02

 夏といえばで出てくるは何だろうか。夏祭りもそうだが、やはり夏といえば海だろう。
 俺は今、夏の海に来ている。
 暑い太陽。青い空。白い砂浜。楽しそうな声。最高過ぎる。
 早く海で遊びたい。そう思えば、俺の足は自ずと動き出し、駆け出していた。だが、それは海へと辿り着くよりももっと早い段階で阻止される。

「名前くん。ちゃんと準備運動しないとダメだよ」
「…はーい」

 灰原に手を取られ、俺は足を止めた。本当は七海と灰原と三人で来る予定だったのだ。しかし、当日になって急な任務で来られなくなった。俺が駄々を捏ねたけれどダメだった。いつもセンパイに押し付けられているのだから、センパイに任せればいいのに。借りを作りたくないのか俺のお願いも聞いてくれない。代わりに烏を連れてこようと思ったが、濡れるのが嫌だったのか静かに首を横に振られた。結局、二人で海へと訪れたのだ。
 初めは七海も烏も来ないとのことで気分が落ち込んだが、それでもいざ海に来てみれば俺のテンションは鰻登り。今すぐ海へ駆け出したいのをグッと堪え、灰原に手を引かれながら、水着へと着替え、コインロッカー荷物を預ければ準備完了。
 浮き輪を一生懸命に膨らまし、灰原の言う通りに準備運動をして海へと飛び込んだ。

「いやっふー!」
「名前くん、あんまり遠く行っちゃダメだよ」
「はーい!灰原サンもはやく!遊ぼう!」

 灰原へ向かって水をかけると、嬉しいそうに笑いながらこちらへとやってきて、俺にも水をかけてきて、水の掛け合いになる。冷たい水が顔にかかり、水が跳ねる音でさえ俺の心を高揚させる。
 そういえば、昔も海へは入ったことなかったっけ。中国に居た時も海水浴なんてしたことがなかった。二人が沖縄へ行って、俺が置いてけぼりにあって、また行こうねと約束したけど、それきり。なんだかんだで忙しかったし、俺も死んじゃったし、その約束は果たされることはなかった。そういえば京都にも行けてないや。
 いつか俺が苗字名前であることを告げられたら、今度こそ行きたいな。告げるのはまだまだ先になりそうだけれど。


 二人で遊んでいると、海水浴場から少し離れたところに洞穴があるのが見えた。冒険心をくすぐられる様な薄暗い洞窟。

「灰原サン!あそこへ冒険しに行こう?」
「いいね!」

 二つ返事で同意してくれ頬が緩む。俺達は海から上がると、手を繋ぎながら洞窟の方へと足を進めた。
 外から洞窟の中を覗くと薄暗く、中の様子はあまり見えない。携帯のライトで先を照らしながら、ゆっくりと足を進めた。

「奥深いね」
「名前くん、危ないから手を離しちゃダメだよ」
「はーい」

 そっと灰原の手を握り返した。奥はまだまだ深く。先は全く見えない。あるのは携帯のライトの光と洞窟の闇だけだ。何か音もすることもない。ふと、頭に何かが触れたと思うと、上からぱらぱらと砂の様なものが落ちているだけ。どうやらこの洞窟は相当古いものなのだろう。後ろを振り向けばまだ太陽の明かりが見えている。それなのに、不思議と彼の手を握りしめている手に力が篭った。
 真っ直ぐ歩いていくと、何かの陣を超えた様な気がしたが、あまりにも微かなものだったので俺の勘違いかもしれない。むしろそうであって欲しいと願う。
 特に何も面白みもなく、ただただ暗い道を歩くだけ。携帯のライトも充電を食うし、もったいない。

