夏油傑の独白

 夏油傑にとって、苗字名前は弟のような存在であった。
 一つ下の後輩で、明るく太陽の様な存在。曲者揃いのこの呪術界で中国からやってきた転校生。夏油はまた変な奴が増えたのではないかと思っていたが、それは期待とは大きく外れた存在だった。総じてクズなどと評されるこの世界で、彼はいいヤツだった。少し悪戯好きなところは困ったところではあるものの、怒られて逃げてくるのが一番初めに自分のところへやってくる。自分へ対する信頼感。周りよりもちょっとした優越感の様なものを抱いていた。それだけ、彼のことを気に入っていたのだ。
 夏油が三年生に上がり暫くしてからの事。名前はそれよりも前から随分と忙しそうにしていたのは覚えていたが、彼がそんな様子であったと気を回す事も出来なくなっていた。彼はいつも通りだと。心の中でそう信じ込んでいた。
 あの雨の日。じめじめとした空気が自分の心さえも蝕んでいく様に感じていた。今までの自分の考えが全て否定されていた様な。今の行いが正しいのかどうか。夏油の頭の中でぐるぐると思考が堂々巡り。そんな時に自販機前の共有スペースに彼は現れた。こんな雨の日に似合わない程に明るく、この場を照らす。缶ジュースを二本持ってやってくる。夏油の目の前に座り込む様に彼の顔を見上げて笑う。撫でろとでも言いたい様なその顔に、つい手が伸びた。柔らかで、艶やかな髪。手触りの良いそれをつい堪能してしまう。
 ふにゃふにゃと嬉しそうに笑う彼は、コトンと彼に缶ジュースを渡してくる。

「振ってない?」
「んふふっ、夏油センパイにそんなことしないよ」

 そう笑う彼を怪しむフリをして、プルトップに手をかけた。あの子が自分に対してそんな事はしないと知っていたからである。彼が悪戯を仕掛けるのは、自分の親友だけだと知っていた。可愛らしい悪戯ならしてくれても良いのに、なんて思っていても口には出さなかった。出せるわけがなかった。彼にとって、いつもいい兄でいたかったから。
 名前は唐突に自分の髪を結っていた紐を解いた。ふわりと彼の長い髪が重力に逆らう様に少しだけ舞い上がり、そして、落ちる。自分の結紐を夏油の手に乗せると慣れた様に足の間に腰をおろしてきた。少し結びにくい体制だが、仕方がない。可愛い後輩が望む事だ。手櫛で髪をといてやれば、夏油に体重を預ける様にもたれてくる。
 そして、ポツリと呟いたのは謝罪の言葉であった。彼に謝られる様な事はなかった。心当たりとすれば、五条に何かまたやらかしたのかという事だろうけれど。

「……今しんどい思いしてるのは、たぶん、俺のせいだから」
「どういうことだ?」
「んー、もう少しで色々と終わらせるから、その後に話すから。まってて」
「…今は教えてくれないの?」

 そう聞くも彼はまだ教えてあげないと笑い、自身の髪で夏油をくすぐって来た。
 夏油には彼がいう”しんどい思い”の心当たりはあった。だが、それを彼のせいだと思った事は一度もなく、勿論親友のせいだとも思っていなかった。優しい彼の事だ、何かしらの考えや想いがあるのだろう。それを告げてくれればどれだけ嬉しかったか、分からない。いや、誰にも相談することもできなかったのは自分も人のことは言えないか、夏油は心のどこかでそんなことを思っていた。
 名前の髪を結い終われば、立ち上がり夏油を見下ろした。目と目が合う。しとしとと地面を打つ水の音がやけに大きく聞こえる。時間の感覚が狂ったのか、やけに長く時間が過ぎていく様に感じた。名前は夏油の瞳を見つめながら、ゆっくりと口を開く。

「もしセンパイが死んだら俺のモノにしてあげる」

 残酷な事を言っている様に聞こえるその言葉の裏腹にその顔はやけに優しく、穏やかなものであった。
 夏油は気が付いた時には差し出された小指に自分の指を絡めている。

「約束だよ」
「楽しみにしてる」

 それは小さな子どもが親とする約束の様だった。
 単純な行為がやけに嬉しくて、不思議と安心感があった。死んでも彼と一緒にいられるのか。そう思うだなんて、本当におままごとの様だ。
 そんな約束をしてしばらく経った時のこと。彼が死んだというニュースが入ってきたのだ。彼の存在を妬んだ呪術師に殺されたと。
 あんな約束をしておいて、何故君が先に死ぬんだ。そんな憤りをぶつけることはできなかった。ぶつけられる相手もいないのだ。
 彼が死んで、彼が自分の代わりに任務を請け負っていた事を知ってしまった。名前は人間のドロドロとした汚く穢らわしい部分をその太陽の様に明るく澄んだ瞳で見つめてきたのである。夏油でさえ辛く、精神を蝕んだものを彼はそんな様子を表に出すこともなく、平然と、いつもの様に振る舞い笑っていた。きっと名前はこれを墓場まで持って行きたかったのだろう。もう少しで終わると言っていたのだから、彼の事だ。そんなことなんて知らないなんて言って、素知らぬ顔をしてしまうのが苗字名前という男なのである。
 だから、彼の父親からまさ名前が生き返るなどと言った話を聞いた時。嘘だと思った。あり得ないと。だが、それを言った彼の瞳は本気で、もしかすればと縋ってみたくもなったのだ。だから、彼は口を挟む事なく、その事実を受け入れた。
 再び彼に会える事を望んでしまった。
 呪術師ではなく、呪詛師に転じた後でも彼はいつ彼が甦る事を信じていた。だから、彼の遺品が入ってあったトランクに仕掛けを施した。そのトランクが開くときはきっと、彼が戻ってきた証だと思っていたからである。

