02

 数日後。
 俺の門限は一時間も早くなった。学校終わりにちょっと遊ぶことしかできず、すぐに帰宅しなければならないのがちょっとネックだ。自業自得なのだけれど。基本はまっすぐ帰って、ニ人を待つ。そんな日々だ。
 最近は本当にいい子にしていたはずなのに。七海や灰原のお手伝いもして、宿題もちゃんと毎日出していた。
 しかし、俺の目の前に立ちはだかるは黒い壁。正確には壁ではなく、真っ黒な服を着た大男。白い髪を逆立たせ、何故か包帯で目元をぐるぐる巻にしている。そんな大男が通学路のど真ん中に立っており、俺のことを見さげている。隠されてある目と目があったような気がし、思わず凍りついてしまう。逃げ出したい筈なのに体がうんともすんとも言わない。

「ほんと、そっくり」
「ひぇっ…」

 思わず手から帰り道に拾った丁度いい枝が滑り落ちる。その枝が落ちた音で凍りついてた身体は溶けた。そのままの勢いで俺はランドセル付いていた、防犯ブザーを勢いよく引っ張った。けたたましい音が辺りに鳴り響く。こんなもの使うことはないと思っていたのに使ってしまった。
 呆気に取られている不審者を放置し、俺は走り出した。
 なるべく早く、なるべく遠くへ。
 そう思いながら必死に足を動かす。途中で足がもつれそうになるもののなんとか堪えた。ちらりと後ろを見ると不審者が俺の後を追ってきているのが見えた。

「なんで、来るんだよぉぉ!!誰か、助けてぇ…!!」

 前がぼやけて見えにくくなる。どうしてこの男はついて来るのだろう。なぜ逃げないのか。普通は逃げるだろう。
 なんとか逃げようと塀の上に飛び乗り、他人の屋根から屋根へと渡る。
 ここまではこれないだろう。
 そう安堵するも、すぐに気配を感じる。後ろにはあの男。屋根の上まで付いてきたのだ。どんな身体能力をしているのだろうか。屋根まで来たら諦めてほしい。俺は屋根から屋根へと飛び移ったり、路地に入ったり、撒こうとしても全然撒けない。途中で木から拝借した葉に呪いを込め、亡霊で押さえつけ、動きを止めようとしたが、張り付く少し前に何故か弾かれ、散りとかした。

「やっぱり」
「来ないでよ!」

 どうやったら逃げられるのか、そう考えているとよく見知った顔が歩いているのが見えた。俺は迷わず飛び降り、彼に抱きついた。

「七海!…サン!!」
「名前!?どうしたのですか、一体」
「変なひとに、追われてる!たすけて!」
「わかりました。下がっていてください」

 そういうと七海は俺を降ろすと自分の背後に隠すように自身の後ろへと促した。防犯ブザーは取り敢えず止めたのであの音は鳴らないが、あれだけ鳴らしたのに追いかけて来るとは防犯ブザーは本当は意味ないのではと思えてきた。
 そんな気持ちを誤魔化すように七海の腰に抱きつき身体を密着させる。優しく頭を撫でられほっと一息。たったこれだけなのに先ほどの恐ろしい感覚は消え去った。
 七海の前に先ほどまで俺を追いかけてきた不審者が降り立つ音が聞こえ、少し身体を強張らせる。七海が一般人に負けるわけないのだが、この不審者は身体能力が高すぎて不安になるところもある。

「……はぁ、こんなところで何しているんですか。五条さん」
「だって、面白そうなの見つけたんだもん!…しかもそれをまさか七海が囲ってるなんてなぁ。なんでおしえてくれなかったの?」
「…こうなるのが分かってたからですよ。面倒くさい」

(五条さん!?)

 五条さんとはあの五条さんなのだろうか。俺の知っている五条センパイなのか。俺の知っているイメージとは全然違う。あのヤンキー感丸出しで、変顔が得意で、悪戯にすぐ引っかかるちょろいひと。それがなぜ、こんな不審者になるのだろうか。しかも喋り方も違う。
 俺は思わず七海の後ろから五条センパイ(仮)を見ようと顔を出してみると目と鼻の先に、あの特徴的な青い海の様な透き通る様な瞳。

「ひぇっ」

 小さな悲鳴を溢してしまい、再び七海の後ろに隠れてしまった。センパイ(偽)は、それを追う様にこちらを覗き込んでくる。その視線から逃げるように動けば更に追ってくる。

「いい加減にしてください、五条さん」
「本当、あの子にそっくり。いや、そのまんまなんだもん」
「…えぇ」
「七海サン?」
「……気にしないでいいんですよ。ほら、こんな人放っておいて帰りましょうか」

