- ナノ -

「名前さ〜ん、我が家にようこそ〜! ってことで、最高の夜にカンパーイ!」
「かんぱーい!」
「…………」

 一体、何が起こっているんだ。
 独歩の目の前は、にわかに信じがたい光景が広がっていた。見慣れた自分の部屋で―カミサマと一二三が酒を飲み交わしている。自分とカミサマが、同じ空気を共有している。


 あの日以来、独歩は名刺ケースから名前の名刺を取り出しては眺めるのが何よりの楽しみとなっていた。
 恋に恋する中学生のような、味わったことのない甘酸っぱい気持ちが胸を満たして、自然と頬が緩んでしまう。
 それを見かねた一二三が、呆れたような声で独歩に話しかけたのが今回の発端だった。

「独歩ちんってば乙女だねー。はやく連絡すれば? ……ってか、俺っちイイコト思いついちったんだけど、ウチに名前さん呼べばいんじゃね?」
「……! お前、恐れ多すぎるぞ……カミサマを我が家に降臨させるなんて……」
「へ? 神様? 家に来るお客様まで神様呼びするなんて、いよいよ社畜根性染み付きすぎっしょ〜」
「……そ、それに。こういうの、お前の仕事だとご法度じゃないのか? 店を通さずに会うなんて、」
「あー、裏引きかってこと? 独歩ちんよく知ってんね。でも、同僚とオフで遊んでるのと一緒だし、店的には全くモーマンタイ!」

 独歩がトイレに行っている間、一二三はあっという間にカミサマに連絡をしていたようで、「夜なら来られるってさ」という超弩級の爆弾発言に、全く心の準備が出来ていなかった独歩は卒倒しそうになった。
 一二三をせき立てて家中を掃除し、日が落ちる頃には、なんとか人を上げられるような状態になるまで整えた。

 一息つくのとほぼ同じくして、ピンポーンと鳴る音が聞こえた。独歩は玄関まで一直線に向かってドアを開けたが、相手はしつこい宗教勧誘で、追い返すのに多大な労力を使ってしまった。
 一部始終を見ていた一二三が笑いを堪えて、「名前さん、あと30分くらいで来るってよ」と落ち込む独歩の肩を叩いた。それを先に言えよ、と独歩は決まり悪そうに睨みつけた。

 そして一二三の予告通りの時刻に、以前会った時よりもラフな服装をした名前がインターホンの画面に映り込んだ。
 勢いよくドアを開けながら「いらっしゃいませェーッ!!」と大声を張り上げすぎたせいで、隣人には壁を強めに叩かれ、名前には「独歩くん、ウチのクラブで働く?」とからかわれる始末だったが、不思議とネガティブな感情は湧いてこなかった。


 それから冒頭の状態に戻るのだが、飲み会が始まって1時間以上経過しても、未だ今の状況を飲み込めないでいる独歩は、ビール缶をゆらゆらと揺らしたまま名前を凝視することしか出来なかった。

(ほ、本物の、カミサマだ……)

 話上手な一二三が名前と話しているので、知りたかった情報が恵みの雨のように降り注ぐ。年齢、兄弟姉妹の有無、家の最寄駅、好きな食べ物、休日の過ごし方……。
 一言一句漏らさず聞いているため、脳がそろそろキャパオーバーしそうだ。今まで迷惑をかけられてきたことを全て帳消しにしても良いくらい、独歩は一二三に感謝したい気持ちになっていたのだが。

「名前さん、彼女とは最近どうすか?」
「ああ、ぼちぼち元気でやってるよ」
「え……は……?」

 独歩は思わず声を上げたが、二人には聞こえていなかったらしく、そのまま別の話題へ移っていく。
 その可能性は、全く考えていなかった。独歩は頭が真っ白になる。先程の会話では姉や妹はいないと言い切っていたし、一二三が誤解している可能性はほぼゼロだろう。人に興味がない自分でさえも惹かれる彼に、恋人がいないと考える方がおかしい。
 ああ、一人で勝手に運命的な出会いだと盛り上がって、本当に自分が馬鹿みたいだ。もうだめだ、死のう。

 それからというもの、独歩は自分から何も喋ることができなくなった。何度か名前からも話を振られたような気がするが、上手く返答できた記憶はない。

 がさがさと身支度する音が聞こえて、独歩はハッと意識を取り戻した。

「……そしたら、そろそろお暇しようかな。彼女も腹空かせて待ってるからさ。久しぶりに楽しかったよ」
「駅まで送るっスよ」
「いや、大丈夫。さっきタクシー呼んだ」

 やはり"彼女"の話は精神衛生上良くない。
 子供じみた嫉妬なのは自覚しているだけにバツが悪くなりつつも、最後の一瞬まで名前の姿を目に焼き付けたくて、独歩はノロノロと玄関先まで名前の後をついていく。……恋人がいると分かった時点で、これ以上積極的に行動しても無意味な気もするが。

「じゃあ独歩くん、また今度な」
「は、はい……! またいらしてください、絶対」

 それでも、こうして名前と会話が出来ることに、まだ淡い感情を抱いてしまう。

 知り合って間もないので当たり前だが、カミサマには自分の知らない顔がある。この人のことを知りたい。もっと欲を言うなら、自分だけが知っていればいい。カミサマとの仲を深めていくことができたら、どんなに自分が救われることだろう。
 それに、恋人がいようがいまいが、カミサマと自分の関係は以前に比べて大きく進展しているはずだ。今度の休みにでもイケブクロの萬屋に現状を報告しに行かなければ、と独歩は珍しく自分の気持ちを切り替えることにした。

「あっ、名前さん! これ、彼女さんにどーぞ!」

 どたどたとキッチンから駆け寄ってきた一二三が名前の手の平の上にぽん、と乗せたのは、先日独歩が買った猫餌の缶詰だった。……もしかして、彼女の正体とは。

「おお、サンキュー。早速彼女のミケちゃんに食べさせてみるよ」
「いやありがちだな!!」

 大声を出したせいで、壁を殴る音が隣から聞こえた独歩は、名前が帰った後に一二三と謝りに行くことになったのである。

prev |top| next