「なんにもないね」
「結構歩いたのにね」
「ねー。…俺、疲れちゃった。海の家で焼きそば食べたいな」
「そうしよっか!もうお昼だもんね。僕もお腹すいちゃった」

 ちょうど良いタイミングでぐぅとお腹が鳴り、俺達は笑い合いながら、足を翻し来た道を戻っていく。
 二人で再び歩いているとまた何かの違和感。それと同時に頭の上にまた砂の様なものが落ちて俺の頭を汚した。気のせいだろうと無視していたが、一歩と踏み出したところで大きな物音が俺達の耳に入り、気のせいなのではないのだと俺に伝えてくる。

「え」

 目の前に差し迫るのは大きな岩の塊。それが頭上から降ってきてくる。その瞬間、俺の足は少し一歩後ろに下がった状態で体が固まり止まってしまう。

「名前くん!!」

 灰原が俺に飛びついてきて、俺を抱えたまま、そのまま後方へと転がっていく。視界がぐるぐると上下左右に周り、何かにぶつかり俺たちは止まった。その衝撃で俺の体に痛みが走り、頭は揺れると段々と意識が遠のいていく。


 その衝撃で小さい頃を思い出してしまった。苗字名前ではなく、苗字名前だった時の忘れ去りたかった記憶を。
 俺の母さんは苗字家に使える侍女で、父さんとの関係も本来はいけないこと。だが、二人は恋に落ち俺が生まれた。俺が、生まれてしまった。
 母さんは俺を産んですぐに亡くなり、父さんは母さんが残した俺を、俺だけを一等可愛がった。他にも兄弟がいるにも関わらず。一番最後に生まれた侍女との間の子をだ。それに俺には他の兄弟や門下生達よりも少しだけ才能に恵まれていた。五条センパイ程ではないが、ほんの少しだけ。
 だから、兄達に好かれていないという自覚はあった。それでも血の繋がった兄弟に遊びに誘われるというのただ、ただ、嬉しかったのだ。今でも別に兄達の事は特段嫌いというわけではない。向こうが一方的に俺を嫌っているだけで。だが、あの出来事は俺に傷を負わせるには十分だった。
 今思えば可愛い本当に子どもの悪戯。ちょっと暗い所に閉じ込めたそれだけだ。
 閉じ込めた場所が悪かった。うちの近くにある洞窟。霊洞と呼ばれる、亡霊や怨念を溜める特殊な土地。一歩踏み込めば帰るものはいないと言われている。そんな曰く付きの土地は、その特殊さ故に門下生達はおろか、苗字家一族の者も近づく者はいない。
 そんな所に連れてこられ、閉じ込められたのだ。背中を押され、洞窟に一歩足を踏み入れたと思えば、硬い鉄の扉を閉ざされた。
 死者は生者の生気を求める。生気は死者達の怨念を強くする。そして、最後は正気を全て取り込まれ、死ぬ。残った遺体は、まるでミイラの様に水分が抜け、皮と骨しかない状態で見つかるのだ。
 その恐怖に囚われた俺は、封鎖された扉を叩くもびくともせず、開く気配も微塵も感じられない。拳をきつく握りしめ、何度も何度も叩いていると、ぬるりと冷たいナニカに足元を取られえられ、奥へと連れ込まれそうになる。気を緩めれば、アチラの世界へ連れ込まれてしまう。そう思えば自然と水が溜まり、目の前が歪む。どれだけ戸を叩いてもうんともすんとも言わない。誰も助けに来ない。

「やだ。俺は、こんなところで…」

 黒いモヤが俺を捕らえる。怨念の塊が俺の魂を、生気を欲している。どれだけ耐えても、抗っても、連れ去られる。暗い闇の底へ。脚だけでなく胴、そして腕。段々とモヤが上がり、捕らえていく。俺の肉体を我が物にしようとしていく。
 口まで覆われ、息ができなくなり、なんとか手を伸ばし、扉のノブを掴もうとするもするりと抜けて、俺は闇の奥へと連れ去られていく。その頃には俺の身体に俺の意思は反映されず、身体の自由は効かなくなる。この身体は俺のモノではなくなっていくのだけが分かった。
 声が聞こえる。怨念の、亡霊の声が。
 恨み、辛み、妬み、嫉み、僻み。
 負の感情が俺の中を支配する。恐怖が俺を支配し、黒いモヤ、怨念の塊が俺を取り込もうとした。