 七海は優しく笑い俺の手を握ってくれ、ぎゅっと握り返した。七海の反対側の手にはスーパーのビニール袋。今日の晩御飯の材料なのだろう。

「今日の晩ご飯はなぁに?僕も七海のご飯食べたい
「貴方は任務があるでしょう。早くいってください」
「僕、今日もう任務ないんだよねぇ。ほら、いいだろ?」

 五条センパイは昔と同じ様に七海に肩を組んできている。案の定、七海は面倒臭そうにため息をこぼしていた。俺がいた頃と同じ様な光景に少し懐かしい気持ちになる。

「……分かりました」
「やったね!」

 七海は本当に嫌そうに、嫌々言っているが五条センパイは相変わらず気にしていない。五条センパイは七海に絡むのが相変わらず好きだな。それにしても態々、家に招くなんて七海は嫌そうなのに何故許したんだろう。不思議。センパイに逆らったら後が面倒だからだろうか。
 センパイはにまにまとチシャ猫の様に笑い、俺の顔を覗き込んでくる。

「よろしくね、あだ名くん」
「…よ、よろしく」

 俺は七海の腰に抱きつき、隠れた。なんだか、五条センパイの目が怖い。観察されているのか、監視
されているのか分からないのがすごく恐ろしい。センパイってこんなに怖かっただろうか。それとも――俺が縮んだからか、追いかけられたからか、大きくて余計に怖いのかもしれない。
 七海に隠れていると鼻で笑われてしまう。七海が俺と五条センパイの間に立ち塞がる。

「…早く行きましょう」

 俺は七海に手を引かれる様に歩き出した。ちらりと七海を見上げれば、やっぱりちょっと不機嫌そう。嫌なら断ればいいのに。どうかしたのだろうか。



 帰宅すると、五条センパイは我が物顔でリビングのソファを陣取っている。長い足が更に長く見える。七海が座っていてもそうだが、センパイの場合は威圧感というか、存在感というか。馴染んでいない感じがすごい。

「名前、ご飯の用意するので、できるまで宿題してきなさい」
「はぁい」

 七海に促されて我が物顔で居座る五条センパイを尻目に自分の部屋に戻った。
 ランドセルを置いて、ベットに寝転がり、癖で近くで充電していたゲーム機に手を伸ばす。これは灰原が去年のクリスマスに買ってくれたものだ。サンタさんという程でく貰ったのだが、俺は知っている。俺は寝ている間に灰原がこっそり忍び込んできたことを。大人の夢を壊さないであげるのも子どもの役割だと、この約八年間でやっと知ったのだ。
 最近はモンスターをハントするゲームにハマっている。素材が全然落ちなくて欲しい装備が作れない。宿題しないとなんだけど、友だちと一緒に狩に行く約束もしているし、それまでになるべく集めておきたい。「名前!すげー!」と言われたい。まぁ、一緒になっ集めに行ってもいいんだけれど。俺がみんなの中で一番弱いから付き合わせるのも申し訳ない。
 俺がベットの上で寝転びながらゲームに興じていると、視線を感じ思わず起き上がった。扉が開いており、その隙間から青い瞳と目が合う。

「な、七海、サン…」
「名前、宿題はやったんですか」
「…イ、イマカラ、ヤリマス」

 ゲームをセーブし、そっと閉じてベットの上に置いて机に向かった。七海は俺がゲームしていたら分かるセンサーでも付いているのかな。今日の宿題はプリントがニ枚と音読。今日、灰原が来るなら彼にお願いしようかな。七海は五条センパイの相手しないといけないだろうし。

 くるりと指の上でペンを回しながらぼんやりと考える。この前見た印。あれが引っかかって仕方がない。あの男はきっと巻き込まれた側の人間だろうし、ただの悪戯ならいいのだけれど、そうではなく実験でもっと大きく面倒なことでなければいいのだけれど。またあの森に行きたいけど、門限が一番の問題だ。門限が少し遅くなればいいが、しばらくはならないだろうな。七海は柔軟に見えて硬いところもある。灰原なら、いや、俺の教育方針的な問題で七海に頭が上がらないからあまりアテにはできない。