――九年後。

 その日、トランクケースが開いた。親友が開けたのである。それが、苗字名前が戻ってきた事の証明になった。
 名前はずっと七海の近くにいた。七海と灰原と共に昔の様に楽しく過ごしていた。本当は彼を自分の方へ引きずりこみたかった。自分の手の中に、手の届く範囲にさえいれば彼を再び死なせてしまうなんて事はないと思っていた。
 だが、彼は呪術師に、私怨によってその命を落としたのも事実。夏油の理想に賛同してくるのか、不安もあったのだ。もしかすれば、彼はこのまま一般人として、猿として生きたいと思っていたりしないだろうか。もしそうであれば、彼を止めることも殺すこともできない。あの優しく、清廉な魂を汚れた手で奪えない。
 その意思を確認したくて、仮面でその顔を隠し、猿の群れに紛れ込み、彼に接触した。幼い名前とその友人を引き離すことなんて容易い事だった。ぶつかった衝撃で、りんご飴を落としてしまい、代わりのを買ってあげるといえば、簡単についてきた。それに、初めてあった怪しい男の手を簡単に繋いでしまう。この警戒心の無さが寧ろ心配になってしまう程に。あの七海達と一緒に住んでいるのだ。それくらいのことはきちんと教えられているであろうに。初めてあった筈の男に昔からの知り合いの様に、夏油傑と一緒にいる時の様に信頼していたのである。
 彼らは本殿の縁側に腰をかけて話し出した。その話ぶりは久しぶりにあった親戚の子どもと話す様なぎこちなさ。約十年振りに久しぶりにこうして二人きりで話す。あの雨の日以来に。ぼんやりと名前を見つめていると彼は星を掴む様に手を伸ばしていた。そのまままた星に連れさらわれてしまいそうにも見えた。

「…私と来るかい?…私とくれば、前の様な思いはしないで済む」

 戸惑っている彼の言葉を無視して進めた。彼に記憶があるだなんてまだ確信すら持っていなかったのに。気が付いた時には口から滑り落ちていた。言ってしまった。彼を困らせてしまうかも知れない。そう思うと目が泳ぐ。

「俺はいかないよ。今も大切なものを守りたいんだ。俺の手からこぼれ落ちてしまわないように。だから、いけない。ごめんね」
「……ははっ、君ならそういうと思ったよ」
「そう?これ、あげる。髪の毛鬱陶しいでしょ?…だから、代わりにこれ頂戴」

 彼は再び自分の結紐に手を伸ばし、するりと抜く。ふわふわと舞う彼の髪。名前はそんな事を気にすることもなく、夏油の頭の後ろに腕を回し、面の紐を外した。するりと取れ、名前と瞳があった。優しく彼は微笑んだ、

「なら交換だね」
「うん、大切にしてね」
「勿論」

 その手で名前の頬を撫でた。彼はここに存在している。記憶もある。夏油傑を認識している。きっと夏油の事情も知っているだろう。だが、それを口にせず、きっと誰にも言わない。人の秘密を漏らすことはない。そんな子どもだったからだ。
 本当に術は成功した。よかった。よかった。

「あの約束、忘れないでね?死んだら、俺のモノだから」
「勿論さ。…また会おう、あだ名」

 名前はそう言うと光の中へと足を進めていった。ここで、夏油と名前の道は別れたのである。
 二人の邂逅はそれからすぐのことであった。
―― 一二月二四日。
 名前が高専にいることは知っていた。七海なら高専が一番安全だと信じて、彼をここに預けるだろうから。そして、ここで戦闘になれば出てくるであろうことも。知っていた。それを予測していた。それなのに、彼との戦闘はしたくはなかったのだ。彼のその肌に傷をつけたくはない。だから、彼の僵尸が現れてくれたことにホッとした自分もいた。
 夏油は心のどこかで名前が自分の意見に賛同してくれることを望んでいた。自分の隣に立ってくれるのだと。彼なら理解してくれるのではないかと。自分の中で矛盾を抱えていた事にも気が付いていた。気が付いていたのに。

「残念だ。名前」

 当てる気は無かった。当てる前に烏がどうにかするだろうと、そう信じていた。それなのに、夏油の攻撃は名前に当たってしまう。この中で烏が真っ先に行動したのが分かったのは、自分の体からその重みが消えたから。だが、胸の辺りがぎゅっと苦しく、辛く、重たくなっていく。
 その後のことはあまりよく覚えていない。
 乙骨との戦闘の後、生きて逃げることができた。だが、そこが終わりだった。やっと親友が彼の前に姿を現したのである。
 壁にもたれるように座り込む。彼と繋いだ小指を見つめる。

「悟。死んだら、私の遺体は名前にあげてくれ。……そういう約束なんだ」
「は?なにオマエらそういう関係だったわけ?」
「そんなわけないだろう。私は彼になにもしてあげられなかったからね」

 五条はそんな夏油の様子を呆れたように見ていた。繋いだ薬指を見つめるその瞳は大切な何かを想うものであった。

――ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます。
――ゆびきった。

 まるで子どもの口約束。
 そんな約束に想いをのせて。
 彼はその日。人生の一幕目を終えた。

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