 そこで意識を取り戻した。俺は過去から現実へと戻ってきたのだ。思い出したくもない過去。あの後、俺は気がつけば洞窟の外に出ていて、父さんと秀英(シゥイン)の顔が瞳に映った。何故外に出られたのか、どうやって出たのかは全く覚えていない。そこだけがぽっかりと記憶が抜けている。秀英(シゥイン)の話によれば、俺は洞窟の外に外に倒れていたらしい。
 嫌な過去を思い出してしまった。そんな過去を忘れ去る様に瞼をきつく閉ざし、過去から現実へと意識を覚醒させる。
 そういえばあれ程の衝撃があった筈なのに、不思議と俺の肉体にあまり痛みを感じる事はなかった。どうやら、灰原が庇ってくれたおかげでほとんど怪我はしておらず、彼の腕の中から抜け出して辺りを見渡してみるが、辺りは真っ暗で灰原の携帯のライトが灯っている程度の明かりがない。
 俺が抜け出したというのに灰原ぴくりとも動かない。不思議に思ったが、俺の目が暗闇に慣れることもなく、灰原がそこにいることしかわからなかった。

「灰原、灰原…」
「……」

 身体を揺さぶるもうんともすんとも言わなず、反応がない。どこかを打って怪我をしているのだろう。俺を庇ったせいで。力が入らない足でなんとか立ち上がり、携帯を手に取った。携帯を手に取り灰原を照らす。とくりと頭から血が出ているのが分かった。その瞬間、俺の中の血の気がひいていく。命をかけて助けた大切な人を殺してしまう。俺の不注意で。彼に近寄り、反転術式をかける。大丈夫。自分になら成功した。他人にだってできるはずだ。グッと力を込めても戻る気配はなんにもない。家入センパイはなんて言ってたっけ。グィーンでギュン?それともギュンギュンギューンという感じだったか。
 頭の中がぐるぐるとして訳がわからなくなってくる。

「やだ、だめだ、だめ。俺ならできる」

 そう自分自身に言い聞かせ、ぐっと奥歯を噛み、以前やったイメージを思い浮かべる。死体なら上手く治せるのに。ドクンドクンドクン。やけに心臓の音が大きく聞こえる。
 人一人救えなくて何が、呪術師だ。何が、当主だ。俺の馬鹿。

「…ゆう、ゆう」
「は、灰原、サン?気がついたの?今、治すから、俺が助けるから」
「大丈夫、だよ。だから、落ち着いて」

 灰原は優しく、手を添えるだけだ。俺の手を握りしめようとしてくれているのにその手には力が入っていないのが良く分かる。その手の中からじんわりと温もりを感じて、彼がまだ生きているという実感が湧いいてくる。

 大きく息を吸って深呼吸。
 慌ててどうする。
 俺は苗字家の当主。苗字名前。
 当主たるもの、いつも冷静であれ。
 父さんがそう言っていただろう。
 しっかりするんだ。
 苗字名前。

 自分で自分を叱咤する。少し荒くなっていた呼吸が落ち着いた様な気がした。
 反転術式とは、マイナスとマイナスの掛け合わせだ。自身の呪力をプラスに変換させないといけない。落ち着いて、息を吐き出す。自分の中に流れる呪力を捉える。呪力操作の基本のき。大丈夫だ。
 先程までに異様に大きかった心臓の音がやけに静かで、遠くの方で滴り落ちる水の音が聞こえる。
 灰原へプラスの呪力を流し、彼自身の再生能力を高める。灰原だって呪術師の端くれだ。ちょっとやそっとでは死なないだろう。