「どーしよっかな」

 ぼんやりと椅子を倒しながら天井を眺めていると目の前に白と黒が眼前に現れ、後ろに倒れてしまう。

「なーにが?」
「うわぁあ!」

 頭を打つ直前でがしりと支えられ、なんとか難を逃れた。俺の部屋に突然で現れたのは、七海と話していたであろう五条センパイだ。

「な、なんでいる!」
「えー、ちゃんと声かけたよ?」
「絶対、ウソだ!」

 首を上にしたまま五条センパイに捕獲されたまま、俺は体勢を戻せずに上を向いたままだ。少し首が苦しい。その体勢を戻す様に勢いをつけて椅子を元に戻そうとしたら掴まれたまま戻すことも出来ず、仕方がなく首はそのままにした。首痛めたらセンパイのせいだからな。

「全く、なんのよう??俺、宿題しないといけないんだけど」
「君に聞きたいことがあるんだよね」
「聞きたいこと?」
「そ、コレのこと」

 五条センパイは俺の椅子を元に戻してくれると、プリント片隅に書いた印を指さした。にやにやと楽しそうに笑いながら口を開いている。

「コレなにか教えて」
「オ、オレ、ヨクシラナイ」
「本当に?」
「ほ、ホント!他に用がないから俺、宿題しないとだし」

 俺は机に置かれた国語の教科書を手に取って、自分の部屋なのに逃げる様に飛び出した。七海に今日の音読のサイン貰わなければならない。
 本当に何故、俺が五条センパイに迫られて、センパイに振り回されなければいけないのか。誠に遺憾の意。絶対、後でぎゃふんと言わせてやる。
 だが、余計なことをして正直に言えば五条センパイにもバレたくはないのもあるのだ。

 俺がリビングに行くと、七海がキッチンに立っており、灰原がそれを手伝っていた。

「灰原サン!来てたの?」

 俺が声をかけると振り返ってくれる。

「うん、今日は仕事が早く終わってね」
「やった!灰原サン、音読のサイン頂戴」
「いいよ」

 灰原は流しで手を洗って、こちらへやってきてくれた。そのまま、リビングの椅子に腰を下ろしたのを確認して、灰原の近くに歩み寄った。ぺらぺらと国語の教科書の指定のページを開いて口を開いた。
 読むのは『ちいちゃんのかげおくり』
 主人公のちいちゃんがお父さんにかげおくりというを教えてもらうお話。子どもには難しすぎるのではないかと思えてしまう、戦時中の残酷さを描いたものである。多分、子どもよりも大人に刺さるものなのだろう。むしろ、大人に刺さるものの方が多いと思う。あと、ごんぎつねは子どものトラウマだと思う。悲しすぎる。

 俺が読み終わると灰原がよくできましたと褒めてくれ、頬が緩む。昔から撫でられるのも褒められるのも結構好きだったり。
 音読のサインを書いてくれてコレで宿題は終わり。プリントはあと少しなんだけど、夜にしようかな。俺の邪魔をした五条センパイのせいだ。
 俺はそのままリビングのソファに寝転がりテレビをつけた。

「名前、宿題は終わったんですか?」
「ウン!終わったヨ!!」
「……はぁ、分かりました。もう少しで出来上がりますよ」
「はーい!」

 テレビでやっているアニメを見ながら、鼻をくすぐる様な美味しい匂いにお腹が音を鳴らす。ご飯ももう少しで出来上がるし、今日の晩ご飯はなんなんだろうか。この匂い的にはお肉系だろうな。
 楽しみに待っているとどさりと俺の隣に五条センパイが座ってくる。俺は身体を起こし、ひと一人分空けて座り直すと更に近づいてきた。また少し離れると再び近づいてくる。立ち上がりソファの反対側へ移動すれば、こちらに。まるでイタチごっこのように。

「なんで、くんの!」
「え、嫌なの?」
「イヤ!くんな不審者!」

 俺が逃げればまた追いかけてくる。この五条センパイは俺の知っているセンパイじゃないみたいで調子が狂いすぎる。灰原の後ろに逃げこんだ。

「五条さん、名前くんに何かしました?」
「別に何もしてないよ?」
「泣いている子どもを追いかけ回したじゃないですか。それだけで充分ですよ。…ほら名前、運んでください」
「はーい!」

 七海に頼まれて手伝いに行く前に五条センパイの方へ近づいていく。俺が近づいてきたのを不思議そうに小首を傾げている。

「手、出して」

 素直に出してくれるその手の上の上にポケットに入れていたものをそっと掌の上に置く。

「あげる」

 そういい残して七海たちの方へと向かった。

「え、ギャァ!」

 俺が手の中に置いたものを見た五条センパイがソファの上で騒いでいる。俺はその姿を尻 目で見ながら小さく舌を出した。ふふーん、リアルなゴキブリのオモチャを雑貨屋さんで買っておいてよかった。流石に七海や灰原には使えないし。ありがとう、センパイ。センパイが俺に意地悪をするから悪いんだ。

