを封じる。機嫌取りのつもりなのか口の中に桃を放り込んできた。抜け出そうとするも俺に敵うわけがなく、上を見上げれば楽しそうににやにやと笑っている。
「烏、見逃してよ!」
「無理」
烏はそういうと何かを見つけたのかそちらの方へ手を振った。絶対に
「シ、雪…。ご、ごめんなさい」
「……」
上目遣いで見つめたものの効果はなく、そのまま烏から俺を回収し、抱き上げると真っ直ぐと執務室の方へと歩き出した。ちらりと後ろを振り返れば烏が楽しそうに笑っていた。
センパイに連行されて、執務室に入れば中では
「名前!オマエ、あれほど執務室で仕事をしておけと言っただろう!雪も見張りにつけていたのに何故、逃げ出した、仕事が全く片付いていないじゃないか!」
「だって、毎日執務室でつまんないんだもん」
「だってもクソもあるか!全くいつもオマエは…」
「お話中のところ申し訳ございません。名前様へお客様がいらっしゃっております」
「俺に?蘭家の連中なら俺は行かないよ。
「いえ、蘭家の方ではなく…」
蘭家というのは昔から何かとうちに敵対意識を持っている一族だ。よく喧嘩を売ってきたり、邪魔をしてきたりしてきて鬱陶しい。それに陰湿な奴らが多く、融通も効かないのであまり会いたくもないし、話したくもない。
俺が戻ってきたという話を聞いて、態々嫌味を言いに来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。
俺が首を傾げているとセンパイが足を進め出した。それを察したのか、女中が案内する為歩き出した。俺に用事があるとは一体誰だろうか。全く心当たりがない。
廊下を進んでいき、女中が応接室の扉を開いた。応接室の中には見覚えのある顔が二つ並んでいる。何故彼らがここにいるのだろうか。俺の居場所は告げていなかった筈だが、五条センパイが教えたのか。あの人に口止めも何もせずに帰ってきたからな。いや口止めしても絶対話すな。
センパイは俺を抱っこしたまま、二人の前のソファに腰を下ろす。俺もセンパイの膝の上に強制的に座った。少し居心地が悪く、顔を逸らしてしまうが、センパイが顔を動かし前に向かせた。
「…久しぶりですね、名前」
「ひ、ひさしぶり…」
初めに口を開いたのは七海であった。サングラスで隠された瞳が恐ろしく、思わず口籠い、目線を逸らした。灰原も七海の雰囲気に気圧されているのか少し困った様子。
「…私達に何か言うことがあるのではないですか」
「え、あー…、黙っててごめんね?」
「それだけですか?」
「え」
他に言うこと。謝らないといけないことはあっただろうか。俺の記憶が戻っていたことくらいではなかったか。二人には昔からよく迷惑をかけている自覚はある。謝らないといけない事は数え切れない程あると思う。その中から見繕うのは難しい。
「えっと、七海の言うこと聞かずに渋谷に行っちゃったこと?それとも、先に死んじゃった事?七海のサングラス割っちゃって、五条センパイのせいにした事?」
七海達に言わないといけない事。俺は頭を捻ったが心当たりがあり過ぎて頭を捻りながら思い当たる節をあげていく。その様子を見た七海がため息を溢す。
「それもそうですが、そちらの件については後で詳しく聞かせてもらいます」
「うっ…」
「まったく、貴方はなぜ、いつも勝手に決めて、いつも勝手にいなくなるんですか」
「え」
「うんうん。僕達に何も言わずにいっつも決めちゃうよね」
「そうかな?二人には相談してたよ、ね?」
同意を求める様に夏油センパイを見上げたが、心当たりがあるのだろうか急に無表情になってしまい、背筋が凍る。センパイに何も言わずに決めた事はあっただろうか。いや、いっぱいあったような気もする。学年も違うし。
「……」
「してなかったみたい、です。なんか、ごめんね?」
「ホウレンソウは大切だと習いませんでしたか?貴方、当主なんですよね?そういうところが、部下を困らせるんですよ。分かっていますか?」
「はい…、すみません…」
思わず肩を落としてしまう。精神年齢が三十歳手前になって社会人の説教を食らってしまう。七海の言い分はもっともなだ。やっているつもりだったのだが、出来ていなかったのだろう。それでも、俺は子どもだったし、許して欲しい。俺が苗字名前だと発覚したせいで、子どもだからで流せなくなってしまった。どうしよう。
そんな俺に灰原が助け舟を出してくれる。
「ほら、七海。落ち着いて?あだ名も反省しているみたいだし、ね?」
「は、灰原!」
「甘やかし過ぎです」
七海は呆れた様子でそう言った。七海と灰原はいつもと同じ様に俺の教育方針について揉めており、少し安心する。これで俺の話は水に流れてくれただろう。ほっと胸を撫で下ろした。だが、それは杞憂だった様で、灰原は俺の目を見つめて告げる。