「大丈夫だかんね、俺がぜったい助けるから」

 その言葉は灰原にではなくまるで自分に言い聞かせているようだった。
 段々と灰原の患部が癒えていくのがわかる。額から溢れ出した汗がスッと頬に垂れた頃には彼の傷は癒えており、落ち着いた様子で眠りに落ちていた。後はなるべく早くここから抜け出して、家入センパイに見せないと。素人目では分からない事の方が多い。頭は特に。
 まだライトが付いていた携帯を手に取ると、充電が残りわずかであることが分かった。俺の携帯が壊れていなければまだ大丈夫だろう。そう思い自分の携帯を取り出すと画面にヒビが入っている程度で特に問題はなさそう。それに充電は残り七十パーセント程度。ならまだ充分だろう。自分の携帯から七海へ電話をするが、任務中なのか出ない。次は五条センパイへかけるも出ない。センパイの癖に生意気。仕方がないので、二人にはメールを入れておく。
 此処から出るには出口を探さねばならない。だが、出口は塞がれて道はない。灰原の近くでぎゅっと膝を抱えて踞る。
 俺の気持ちと同化しているのか、身体が冷えていく。先ほどまであれ程楽しかったのに。俺が冒険しようなんて言わなければよかった。今は笛もない。烏も呼べない。呪言擬きを使って呼んでもきてくれるか。
 落ち込む気持ちを振り払う様に頬を叩いた。ピリピリとした痛みが走る。
 センパイも七海も絶対来てくれる。烏も呼べばきっと来てくれるだろう。

『来い、烏』

 呪いを込めて喉を震わせる。発した音に来てくれるのか疑問だが、きっと来ると信じている。烏が来るにも時間がかかるだろう。その間に俺も動かねば。ここでじっとしていてはいられない。それに、奥からなんだか奇妙な気配を感じる。それに何かを超えた感覚もあった。その原因を探らないといけない。きっと俺らの脱出の手がかりになる筈だ。
 震える足に力を込めて立ち上がり、歩を進める。俺の携帯のライトで辺りを照らし、壁に手をつきながら進む。暗闇の中で俺は一人。先程まで隣を歩き、手を繋いでくれていた灰原はいない。俺一人で進んでいく。昔と違うのは怨念や亡霊の恨み辛みの声が聞こえないことだ。呪術師としては情けない事に俺は、その事実がある事でまだ前に進めるのだ。
 どれだけ前に進んだのか分からない。だが、携帯の充電は残り三十パーセントを切っており、何故か電波も圏外。携帯を振っても電波が復活すらしない。外界との連絡が取れなくなってしまった。このまま、戻ってもいいのだが、先程感じた気配がさらに強くなっている。俺はゆっくりとその気配を感じる方向へと真っ直ぐ足を進めていった。
 暫く歩くと洞窟の奥が少し開けており、天井が他の場所よりも高くドームの様になっている。天井の隙間からは太陽の光が漏れており、この空間を照らす。漏れ出る光により分かった事があった。それはこの場には丸く広く大きな池が存在しているという事。そして、今までずっと感じていた嫌な気配の元はこの池の中から発生しているという事だ。光に反射され、水の中に何か白いモノが池の底に落ちているのが見えた。違和感の正体を取り除けば俺たちは外へ出られるかもしれない。何かのヒントになればそれでいい。俺はそう思い、意を決して池の中に飛び込んだ。
 水の中は冷たく、さらに俺の肉体はひんやりと冷えていき、頭も同時に澄んでいくのを感じる。水の中でゆっくりと瞼を開けば、ぼやけた視界の中で白いモノだけがやけに鮮明に見えた。そちらの方へ泳いで行き、近くに向かえばその正体が判明した。白い正体は岩に埋め込まれたヒトだった。正確に言えばヒトのようなモノ。数年前に俺が森で見かけた人柱の様なものにそっくりだった。

ーー何故こんなところに…?