「……クソガキ」

 センパイが俺に腹を立てているのは日常茶飯事だったので放置した。むしろ、センパイへ仕返しが出来てほくほくした気持ちで七海のお手伝いをしたのだった。

 やっぱり今日の晩ご飯はハンバーグだった。パンとスープもついていて、サラダもある。レストランに出てくる料理みたいに美味しそうで食欲をそそられる。だがしかし、ハンバーグに添える様ににんじんを置かれているのだけは気に入らない。何故ににんじん。何故に彩のオレンジ。赤でもいいのに。

「これあげる」

 俺はあまりにんじんは得意ではない。別に嫌いではないのだが、得意ではない。だから五条センパイのお皿に転がしても大丈夫だろう。センパイはきっとにんじんが大好物だったと思うし。

「名前。自分で食べなさい」
「…にんじんさんが俺には食べられたくないって言ってた」
「子どもですか、貴方は」
「子どもだもん!」
「そうですね。なら、大きくなるために食べないといけないですね」
「うー」

 七海は嫌がらせの様に俺のお皿ににんじんを乗せてきた。隣で五条センパイが笑っているのが見なくても気配でわかる。そんな苛立ちをぶつける様にフォークでにんじんを何個かまとめて突き刺した。そのまま、五条センパイの方にあーんとしたが断られ、灰原にも断られ、七海にも当然断られる。
 誰も食べてくれる人がおらず、鼻を指でつまみ息を止めて、口に運ぶ。にんじん独特の味が、匂いが口の中に広がり顔が少し歪む。そんな様子を見て、灰原が俺のお皿から残りのにんじんを取ってくれた。

「灰原サン…!!」
「よくがんばったね」
「灰原。あまり甘やかさないでください」
「でも、ほら頑張ってるし。ね?」

 七海たちがいつものように俺への教育方針で揉めている間に俺はハンバーグを平らげてしまおう。じゅわりと肉汁が口の中に広がる。俺はそれを味わいながらのんびりとご飯を食べていると急に誰かに頭を掴まれた。この家の中でそんなことをする奴なんて今ここに一人しかいない。

「あ、そうだ、七海。この子借りるね」
「駄目です」
「いいじゃん。ちょっとだけ!どうせ、この子も呪術師になるんでしょう?なら先に勉強させておいても」
「名前に悪影響です」

 やっぱりセンパイも俺が呪術師になりたい、否、なるということは知っているみたいだ。七海が相談でもしたのかな。でも、七海のことだし本当に重大な時しかセンパイなんかにしなさそう。センパイにするよりも夏油センパイとか、夜蛾センセイとかにしそうだ。夏油センパイの方がクズだけど、クズの中では比較的マトモにみえるし。
 センパイの中での決定事項を七海はひっくり返すことは難しいだろうし、借りるというのはなんの件なのだろうか。
 俺がモグモグとハンバーグを咀嚼していると灰原に口元を拭かれる。慣れたとはいえ、本当に小さい子どもみたい。いや、ずっと昔からこうだった気もする。俺、末っ子気質だし。実際にそうだったけれど。
 彼らの言い争いも終わったのか、七海が諦めた様に溜息をこぼしている。やっぱり七海が折れた。

「ってことで、明日僕と一緒にハイキングね」
「…俺、明日、友だちと遊ぶから無理」
「もう決まったことだから!」
「…明日学校」
「七海には許可もらったよ!」

 俺がチラリと七海の方を見ると眉間の皺をこれでもかという程深く刻みこんでいる。灰原は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべているし。

「てわけだから!僕もう帰るね」

 五条センパイはそれだけ告げると、ご馳走様も言わずにとっとと帰ってしまった。ハンバーグはにんじんだけ残して綺麗に平らげている。本当に昔より嵐みたいな人になった気がする。
 明日、どんな悪戯を仕掛けてやろうか。
 俺は少し楽しみになり口角をあげた。



 翌日。
 俺は五条センパイに校門前で待ち伏せされていた。そんなことをしても別に逃げないのに。女の子たちはイケメンが校門前にいるってだけでキャーキャーと騒いでいる。どうやればあの空間をぶち壊せるかな。昨日夜なべして作ったクソ爆弾でも投げ込もうか。でもそうしたら女の子たちにも被害が及ぶ。
 俺はそんなことを考えながら、ランドセルの中に入れておいた。鼠花火に火をつけ、彼女たちが騒いでいる真ん中へ投げ込んだ。これバレたら七海が呼び出されるけど、俺はそんなヘマはしない。