「でもね、あだ名。僕も記憶があるなら教えて欲しかったし、勝手に出て行って欲しくなかったよ。本当に夜居なくなって心配したんだから」
心配、かけてしまったのか。
それもそうか、面倒を見ている子どもが急に居なくなったら探すし、心配をかけてしまっても仕方がない。それに、俺は何も言わずに戻ってきた。
あの時の俺は苗字名前という存在が戻った事を誇示することにより、苗字家を、友達を守りたかったから。それにより二人にも心配かけてしまった。
「でも、それは…」
「でももなにもないよ、僕達は友達でしょ?なんでも言ってくれていいんだよ。一緒に悩んで、一緒に解決しようよ」
「…二人に迷惑かけちゃう」
ぎゅっと唇を噛む。相談したくても友だちには出来ないこともあると思う。こちらの事情に巻き込みたくないと、思ってしまう。
「貴方が思っている程、私達はそんな弱くはないですよ」
「そんなの知ってるもん」
「なら困ったらちゃんと頼って。君が怪我すると僕も悲しい」
「……」
センパイに優しく頭を撫でられた。彼もそう思っていたのだろうか。なんだか、胸がぎゅっとして、少しだけ視界がぼやけている。身体に引っ張られているのか、それとも歳なのかもしれない。
「本当、無事でよかった。僕、あだ名に話したいことがいっぱいあったんだよ」
「心配かけて、ごめんなさい…」
灰原は身を乗り出して、俺の頬にそっと触れて、目の目を合わせた。優しくふにゃりと眉が垂れて、微笑む彼の顔に心が締め付けられる様な思いになる。気がついた時には瞳から大粒の雫が零れ落ちていく。ぽろぽろと溢れ出るそれを灰原は指で優しく掬い上げてくれる。すると不思議なことにさらに溢れて止まらなくなってしまった。
あまりにも止まらないそれに夏油センパイもびっくりしたのか、袖で俺の目元を拭ってくれ、俺の涙はさらに止まらなくなる。
俺の涙が止まったのはそれから暫く時間が経ってからだった。目が赤くなりまるで兎の様になってしまう。これは後で冷やさないといけないな。
「貴方が私達のことを大切に思ってくれている様に、私達も貴方のことを大切に思っているんですよ。…私は好きでもない男のことなんて引き取りませんよ」
その言葉に目を丸くする。やっぱり七海は初めから気がついていたのだろうか。いや、そんな素振りはなかったと思う。
「知ってたの…?」
「いえ、貴方が生まれ変わっているという事は貴方の父から聞いましたから」
「父さんから…」
俺の父さん。正確に言えば、苗字名前の父であり、苗字家前当主。俺をこの世に留めた男だ。母さんを一等愛し、俺に深い愛を注いでくれた人。そんな父さんのことだ、俺の死後に色々と頑張ってくれたのだろう。その命をかけて。苗字家には【転生術】という禁術が存在する。その方法は当主しか知り得ない。そんな禁忌を犯してまで父さんは俺の魂をこの世に戻した。その事実はあまり多くの人に公表する事はないという。それを恐らくここにいる二人とセンパイ達、
「分かってもらえましたか」
「うん」
俺はふにゃふにゃになってしまった顔で頷いた。どうやら俺は七海に好きと初めて言われてさらに緩んでしまった。これはしばらく顔が元に戻らないだろう。こんな腑抜けた顔は門下生達には見せられないや。威厳も何もなくなってしまう。子どもの姿で元々それほどないし、最近当主の座についたばかりだというのに。笑われてしまう。
「んふふ」
「笑いすぎですよ」
七海はそう言いながら照れ隠しの様にサングラスの位置を直した。ちらりと上を見上げれば、夏油センパイはその様子を微笑ましそうに見ていた。
そんな幸な時間を携帯の着信音が台無しにした。俺の携帯は多分烏が持っているので、俺のではないのは確かだ。音の鳴る方を見れば、七海が心底嫌そうな、面倒臭そうな顔をして携帯を見つめた。暫く悩んだ末に立ち上がり、窓際まで歩いて行き電話を取った。
その間にセンパイは俺を灰原へと預けると部屋の外に出ていった。冷やすでも貰いに行ってくれたのだろう。流石センパイ。五条センパイと違って気が効くな。灰原と二人で待っていると七海がいた近くの窓が急に開き、外から烏が入ってきた。
七海は突然、入ってきた烏に少し驚いた様だったがすぐにいつもの状態に戻った。烏はそんな様子なんて梅雨知らずと言った様子で真っ直ぐと此方へ歩いてくる。
俺の前に立つと少しガサツいた指で俺の目の下を撫でてくる。擽ったくて目を少し細めた。
「……」
「大丈夫、平気だよ」
「…ならいい。食ってろ」
そう言うと、先ほどの切り分けられた桃が乗った小皿を差し出してきた。どうやら小皿は女中に貰ったのだろう。そこには食べやすい様に楊枝も刺さっている。俺はそれを取ると一つは灰原の口へ、もう一つは俺の口へ、さらにもう一つを烏の口へと放り込んだ。
「んー!これ、おいしいね」