 前の【迷いの陣】も苗字家に伝わるものだった。それと似たものが今回はこんな海水浴場の端にある洞窟の中。だが、前と同じ様ならば行方不明者の一人や二人出ていても可笑しくはない。これは機能していなかったのだろうか。術者がポンコツだったのか、それとも、ただの保険か。ふと視界の端に、岩の下に更に何かが写った様な気がした。
 一度水面に顔を出し、息を整え、再び水の中へ。先程の岩よりも更に下へと潜っていく。岩の下には白い塊。ヒトよりも長く、太い紐の様なもの。しかし、太さは俺の胴回りよりも太く、大きい。その先を見る為に泳いでいくと、そこには見た事がある頭だった。
 それは図鑑だけでなく、あの日、十年前にも同じものを見たことがあった。
 俺が苗字名前であった時に、あの森で俺を殺した呪霊だった。蛇型の土地神。あれは俺を殺した後にセンパイ達に祓われたのではないのか。何故、ここに残っている。否、存在しているのだろうか。俺が触れてもぴくりとも動かない。動こうとしない。眠っているのだろうか。呪霊が眠るなんて聞いたことがないが。だが、確実に昔に会った時よりも弱くなっている様にも見えた。
 もう少し観察をしていたかったが、息が続かなくなりそうで、再び、水面へと上がろうとした。だが、それは阻止された。俺の足を掴んだのは岩に埋まったヒトであった。
 岩に埋まっていた筈なのに、何故俺の足を掴んでいるのだろうか。ぽこりと口から空気が漏れた。白いヒトは何か恨言を呟いている。何を言っているのか全く聞こえない。このヒトは生きてはいないだろう。死んでいる。死にながら生きている。僵尸の様に。こんなことが出来るのは苗字家の者しかいない。以前からずっと不思議だったのだ。あの時はまともに思考ができていなかった。あの空間に、別の呪霊と閉じこめられて、必死だったのだ。
 俺は黒いもやを、怨念を集め、俺の足を掴む腕を砕いた。そして、そのままの勢いで上へと浮上する。何とか水面に上がると、そのヒトは着いて来ていた。その手から逃れる様に俺は地面へと転がるように上がった。水から上がったことにより、俺の視界は攻め入りとなり、そのヒトの顔が明確に見えた。
 それは、銹紅(シューホン)兄さんの母親で父さんの正妻。
 苗字艶紅(イェンホン)。その人だった。
 水に上がった事でその恨言がはっきりと俺の耳に入る。

『オマエノセイダ』『オマエノセイダ』
『オマエサエウマレナケレバ』『オマエサエ』『ウマレナケレバ』
『ワタシガイチバン』『ナルハズダッタ』
『ワタシガ』『ムスコガ』
『トウシュ二』『ナルハズダッタ』
『オマエノセイダ』『オマエノセイダ』

 同じ事を何度も何度も繰り返している。まるで壊れたラジオの様に。あまりにも強い怨念に思わずが足がすくむ。
 何故、彼女がこんなところに囚われているんだ。呪霊にも成ることさえもできず、ただ、この俺を殺す為だけに此処に存在している。今の俺が此処に来るとは限らない筈なのに。
 艶紅(イェンホン)叔母さんは、俺のことをただがむしゃらに襲う。それだけだ。その攻撃は単調で、なんの捻りもない。しかし今の俺にはそれだけで充分だった。笛もなく、もやを使おうにしても体力が足りない。ここで使用して倒せなかった場合のリスクが高い。俺には早く助けが来てくれ。そう祈ることしかできなかった。

『ハヤクシネ』『シネ』『シンデシマエ』

 呪いの声だけが洞窟に響き渡る。死者である叔母さんは誰か使役されて僵尸になった筈。その術者さえ、殺してしまえば。いや、此処が洞窟なら殺すのはできないか。どうすればいいんだ。何か見つけられれば。
 そう思考を巡らせていると俺の真横を炎が通り過ぎ、唐突に叔母さんが燃え上がる。