「きゃぁ!!」
「なに!?」

 女の子達は驚く声と共に虫のように散り散りになっていく。俺は誰一人いなくなった所で素知らぬ顔でセンパイに近づいた。

「態々、学校まで迎えに来なくてもいいのに」
「だって、逃げるでしょ?」
「そんな真似しないって。ハイキングってどこ行くの?」
「ヒミツ」

 俺はポケットに突っ込んでいたガムを口に放り込むとそのまま車に乗せられた。運転手はまさかの伊知地で未だにセンパイにパシられているのかと思うと少し同情する。頑張れ、強く生きろ。
 車の中は存外静かで俺はくちゃくちゃとガムを噛みながらぼんやりと流れゆく街並みを眺めていると、隣から紙の束を渡された。受け取ってみてみるとどうやら今回の任務の資料の様。思わずセンパイの顔を二度見したのは悪くないだろう。子どもになんてものを渡しているんだ、まったく。
 にまにまと笑っているセンパイを尻目に俺はページをめくった。運転席の伊知地が笑っているセンパイに可哀想なくらい動揺している。俺は優しくていいセンパイだったからあまりしたくないのだが、仕方がない。年功序列というし、事故らなければその反応も面白いので見守りたい。

「食べる?」

 俺はポケットからガムを取り出してセンパイへ差し出した。センパイは疑いもなくするりとガムを引き抜いた。それと同時にパチン!という音が鳴り、期待を胸にし横目でそっとみれば、ガムを片手に笑っている顔が見えたのだ。

「引っかかると思った?バーカ、バーカ!」
「バカって言う方がバカなんだからな!!」
「バカって言ったらあだ名の方がバカだね」
「む」

 ぶすりと頬を膨らませればそこに溜まった空気を追い出すように必要に突いてくる。払い除けても払い除けても突いてくる。

「やめて!」
「えー、いいでしょ?」
「生意気!」
「オマエがね」

 俺がそっぽを向くとねぇねぇとずっと言ってくる。センパイにかわされた悔しさを誤魔化すように、もらった資料に目をやった。相変わらずセンパイは煩かったが、無視だ。

 資料をめくればそこには山に入ったものが行方不明になっているというものだった。しかし、入ったもの全員が行方不明になっているわけではなく、数日のうちに戻った人間もいると言う。戻ったものは総じて「森で迷子になった」とだけしか言うことはなく、戻った後も亡くなったという話もない。
 ただ、中と外の時間が異なると言う。中での一日が外ではニ日。つまりは中に入れば時間の速度が現実の時間よりも遅くなる。
 報告によれば中には一級からニ級相当の呪霊が数体いるとのことだが、その報告を電話連絡した窓も森に入ったきり行方不明。
 なぜ、この程度の案件に五条センパイが駆狩り出されるのだろう。別に他の呪術師でもいいのにと思いつつも報告書を読んでいれば車が停止する。そして車の助手席に座ったのはこの前あったブレザー姿の男だった。彼は不機嫌そうな顔で振り返り、こちらを見る。

「…何のようですか、五条さん。それとその子は?」
「今回のスペシャルゲスト!苗字名前くんです!」

 ドンドンぱふぱふと恥ずかしげもなく口で言うセンパイに彼は冷たい視線を送っていた。そんなことを言うセンパイはちょっとそれは古いと思う。
 俺は助手席から覗き込むように前のめりになった。

「よろしく、オニーサン」
「…どうも」
「恵ったら愛想悪い。この子が伏黒恵ね。この前あったでしょ?」
「うん。犬触らせてくれた」

 俺が席に戻るとセンパイが伏黒の頬を突いていた。あまりの鬱陶しさに払い除けていたが、諦めていない感じがやはりセンパイという感覚。子どもっぽいところが特に。
 今回は彼と俺との共同任務という扱いになるのだろうか。そもそも今の俺はほんの少しだけ特殊な術式は使える一般人で、呪術師でも何でもないのだがいいのだろうか。そんなことを考えているとセンパイが口を開く。

「あの森に行ってもらうんだけど、恵だけじゃまた迷子になっちゃうでしょ?そこで迷子防止に連れてきたわけ!」
「巻き込んでもいいんですか?」
「平気平気。七海からは許可はもらってるし、あだ名もこれくらいなら大丈夫でしょ」
「…俺、子どもだからわかんなーい」
「またまたそんなこと言って」