「でしょ?うちで実っていたものなんだよ」
「コイツが勝手にむしり取るから少ないけどな」
「うちの庭になってるやつだからいいじゃん!」
自分も勝手に取って食べる癖に何を言っているのだか。そもそも僵尸は食事を必要としない。彼らの肉体は既に死んだ後のもの。そして俺の術により今動いているだけにすぎない。内臓の機能も活動していない筈だ。なのに何故食べるのか俺にはよく分からない。趣味なのだろうか。ただ食べて問題がないのなら、本人の意思を尊重してそのままにしている。言っても聞かないし。
暫くするとセンパイも戻ってきて、水で冷やしたタオルを持ってきてくれた。それを使い冷やしてもらっていると、七海がこちらに歩いてきたようで、タオルから目を離し見上げれば俺に携帯を差し出してきた。携帯の画面には五条センパイの文字。
「どうしたの?」
「久々に連絡した先輩にそれはないでしょ」
「久々ってほどでもない、んぐ」
センパイと話し始めると烏が口の中に桃を放り込んできた。もぐもぐとそれを咀嚼すると口の中になくなった頃には今度は夏油センパイから放り込まれる。
「ちょっと、今度面白そうなことがあるから烏貸してくれない?」
その言葉に俺はこくりと桃を飲み込んだ。二人が俺が食べ終わったことを確認して、放り込んでくる前にするりと抜け出した。
「やだ」
「いいじゃん。あ、傑でもいいよ?僵尸になったんでしょ?」
「なんで知ってんの?」
「傑が教えてくれた」
センパイが?生前に俺との約束を五条センパイへ教えたと言う意味だろうか。センパイ達仲良かったし、あり得なくもない。俺達最強マジ卍だったもんね。
センパイの話を聞いていれば、どうやら禪院家の当主があの渋谷で負傷し、つい先程息を引き取ったらしい。それで禪院家が荒れそうなので、これを機に日本の呪術界の膿を絞り出したいらしい。そのパーティに元禪院の烏を貸してほしいということだった。
呪術界には七海も関係してくるし、俺によくしてくれた人達も沢山いるので協力してあげたい。それになんかそのパーティ面白そう。禪院って言ったら真希チャンもそうだし、あの子見えない子だから嫌な目に遭いそう。あの子肉体も精神も強くてかっこいいから大丈夫だろうけれど。
「なにそれ面白そう。俺もそれに参加したい!新しい当主が決まるんでしょ?なら、俺も挨拶しとかないと」
「決まりだね。ちゃんと烏、連れてきてね」
「烏、お出掛けするよ!」
「あ?」
「日本に!」
俺は携帯を七海に返しながら、烏に飛びつきながらそう言った。七海は携帯を受け取ると少し顔を顰めて、電話の向こうのセンパイを無視して通話を切っていた。
「そんなに嫌?」
「……」
「でも、お留守番だからね」
「……」
「ついてきちゃだめだよ、フリじゃないからね?本当、またとられちゃ嫌だし」
「……」
俺がそう言うと嫌そうに顔を顰めながら頷いた。絶対に了承していないという事だけが分かった。七海と灰原も折角中国に来たのだ。観光して帰ってもバチは当たらないだろう。何かあればセンパイがいる。問題はないだろう。
「僕達も一緒に行くよ」
「今回の目的は貴方に会うことでしたし」
「観光しないの?」
俺がそういうと灰原が少し嬉しそうに笑う。
「僕、今度から北京支部に出向することになったんだ!これからも一緒だね」
シュッコウ。出向。つまり、灰原はこれからこっちにいるという事。その事実に烏に抱きついた形で固まってしまう。何故か烏と灰原の顔を見合わせてしまった。
「あだ名?」
「…驚いて固まってるだけだろ」
「猫ですか、貴方は」
烏が俺の頬を突いていき、はっと意識を取り戻した。
「灰原とまた一緒にいられるの?」
「そうだよ!」
「やった!」
烏から離れて俺は灰原に飛びついた。灰原は難なく俺を受け止めると立ち上がり、そのままくるくると回り出す。回る視界に俺の気分も高揚していった。
俺達がそんな楽しいひと時は咳払いによって止められる。
「おい、名前。飛行機の手配ができた。出るぞ」
「はーい」
こうして俺達は再び日本へと飛び立った。
日本へ顔を出せば、渋谷の一件でまだゴタゴタとした状態で多くの人間が右往左往していた。多くの人間が死んだ事により揉み消したり、人手不足だったりと大変そう。俺には知らない話だけど。
久しぶりに袖を通した正装。子どもサイズに仕立てられたそれは俺の身体にぴったり。烏に抱えられたままでは威厳がないので降ろしてもらい、日本の皆さんへ笑いかけた。
「どうも、初めまして。苗字家当主苗字名前だ」
俺の側に使える僵尸達に驚いたのか、それとも俺に驚いたのかは分からないが、ここにいるセンパイ曰く腐った蜜柑達は写真に収めたい程に面白く、愉快な顔をしていた。
「取り敢えず、今から俺達苗字家も日本に本格介入するからよろしくね」
目を細め、ゆるりと口角を上げ笑った。