「は」
「大丈夫?名前くん!」
「灰原、サン!?」

 その正体は灰原だった。灰原は頭を打って寝ていた筈。暫くは起き上がることはないと思っていたのに、何故こんなところに。起きるのが早すぎるだろう。それに、頭を打ったばかりでどんな後遺症があるかも分からない。

「灰原サン、逃げて!!」
「大丈夫だよ。僕もこう見えて呪術師だったんだよ」

 それは知っている。
 危険すぎるのだ。久しぶりに戦闘に参加する灰原には叔母さんの相手は難しいだろう。俺が言うことではないかもしれないが。それとこれは別だろう。
 灰原は俺の忠告を聞くわけもなく、此方に向かい手を拳銃のような形を取り叔母さんに向かい炎を放っている。灰原の術式【業炎】はその名の通り、呪力を炎へ変換させる術式だ。その炎で燃えぬものなどないと言われるほどの威力。だが今は水辺。火は水に弱いのは当然だ。叔母さんが水の中へ逃げて仕舞えばそれでおしまい。それに、あの術式は術者本人への負担も大きいのだ。

「名前くんは僕の後ろに!七海達がきっと来てくれるから大丈夫だよ」

 灰原は俺の前に立つと優しく、不安など感じさせない様にそう言うと、目の前にいる叔母さんに向かい合う。あれは俺を狙っているのだ。灰原の後ろにいる俺を。灰原がどれだけ応戦しても、彼女は此方へくることを諦めないだろう。俺は喉を震わせ、出る音に呪いを込める。

『来い』

 喉に強烈な痛みが走り咳が出たが、今の俺にはこれくらいしかできない。この地に眠る兵士達を呼び起こすのだ。現れた骨兵達に次の命令を下す。

『倒せ』

 たった二文字なのに以前に比べ格段に喉にダメージがきている。恐らく、あと一言で限界を迎えるだろう。それまでに烏が来てさえすれば。叔母さんは灰原の術式は不味いと考えたのか水の中へと飛び込んだ。そこまでの思考力があるのかどうかは謎だが、このまま水の中へいてくれれば、骨兵達により水中でも祓うことはできる可能性が出てくる。
 なんとかなるかもしれない。
 そう思っていたのに、願っていたのに、悪い事はいつも続く。
 ばしゃんと大きく水が波打つ。そして、その下から現れたのは俺を殺した大蛇と叔母さんだった。
 叔母さんは蛇と同化し、蛇の頭部より少し下あたりに上半身を生やすような形になっている。まるでアニメやゲームに出てくる敵のような風貌へと早変わりした。先程まで動く気配が何もなかった呪霊が何故今になって動き出したのだろうか。叔母さんの意思と同化しているとか、そんな馬鹿げた話はない。
 だが、今ここで何もしなければ俺たちはあの呪霊に殺されてしまう。灰原の等級は精々二級程度だろう。あの呪霊はあの時で特級だった筈。それが今の俺達に太刀打ちできるのだろうか。いや、これは前と同じだ。俺を殺す為だけに動いている。前と違い、俺を殺す為に周りを殺そうとはしていない。俺だけを殺そうとしている。だが、それにより彼らが死んではいみがない。
 俺はに大切なものを守らなければいけないんだ。
 彼の決意を踏み躙った様な形になり心が苦しくなる。灰原ごめんね。俺は何がなんでも君を生かしたいんだ。