 これ本当にバレてる気がする。俺この姿では今まであったことなかったはず。術式も使ったのはこの前追いかけられた時だろう。六眼はそこまで見通すことができるのだろうか。俺の認識として、なんでも見通すことができるとんでも視力だと思っていたのに違うのかな。
 俺は後ろから助手席の伏黒に資料を渡すと、窓の外を眺める。すると窓越しにセンパイと目があったような気がした。
 大人になったセンパイ怖い。
 だが、俺にはセンパイにもバレてはいけない理由があるのだ。

 

 それから数十分後。辿り着いたのは森の近くの駐車所。すぐ近くに山道があった。こんな所なら帳は張らなくてもいいだろう。俺は座席に置いたランドセルからリコーダーだけを抜き取り車から降りて大きく深呼吸。暫くすれば他のニ人も降りてきた。
 伊知地が心配そうにこちらを見ているが気にしない。何かあればセンパイに言ってほしい。
 俺は森を見上げた。そこは鬱蒼と木々が生えており。葉は美しい緑の色彩ではあるが、この森全体の雰囲気が暗く、重く、そんな葉の美しさなど微塵も感じさせることはない。そして、この森全体に以前感じたもののと同じ気を感じた。否、以前感じたものよりも莫大な力を感じたのだ。

「なにか、分かった?」
「んーん、俺の子どもだからよくわかんなぁい」
「ふぅん」

 センパイが俺の頭を掴み聞いてくるが某高校生探偵のように誤魔化しておいた。最終的に「僕、ちょっとトイレ!」からの麻酔銃コースも検討しなければ。
 そんなことを考えてるとセンパイが先導する形で山道へと足を進めた。
 暫く足を進めた時、ある一点を超えた時だった。前と同じ違和感が俺を駆け巡る。陣の中に入った。この感覚にセンパイも感じたのか、目があったような気がした。

「オニーサン、気をつけて。迷子になっちゃう」
「コイツが匂いを覚えておくから大丈夫だ」
「ねぇ僕は?」
「五条サンは大丈夫」

 伏黒はそういうとこの前出した犬が彼の影からぬるっと出てきた。白いもふもふと黒いもふもふである。この前よりも凛とした顔つきをしているような気がした。そして俺ももふもふしたい気持ちを抑えていた。あまりにも見つめすぎたのか、俺の足に白い方の犬が擦り寄ってきた。可愛いくて思わずもふもふしてしまう。

「玉犬。ついていてやれ」
「いいの?!んふふ、よろしくね、わんちゃん」
「わふっ」

 俺がもふもふ撫でてやるとぺろりと挨拶でもするように頬を舐められる。大きいわんこ可愛い。

「僕は?僕は?」
「五条さんはいらないでしょう」
「ずるい!」

 場違いにもセンパイは騒ぎ出しそうになっている。子ども俺より子どもみたい。あ、元々か。
 あとは印を壊してしまえばいいのだけれど、先ほど車の中で読んだ資料に書いてあったことも気になる。時間の流れについてだ。本来、迷いの陣にはそういう効果はない。この前のは、俺の時間の感覚が狂っていたのか、それとも下手くそだったので付与する予定ではなかったのかのどれかだといい。しかし、無理矢理付け加えた可能性も否めない。ある程度の術者なら成功するが、これを敷いたものの実力がわからないとなんとも言えない。
 ふわりとぬるい風が頬を撫でる。
 そして、その一瞬、影が俺の前を通り過ぎたような気がした。しかしそれは気のせいではなく、目の前を歩いていたニ人はいなくなっており、俺の隣には白い犬しかいなかった。

「わんこ、オマエのご主人様の場所わかる?」
「わふっ!」

 俺がそういうと頷くように答えた。この子達は伏黒の式神だし、本体に何かあれば消えるだろう。今出ているというのは本体に問題がないということだ。
 それにしてもあの風は何だ。呪霊の仕業だろうか。それとも呪詛しか。本体を見てないんじゃあ判断がつかない。それに、資料に書いてあった「急にいなくなった」ということはこういうことなのだろう。死体でも見つけ出して、亡霊に聞くことは出来なくもないが、俺は苦手だ。得意ではない。それに成功率も低いのでやるとしたら万が一の場合だけだ。それにそういうのは秀英(シゥイン)の専門分野だし。
 だが、この原因を探らないと先に進めない。式が役に立つかどうか。
 考えているとぺろりと頬を舐められた。俺があまりにも黙りこくり、足が完全に止まったことを心配してくれたのか犬が「大丈夫だよ」とでもいうように笑っている。

「心配してくれて、ありがとう。いこう」

 わしゃわしゃと犬の頭を撫でた。
 俺は落ち葉を拾い上げ、呪い込めて吹き飛ばす。俺をこの元凶の元へ連れていってくれという想いを込めて。
 人形に切り取られたその葉は夕焼けのように赤く染まり、こちらだと俺たちの道標になった。俺たちはそれに従うように歩いて行く。しかし、俺らはやはり迷い込んだようで、先ほどまでは鳥の鳴き声すら聞こえない。そんな俺の気持ちを落ち着けるように、俺の側にぴったりと寄り添って歩いてくれた。

 どれくらい歩いたのかも分からないが、俺たちは森の奥の開けた所にたどり着いた。そこには大きな樹木が生えており、精錬された空気を感じる。しかし、その樹木の根に埋まるようにヒトらしきものが埋まっていた。
 ポケットから出した折り紙製の式を投げつけてみると、弾かれてしまう。

「え」

 ヒトからは生気は感じられず、その命が既にないことは確実だろう。なら何故弾かれてしまうのだろうか。俺達はある程度距離を保ちながら、その木の周りをゆっくりと歩いてみた。木にはしめ縄が巻かれており、神聖な感じがする。しかし、それと同時にどす黒い何か。それが見えないのが困ってしまう。
 これは大元だが、他にも要因があるのだろう。他の要因は後のニ人が何とかしてくれれば嬉しいのが。
 そう思っていたのに、再び黒い影が俺に差し掛かろうとした。それへ向かい式を投げつけると当たった、否、張り付きたという感覚に思わず口角を上がる。
 俺が上から下へと指を動かすと何かが落ちたような気がしたが、そこには何もない。

「ワンコ、わかる?」
「がう」

 俺の問いに犬は駆け出して、宙に向かって何かに齧り付いたがすぐに抜けでた。俺の目にはそれは何も映らないが、犬の嗅覚には反応したということだろう。
 俺はリコーダーを咥えて、涼やかな音色を鳴らす。その音に合わせるように現れるものは何もなかった。おかしい。こんな山なら普通に死体が転がっていてもおかしくはないのに。何かに阻まれているようだ。
 犬だけでは流石に目の前にいる呪霊と思しきものを祓うのは難しいだろう。何か対策を考えなければ。アレをするにしても本体の位置が分からねば。

 観察しろ。
 思考しろ。
 頭を止めるな。
 足を止めるな。
 大丈夫。
 今なら犬が場所を把握してくれる。

 ふと足元の影が目に入った。その影は一瞬で俺の頬に傷をつけ、そしてすぐに空へと登って行く。しかし、その空には呪霊はおらず、その残穢だけが薄らと残っているような感覚。本体の気配を探しても俺には分からない。
 そこにいるようでいないのだ。
 そういえば『ちいちゃんのかげおくり』のかげおくりは人間の目の錯覚だったか。目の網膜に残った残像がすぐに消えずに残ることだったと思う。この呪霊は残像を残せるとしたら。それも一瞬だけ本物に限りなく近い残像を。そう過程すれば、俺の式や犬が齧り付いたのに捕らえられなかったことに納得がいく。
 しかし、残像として消えた本体がどこへ行くかが分からない。もういっそのこと覆ってしまうか。
 原理はわかった。その捉え方だ。視界で捉えようとするのが、悪いのか。見えないモノを捉える方法。

――あぁ、そうか。

 俺はゆっくりと瞼を閉ざした。一瞬で黒い世界が俺を包み込む。足の先から冷たいものが上がってきて、俺の中にこの地に満ちる怨念が満たされていく。

「ワンコ、お願い」
「がう!」

 主人でもない俺の意図を理解してくれたのか、その嗅覚を利用し、呪霊を追いかける。そして、ある一定のところで飛び上がり、齧り付いた。

「そこだ!」

 俺はその怨念を身体から指先へ流すように動かした。そのタイミングでちょうど犬も地面へと着地する。
 怨念は具現化し黒いモヤのようになる。それが、今まで見えなかったモノを捉えた。それは段々と形を表していき、足が複数本ある蜘蛛のような形状をしていた。俺は手を動かし、そのモヤで繭のように包み込む。呪霊の呻き声は無視。

「封」

 繭は小さくなり、次第に俺の掛け声と共にパンッと音がし、砂のように消え去った。
 そして、ここを覆っていたモノも消えたのか、しめ縄が燃えて塵となり消えて行く。終わったかと思い、脚の力が抜けそうになるところを犬が支えてくれた。