「灰原サン、先に逃げて」
「駄目だよ。……僕はもう君を置いて逃げない。あの時みたいな事を二度とさせないから」
「でも…!」

 そう言われてしまうと俺はなにも言い返すことができなかった。あの時みたいな事というのは俺が死んだときの事だろう。あれは本当に申し訳ないと思っているが、あの時はあれしか方法がなかったのだ。今も俺がここで戦えば、灰原に被害が及ぶことはないだろう。良くも悪くも叔母さんの目的は俺だから。
 だが、灰原は引いてくれる気はないようだ。それでも、今の俺にできることは、灰原を守りながら、センパイ達が来るまで時間を稼ぐことだ。
 灰原を絶対にこれ以上怪我をさせない。殺させない。死なせない。
 呪霊は灰原の炎を浴びてダメージが入っていた。あの炎の攻撃が入ることは確かだ。だが、俺の骨兵達は呪霊に一瞬で蹴散らされてしまう。再び呼ぶにはもう一度音に怨念を乗せねばならない。あと一回位なら俺の喉は持つだろう。だが再び蹴散らせれて終わりだ。
 あれ程渋っていたのに、大切な命がここにあると、側にあると分かると使わずにはいられなかった。ここから先は俺の体力との勝負だ。
 この場に漂う怨念を俺の身体に纏わせる。下から上へと循環させる。ここはいつもより怨念の量も質も桁違いだ。どれだけの数を溜め込んだのか。いつもよりも強力なものの様に感じた。ふわりと髪がもやに包まれ、舞い、瞳に熱が籠っているような感覚があった。

「あだ名…?」
「大丈夫、俺が守るから」

 戸惑う灰原をよそに俺は笑いかけた。
 手に怨念を纏わせ、指先から黒いもやを呪霊へと動かした。それでも呪霊は俺のもやすらも弾いてしまう。もやが弾かれる事なんて今までなかったのに。俺が操る個々の怨念よりもこの呪霊が強いという事なのか。それもそうか、これは怨念が溜まった場所でずっと眠っていた呪霊だ。溜め込んでいても可笑しくはない。俺が殺された時から、もしかするとそれよりもずっと前から眠っていたのかもしれない。だが、全く同じ呪霊が二つもあるというのが信じられない。人間ではないのだから双子なんてあり得ないだろう。

「クソッ…」

 もやが呪霊に弾かれ、その長い尾で捕らえられた後に、今度は叔母さん自身に捕まってしまった。その細く、脆そうな腕は見た目に反して力強く、俺の首を片腕だけで軽々と持ち上げて、締め上げる。息苦しさに悶えながらも、黒いもやで叔母さんを攻撃し、なんとか緩めさせようとするも効果があるようには見えない。攻撃すればするほど更に力を強められこのままでは意識が遠いてしまう、そう思った時だ。俺の頬を掠めながら叔母さんに炎が当たり、呻き声を上げながら俺を手放した。俺はそのまま地面へと落下し、空中で一回転して着地できた。

「名前くん!大丈夫!?」
「平気、大丈夫だよ」
「僕にも守らせて。お願いだから」

 指を銃のような形にして、呪霊を攻撃しながら灰原はそう告げた。あまりにも真剣な様子に俺は頷くことしか出来なかった。俺が守る気だったのに、俺も守られる側だと思い知らされてしまう。あまり
 灰原の術式を主軸にあの呪霊を祓う。彼の肉体がどこまでもつのかが問題だ。あまり長い時間は難しいだろう。短期戦になる。

「灰原サン、あとどれだけもちそう?」
「…後、十分くらいかな」
「…分かった。うん、それで決着をつけよう」

 二人で顔を見合わせ頷くと、突如天井が崩れ落ちる。その衝撃で呪霊が瓦礫に埋まった。現れたのは烏だった。先程呼んだ彼がやっと来てくれたのだ。ヒーローは遅れてくるというやつなのか。彼は軽々と瓦礫の山を乗り越えて、俺へと近づいてくる。俺に何かを差し出したかと思えば、それは俺の笛だった。これを取りに行ってくれていたのだろう。本当に手間をかけさせたな。俺はそれを受け取るとくるり回した。

「……」
「ありがとう。これで三対一だ。…いけるよ、灰原サン、烏」

 呪霊が瓦礫を押し上げて、起き上がってくる。多少の物理ダメージは通るのか。それならば、笛さえあれば兵士達を呼び起こせるし、烏も強化できる。俺は笛に優しく口づけをし音を鳴らした。一番初めに動き出したのは烏だ。烏は呪霊に飛び乗り、そのまま地面に叩きつける。それと同時に灰原の術式の炎で燃やし尽くす。俺も兵士達を操り呪霊を、叔母さんへ攻撃を仕掛ける。それでも俺へ攻撃を仕掛けようとしてくるが、烏が防いでくれ、そのまま壁へと投げつけた。あの蛇を投げるだなんてどれだけ力があるんだよ。弱ったところですかさず灰原が炎で燃やし尽くす。