「ありがとう」

 しかし、足の力へなへなと抜けて、犬もたれかかるように座り込んだ。
 暫くするとバタバタと足音が聞こえ、一番初めに現れたのは伏黒だった。

「大丈夫か!?」
「うん、平気。オニーサンは?」
「俺は問題ない。この前見つけた印のついた石を壊したら見つけられた」
「そっか、やっぱり迷子になっていたのは俺だったんだ」

 黒い犬も俺を宥めるようにぺろぺろと頬を舐めてくれた。なんだか一気に体力使い果たした気分。
 もふもふに癒されているとやっと五条センパイがやってきた。

「遅い」
「ごめーん、おやつ買ってた」

 そういうセンパイの手にはオヤツの入ったコンビニ袋が。この人本当にハイキングに来たつもりだったのだろうか。俺があんなに大変な思いをしたというのに。

「ほら、あだ名。気を抜くのはまだ早いよ、がんばれがんばれ」
「五条サンがやればいいんじゃない」
「僕、今両手塞がってるから無理。これあげるから頑張って」

 センパイの言う通り、目の前の木に埋まっていたヒトが動いているのがわかった。これならセンパイがやればいいのにと思っていたのに、彼はそういうとお菓子の袋から苗字名前が使っていた横笛を取り出した。驚いたものの思わず受け取ってしまう。

「…俺、リコーダーしか吹けないよ?」
「何言ってんの。ほら、恵も下がった下がった。巻き込まれるよ」
「は?」

 それは俺もそう思いながら立ち上がる。
 そして受け取った横笛の感覚を確かめるようにくるりと回し、そっと口付けを。その瞬間、騒がしい音が止み、俺の耳には森の声が鮮明に流れ出した。

 仕方がないので、始めようとしよう。
 楽しい森の音楽会を。
 俺の音色に合わせ、森が呼応する。この場に似つかわしくない明るく楽しいサウンドに地面がドラムを叩く。そして、ゆらりゆらり森の奥から迷える屍人達が現れた。全員がまだ肉の残る姿で所々腐りかけている。この森に迷い込んだ人間達だ。
 この森の正体、否、陣を生み出した正体はこのヒトだ。ヒトが人柱としこの森に鎮座した。迷いの陣を生み出し、それを長く止めるためだろう。しかしなぜ、そんなことをしたのかは到底理解できないが、それは後々調べればわかることだろう。
 まぁいい、ヒトが樹木から出てくる前に仕留めてしまおう。オマエも屍の仲間入りだ。俺と同じ死に損ない。

「…これはなんです?」
「苗字家の術式。怨念操術。屍を操る術だ。………ほら、やっぱりちゃあんと蘇ってるじゃん、――」
「五条さん?」
「いや、なんでもない。よく見ときな」

 ニ人が後ろで何か話しているようだが、そんなことは耳に入らない。俺は音に集中する。
 屍人達はその脆く壊れそうな腕で、自身をこんな目に合わせたヒトを傷つけ、刺し、抉り取る。暫くすればそれはヒトではなくなり、肉塊とかしたのだ。
 俺がそっと唇を離すと、それと同時に屍人達も脆く崩れ去っていった。肉体の限界が訪れたのだろう。
 しかし、それは俺も同じ。小学生の体力の限界だった。くらりと身体が後ろへと倒れていく。それと同時に俺の意識も遠のいていきながら、誰かと目があったような気がした。
 しかし、その主を探る前に俺の意識はとぷんと深く暗い闇の底へと沈んでいった。



 気がついた時には誰かの腕の中だった。寝ぼけ眼のまま開ければ、そこにはよく見慣れた青と金。ガミガミと誰かに何かを言っているのが聞こえるが、今の俺にはまるで子守唄のように聞こえ、意思を遠く何処かへ連れて行こうとするが、何とか耐えて目を擦る。

「もう少し寝ていても大丈夫ですよ」
「おきる…」

 幼児にするように優しく背中を撫でられると夢に誘われ、くありと大きな欠伸をこぼした。俺を抱っこしていたのはやはり七海だったようで、肩口に頭を擦り寄せた。

「全く、こんな小さな子どもになにをさせているんですか」
「別に怪我もなかったし、いいでしょ?」
「そういう問題ではありません。……許可なんてださなければよかった」
「?七海サン??」
「気にしないでください、ほら帰りますよ」

 七海は優しく俺の頭を撫でてくれ、俺を抱え直した。慌てて、俺はポケットから絆創膏を取り出してセンパイにあげた。

「包帯ぐるぐる巻きで怪我してるみたいだから、これ、あげる。…またね」

 ぽかんとした様子のセンパイを放置して、俺はセンパイと伏黒に手を振った。

 こうして俺の長く短い一日が終わったのである。

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