『オマエノ』『オマエノセイダ』『オマエナンテイナケレバ』

 それでもまだに俺への恨みを吐き続ける叔母さん。俺は指先から黒いもやを操り捕らえた。先ほど振り解かれたそれもこれだけ弱っていれば簡単だ。黒いもやは叔母さんの首から段々とその胴体へと伸縮していく。先程、払い除けられたのは叔母さんの、否、呪霊の怨念が俺が操っていたものよりも上だったからだろう。それが、今、この瞬間、俺はこの呪霊よりも強力な怨念を身に纏う事が出来ている。だから弾かれないのだろう。以前は効かなかったのに灰原の炎が効いている。俺が捕らえている後ろから灰原が炎を撃ちだしてくれている。
 ふわりと髪が舞い上がる。目が赤く染まる。もやが叔母さんだけでなく、蛇すらも飲み込んでいく。ぐっと指先へ力を込める。ぐぎり。骨が、身が軋むような音が鳴り響き、呪霊を小さく、その形を歪めていく。その様を見ながら、俺は大きく拍を打った。

「封!」

 その掛け声と共に呪霊は小さい球状になり、ぺたんと潰れるとそのまま塵となり、天に昇り消えていった。

『オマ』『エ』『ノセイ』『ダァァ』
「知らないよ。叔母さん」

 遺言のような、呪いの言葉を残して叔母さんの魂はやっと天に帰っていった。
 力を使いすぎたせいか少しくらっとするがそれよりも灰原だろう。頭を打って久しぶりの術式の行為。肉体への負担は大きいだろう。俺は瓦礫から飛び降りて、灰原の方へと近づいた。灰原はその場に座り込んでしまっており、俺はその前にしゃがみ込み顔を覗き込んだ。

「灰原サン、大丈夫?」
「ううん、平気。名前くんは大丈夫?」
「俺は全然大丈夫だよ。早くここから逃げよう。烏が天井に穴を開けたから、そこから崩れそうだもん」
「……」

 俺の言葉に少し不服そうに烏は顔を歪めている。だが、本当に烏が穴をあけた部分から崩れていきいる。

「烏、助けに来てくれてありがとう。早く逃げよう」
「……」

 こくりと頷くと俺と灰原を抱えて瓦礫に足をかけて、飛び上がり外へと飛び出てきた。その際に、誰かとすれ違ったが、烏はそんなことを気にかけることもなく、そのまま目的地へと走っていく。
 走って連れて行ってもらったその先には、七海がこちらへ向かって走ってきているのが見えた。烏はそっと俺達をその場に下してくれる。七海は肩で息を切らし、到着すると俺に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「名前、大丈夫ですか?」
「俺は平気だよ。それより灰原サンが、頭を打って…!」
「僕も大丈夫だよ、血も流れてないし」
「それでもダメ!俺は七海サンに連れて帰ってもらうから、烏。灰原サンを家入サンのところへ」
「……」

 烏は俺の頭へ優しく触れると灰原を米俵の様に担ぎあげて、高専のほうへと走っていった。俺達二人はそれを見送った。七海は俺の頭を優しく触れ、頭から頬へと手を滑らせる。まるで何かを確かめるようにそっと。

「本当に大丈夫ですよね?」
「うん、大丈夫。早く帰ろ」
「えぇ、そうですね。その前に名前も家入さんのところへ行きましょうか。怪我していますよね」

 七海はそういうと俺の事を抱き上げた。空は気が付けば夕暮れで、先程まで青かった海はオレンジ色の美しく輝いていた。

[*前] | [次#]

back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -